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 見よ、この絵画を[図1]。高島田に結った日本髪、そして和装という姿の女性。彼女は、机に肘をつき、顎に少し指を触れ、その両手を緩く重ねている。観者に対してほぼ真横を向いた顔の視線の行方は、その先にある花瓶に活けられた雪柳に至る。しかし、顎の近くに所在なく組まれた両手は、この女性が雪柳を注視しているのでは決してなく、自らの内面における心理の揺れ動きに没入しているのだということを示す。画面のほぼ中央において、女性と雪柳とが対比されているように、女性が纏っている羽織のその膨らみが強調する比較的量感のある形態とは対極的に、他方の雪柳は、その枝が繊細な細い描線で表現されている。観者は、女性の沈思の内実を探ろうと画面に眼を向けるが、その沈思の心情を表わす手がかりが、この細い雪柳であるということを理解するであろう。つまり、この雪柳とは、女性の内面が外化された形象である。雪柳の形象は、いわば、女性の心中における繊細さの象徴として機能する。そのため、一見豊かな形姿を伴う女性であるが、他方、その所在ない身ぶりによって、この雪柳の繊細な形姿をその内面に抱え込むことになる。この形象の二重化と、女性の沈思という没入の仕草は、観者の視線を忘却し、絵画面のなかの空間をその画面内で切り閉じ、自立的なものとする。
 この女性は、無防備なほど他者の視線に対する緊張を欠いているが、その緊張の欠如は、かえって観者の女性に対する感情移入を妨げることになる。無防備な身ぶりであるにもかかわらず、いや、かえってそのために他者の存在を寄せつけないこの女性に対して、観者は決してその美を獲得するための欲望を充足することができない。このディレンマを経た断念は、決して到達することのできないこの美人に対し、「儚さ」という属性を読み取らせる。しかもこの「儚さ」とは、その無防備さゆえに決して崇高な美には結びつかず、むしろこの女性の世俗的な放心を示すものでしかない。その世俗性ゆえ、この女性という美的対象の、反復可能性を示すであろう。瞬間に立ち現われる、しかし再生産可能な儚さに徴しづけられた美。いわば、大衆が、反復的な消費意欲を減じない程度に差異化され、再生産される美である。

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