home documents shop link off the gallery
 
 

[1/3pages]

 須田国太郎は異様な画家である。その異様さは、同時代的動向に回収し得ないある反時代性ゆえに看取されるものであり、それが須田の絵画の特質を形作っていることは間違いない。では須田について、手放しで優れた画家であると言い得るかと言えば、必ずしもそうではない。その短いながらも決して少なくない作品を残した画家は、その画歴において常に充実した作品を継続的に生産し得たわけでもないのだ。しかし、ある達成を見せる幾つかの絵画においては、観る者の意識を繋ぎ止めるに足る、興味深い視点を持っているのは間違いない事実である。
 須田の絵画の異様さについて、その素朴な理由を述べるのは簡単である。端的に言って、ほとんどの絵画においてもその画面が、徹底的に暗いのである。この暗さは、観る者を容易に寄せつけないほどであるし、そのことは、画家の生前より与えられた形容である、須田の絵画の「難解さ」という印象を導くであろう。須田の履歴に即して言うならば、例えば須田自身が所属していた独立美術協会[註1]が大枠としてのその特徴を示す、彩度の高いフォーヴィスティックな明快さは、須田の絵画に全く欠けている。では、その暗さが、ある抒情や詩情のような雰囲気を導き出しているかと言えば、そういうわけでもない。つまり、須田の暗さは何かに寄与するために与えられたものではないように見えるのである。一言で言ってしまえば、須田の暗さは、単に、無媒介的に「暗い」。
 須田の画面の多くは、褐色のトーンが占めており、所々に置かれるより彩度の高い色、そして、しばしば画面前面か最後景に置かれる帯状の黒によって構成される。しかし、この画面の構成は一方で、非常に堅牢な画面を形成する。須田は最初期から晩年にかけて、多くの風景画を手がけているが、とりわけ1920、30年代の作品においては、暗く沈んだ前景のゆえ、後景に広がる光景(家並や山の斜面)のリアリティが強調され、独特なイリュージョンを発生させる。これは、しばしば指摘されるように、主としてバロック絵画を意識した明暗対比に基づくものであるのは確かであるが、バロックに見られるような劇的な光の効果とは随分印象を異にする。というのも、須田の絵画には確かに明暗の効果を認められはするものの、その効果の明瞭さは随分とぼやけたものであるからである。この不明瞭さについて、輪郭のはっきりとしない形体の描写や、彩度や色相の明確な対比を持ち込まず、画面の部分を除いてほとんど褐色から黒の無彩色との間のみで色を扱うことなどに、その理由を指摘することができる。しかしなによりも、絵画面の近くに目を凝らせば理解できるように、まるでクールベによるペインティング・ナイフでの擦れた塗りの効果を思わせるような、いや、それよりもさらに荒れた表面のテクスチュアは、ひょっとすると下層に描かれているかもしれない、あるいは、描かれ得たかもしれない明瞭な形体の立ち現れを想起させる。
 この画家は、一枚の絵画に対して長い時間をかけて慎重に絵具を置き、効果が思わしくない場合には拭い取るか削り取るかをし、さらに絵具を置く、というプロセスを何重か経て画面を組み立てていくという。この漸進的なプロセスに付言すれば、須田は、一度発表された作品に対しても再度手を加え、絵画をさらに変化させるといったことすら行っている。ともあれその結果、現在残された絵画には、そのプロセスを経た荒れた表面が痕跡として記されるわけであるが、形体を区切る輪郭を隔てて全面的に展開する、その荒れたテクスチュアは、絵画を劇的な奥行きの効果よりも、平面的な薄い皮膜に、より近づけるかもしれない。あの使い古された平面性の神話。しかし、「近代」の画家である須田の絵画は、必ずしもその神話に馴染むものではない。成功した作品には、強烈かつ奇妙な奥行きの効果が、明らかに認められるのである。さらに言えば、この奇妙な効果は、他の同時代の画家の作品からは経験できないものでもある。では、この奇妙さは、一体画家自身のどのような目的に差し向けられているのであろうか。

→next

 

| site map | access | contact |
Copyright (c) 2001- photographers' gallery, All Rights Reserved.