|
|
[1/3pages]
本年6月に刊行された、鈴城雅文による『原爆=写真論 「網膜の戦争」をめぐって』(窓社)を取り上げたいと思う。この書物に含まれる論考の全てではないが、読む者に対して、意義のある思索を導く考察が含まれている。本書は、『写真=紙の鏡の神話』(せきた書房、1985)、『写真=その肯定性(フェミニティ)の方位』(御茶の水書房、1992)に続く、同著者による3冊目の著作であり、前著の末尾で語られた、原爆と写真に関するテーマを引き継いでいる。このたび刊行された著作は、表題の「原爆=写真論」のほか、以前の著作においてもしばしばその名が取り上げられていた、レニ・リーフェンシュタールに関する論考、あるいは開高健の小説についての論考、さらに、写真や、眼差し一般に関する論考などが含まれている。しかしながら、「原爆=写真論」以外の論考は、覚書にとどまっており、論考としてのまとまりを欠いているので、ここでは取り上げることはしない。したがって、本書の約半分を占める論考「原爆=写真論」についてのみ、読んでいくことにしよう。
思えば、原爆をテーマにした写真についての纏まった著作を、寡聞にして聞くことがなかった。これは少し考えると異常な事態であったと言えるかもしれない。なぜならば、表象された原爆を我々が事後的に「見る」のは、必ず写真あるいは映画といった記録メディアを通してのことであることは勿論だが、なによりも我々は既に、原爆が投下された広島と長崎のそれぞれにおいて、土門拳による「ヒロシマ」と東松照明による「<11時02分>NAGASAKI」という、少なくとも戦後日本における、重要な写真家による、代表的な作品を持ち得ているからである。もちろん、それぞれの写真家についての作家論としては、これらの作品がその代表作として分析の対象に上げられて来もしたし、彼らの作家歴においても、代表作の一つとして扱われて来もした。しかし、日本の敗戦を示すのみではなく、なによりも大戦における大量虐殺を示す象徴の一つである原爆が、戦後においてそれを表象しようとした取り組みが少なくない写真との関連において、纏まった形で論じられなかったことは、いささか奇異な感じがしないこともない。もし仮に、原爆を表象しようとする写真について語られることが忌避されてきたとするならば、その原因は、それらが余りにも甘いヒューマニズムに接続されてしまう可能性を充分に持ちすぎてしまうこと故かもしれない。しかし、原爆を表象しようとする写真の問題を回避し続けるならば、それは逆にそのような素朴なヒューマニズムを再生産することに加担しかねないのも事実である。その意味において、この著作は、語られなかった原爆を表象しようとする写真について考察する、意義深い第一歩であると言えるだろう。
→next
|
|