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  今年9月4日〜9月20日にかけて、ICANOFによる4回目の企画展「風景の頭部展」が開催された[註1]。私は開催2日目に行われたトーク・セッションのパネラーとして、八戸での展覧会に初めて参加させていただくことが出来た。毎回恒例になっている特別プログラムが、今回もまた濃密なスケジュールで開かれたが、ここではphotographers' galleryのメンバーの1人でもある北島敬三によるワークショップ(以下WS)を目の当たりにして、そこから思い及んだことについて、記しておこうと思う。まず、このWS「えっ!「写真」って、「展示」のことだったの?」が特殊であるのは、一写真家によるWSであるにもかかわらず、写真制作の実践に関するものでは全くなく、タイトルが示すとおり、展示という実践に関するものであったという点である。このことには、従来表現メディアとしては制度的に曖昧な領域に押しやられていた写真が、近年美術館という枠組みに積極的に認定・回収されてきたという経緯に対する、(ICANOF、北島共に)写真実践を行う側からの問い直しという契機が含まれていることを、まず最初に確認しておきたい。
 近代以降の美術館の枠組みを決定した制度は、近代美術の歴史的系譜付けの作業[図1]や、芸術の他ジャンルからの弁別[註2]といった理論的レヴェルにおいても強化されたが、展示という具体的作業においてもまた、その方法論化の過程を経て、その強力な後ろ盾となった。言うまでもなくそれは、ホワイト・キューブ[註3]という「理念」に他ならない。一般にMoMAから始まったとされるホワイト・キューブが、そこに挿入される対象(主に美術作品と呼ばれる対象物)に対して、強力な拘束力を持つ原因は、それが具体的な場所と同伴して機能する理念ではなく、いかなる場所であろうとそこがホワイト・キューブであると一旦認定されてしまいさえすれば、途端にその猛威を振るうということによる。今回会場になった八戸市美術館は、元々税務署として運用されていたとのことであり、新設の美術館がしばしばそうであるようなニュートラルな空間ではなく、扉や電気設備のスイッチ類が、白い壁面上に突起し剥き出しになっているような箇所が多く存在する。しかしながら、そこに展示されるものが美術作品であると認定する限りでは、展示の政治的機能に無自覚であればあるほど、それらの「不純」な要素を捨象し、一般の成人男性の身長において適切な高さに掛け、導線を遵守し、作品相互の意味作用を互いに侵害し合わない程度に適正な間隔をとって、展示してしまうものである。勿論、ここで機能するのは、美術作品を「作品」として認定する強制力であり、すなわちそれは作品を美術史の中へと登録するという歴史化に対する無意識的欲求であり、かつ作品を作品外の他の要素から切断し、純粋な自律的対象として位置付けようとする意志である。このことは逆説的に、ホワイト・キューブの中に代入されるというプロセスさえ踏めば、いかなるものであっても作品という対象物として認定され得てしまうという可能性を内包しており、つまりそこに代入される項は、絵画・彫刻のような古典的ジャンル区分からはみ出るもの(例えば、狭義のデザイン製品など)であっても、そこから排除されることはないということを意味してもいる。典型的な例としては、上記の制度を逆手に取ったマルセル・デュシャンの便器を想起すれば分かり易いであろうが、こと美術史学においても19世紀末期からのバーゼルやウィーンの美術史学派以降、盛んに行われてきた歴史化への意志がもたらす必然的な帰結であるということが出来るかもしれない。

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