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 東京国立近代美術館で開催されている「アジアのキュビスム」展を観た。ポストコロニアリズム以降の現在において、この種の試みが野心的であるという評価を受けるのはもっともであろう。しかしながら、いくつかの重要な点において、この展覧会は批判されるべき問題点を含んでいると思われる。率直に、その問題点をここに指摘しておきたい。
 本展の目論見としては、アジア諸地域におけるキュビスムの受容とその展開を展観し、「アジア」と「キュビスム」すなわち東洋と西洋というボーダーの間にある「対話」のあり方を検証しようという意図が見受けられるであろう。あるいは建畠晢氏がカタログの序論で、ヴァルター・ベンヤミンを引きつつ述べているように、キュビスムのアジア的展開におけるある種の異質さを鑑みれば、これは「対話」というよりも「翻訳」というべきであろうか。結果的には、アジア諸地域の異なる文化的、民族的背景を持った画家たちにおける翻訳の様々な帰結が、組織された展覧会場で、相互の他者性において「対話」を行う、ということも含意されているだろう。
 さて、まずは、この展覧会の構成を簡潔に纏めてみよう。展覧会全体は4つの章に分かれている。1つ目は、「テーブルの上の実験」と題されており、キュビスムに特徴的な(とりわけブラックの絵画に特徴的に現れるところの)テーブルの上の静物というモティーフを扱った作品が参照される。キュビスムにおける平面性という特質において、テーブル(table)とタブロー(tableau)を同一視することは周知であるが、そのようなアナロジーと同時に、テーブルは「つねに複数の人間によって囲まれるものであり、その上で言葉が飛び交う対話の場」(林道郎氏。カタログ所載のテクストから引用。以下特記なき場合、カタログからの引用とする。)としても位置づけられている。すなわち、異なるネーションやエスニシティを背景に持つ、相互に他者である者が対話をおこなう基盤となる、共有される平面としても、テーブルは位置づけられているのだ。
 2つ目は、「キュビスムと近代性」と名付けられている。これは、いわゆる美術史内部の概念としての「近代美術」が名指されている訳ではなく、コスモポリタニズム、都市の近代化、マシーンエイジといった社会的要因に基づく、イタリア未来派やオルフィズムに顕著に見られるような「近代性」である。つまり、キュビスムという「近代美術」の「様式」が問題にされるのではなく、ここでは近代的な都市のイメージを反映したキュビスム的絵画が集められている。
 3つ目は、「身体」と名指されている。このテーマは非常に意図を掴みづらいが、我々の身近なところでは、萬鉄五郎の<もたれて立つ人>のように、還元主義的な形式主義と、「プリミティヴな身体性」、すなわちローカルな身体の表れという相容れない要素が同時に、見出せるという。それは、ピカソの<アヴィニヨンの娘たち>以来の指標である、西洋と非西洋の異種混淆性を引き継ぎ、その特性が、異文化であるアジアにおけるキュビスムの受容をスムーズにしたと指摘される(松本透氏)。
 4つ目は、「キュビスムと国土」と呼ばれる。西洋から移入されたキュビスムという様式が、異文化社会に移入された際、その社会の伝統と媒介されることによって、自らのナショナル・アイデンティティを構成しようとする。そこでは、近代的な国民国家の創成と、近代美術の「近代性」が重ねあわされ、キュビスムはいわば再領土化される。具体的には、伝統的な絵画形式とキュビスムのヴォキャブラリーの近接化、世俗的な民衆の描写、宗教的主題との接近などが挙げられている。

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