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ニュートラルな鑑賞条件を要請する、抽象的な空間に展開する蜃気楼のような「写真作品=芸術写真」とは違い、心霊写真は例えばプリントそのものが宗教的儀礼によって「祓い」を受けるように、何か無気味なものが祟る「もの」として物象化され、畏怖すべきものとして客体化される。客体化された写真は、それ自体交換不可能なものである。ある個人にとって「祟っている」と見なされる一葉の写真は、「その」写真において祟っているのであり、それはなにか他の写真においてではあり得ない。心霊写真において重要なことは、「写真作品=芸術写真」の体験がしばしばイメージの読解作業に従事することに陥りがちであるのに対して、一度見た無気味なイメージは繰り返しの注視を必要とせず、イメージから瞬間的に把握した体験の強度のみにおいてその経験が反復される。作品化された写真は、見ることとそこからその都度受ける体験が不可分であるのに対して、心霊写真において一度得た経験は、瞬時にイメージから切断され、経験の強度のみが自立し続ける。さらに言えば、経験の強度さえ保証され得るならば、内在的にイメージを産出すれば外部の参照項としてのイメージは必ずしも所与ではないということでもあると言えるかもしれない。
無気味なものは、親密さの姿をまとって再帰する。上記のような経験は、E. T. A. ホフマンの「砂男」から、フロイトが読み取った概念のそれ[註4]と近似する経験であるだろう。「無気味なもの」の経験は、必ずしもその客体が現前することを所与とするわけではない。にもかかわらず、それは常に主体に対する外部として「ある」。親密であるがゆえに忌避され、見えていないがゆえに見えるという心霊写真の性質は、「無気味なもの」のパラドキシカルな条件に合致する。フロイトが述べる親密さとは、同一なものの反復を指す。反復による同一なものの二重化(ドッペルゲンガー)は、その二重化ゆえに同一性を保証する主体=自我を欠き、まさしく亡霊(心霊)のような存在になる。フロイトはオットー・ランクの言葉を引きながら、自我の消滅を保証するのは、死を否定すること=不死であると指摘する。「無気味なもの」を経験する強度は、同一なものの反復、フロイトに即して言うならば、反復強迫によって支えられる。この「無気味なもの」=心霊写真の経験における反復強迫は、死の欲動によって駆動させられるわけであり、それは自己の死の欲動を二重化された同一性に外化させることによって、代補的にそれを補填するということにほかならない。
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