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 日本語で書かれた研究書としては、心霊写真について初めて纏まった議論を読むことのできる、一柳廣孝編著『心霊写真は語る』(青弓社)が先頃刊行された。写真というメディアを通じたイメージのインデキシカルな性質を考えるにあたっても、心霊写真とはすぐれてポレミカルなテーマであると言えよう。ベンヤミンがアジェの写真に「犯行現場」の痕跡を見出したことを代表例として、常に写真に現れる「心霊的」な表象のあり方が問題になってきたように思われる。
 私事にわたって恐縮だが、幼い当時、心霊写真が本当に怖かった。私が小学校低学年だった頃、心霊ブームはまだ過ぎ去っておらず、その手のオカルトものに興味津々の同級生やらが、得意気に分厚い文庫サイズの写真集を見せびらかすのであった。あまりの恐怖感ゆえ、瞥見するやいなや、そのイメージが脳裏に焼き付いてしまう私には、それらを凝視するほどの勇気や忍耐の持ち合わせは、当然ながらまったくなかった。振り返ってみると、幼い頃の私が(いや、正直に告白すれば、現在の私にもその多くが当てはまるが)忌避していたのは、心霊写真やその他オカルティズム全般のみならず、「死」を強く想起させるイメージのほとんど全てだった。
 しかし、この『心霊写真は語る』に収められた新旧の心霊写真からは、奇妙なほどに、ほとんど恐怖の感情を得ることがなかった。試みに、1970年代以降の、心霊写真ブームの嚆矢と言われる、中岡俊哉編著『恐怖の心霊写真集』(二見書房、1974)[註1]を見ても、ほとんどがゲシュタルト心理学的な形態把握とキャプションの操作によるものであり、あからさまに像が見えているものでも、二重焼付や撮影ミスによることが明白なものばかりであった。これにはいささか拍子抜けしてしまった。心霊写真が心霊写真として機能し、認定されるためには、ある時代相をプレテクストにする必要があるということであろう。であるならば、恐怖の対象として心霊写真を語るならば、それは、都市民俗学[註2]的視点において解決すべき問題である。その場合、恐怖をめぐる信仰や噂話を成立させる媒体として、写真が選択されているのであり、その媒体はあくまで可変項に過ぎない。ここでは、『心霊写真は語る』所載の論考[註3]から離れてしまうかもしれないが、写真というメディア的特質に即して、心霊写真を考えてみたい。超越的な存在の現れに対しては、原理的なレヴェルにおいて対処を試みるという選択もまた、誤ってはいないと思われる。

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