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現在横浜美術館で開催されている「ノンセクト・ラディカル 現代の写真V」は、出品作家の一人、高嶺格の作品「木村さん」が、猥褻物陳列罪に抵触する可能性があるため、出品中止になるという事件を中心に、話題を集めているようだ。この件をめぐっては、いち早く前田恭二氏のレポートが読売新聞に掲載された(これは展覧会場の壁面に掲示されているものを確認した)のを始め、今後幾つかの議論が出ることが予測される。ここでは、本展チーフ学芸員の天野太郎氏自身もカタログ所載のテクストで「(展覧会の正否の)結果については、鑑賞者の批判を待つしかない」(括弧内は筆者)と述べておられるとおり、批判的言辞に徹することにする。これは、必ずしもこの展覧会に限って、揚げ足取りを試みるところに主眼があるわけではない。むしろ、現代美術におけるグループ展の、美術館におけるその限界において、極めて徴候的であるという理由による。
天野氏のテクスト「場への眼差し」を、冒頭から検討してみよう。タイトルが示すとおり、本展は「現代の写真」という連続企画の第3回目にあたる[註1]。まず、テクスト冒頭において、展覧会を構成する作品が、初回から次第に映像作品が増え、最終回を迎える今回に至っては、9人の出品作家のうち4人の作品が映像を用いていることに対して、つまり「現代の写真」という展覧会タイトルと矛盾をきたすような作品選定になっていることに対して、エクスキューズを行っている。それは、今日の日常において接するイメージが、テレビを筆頭に動画を中心に構成されているという現実を受け、写真という限定されたメディアに「表現のリアリティ」を伝達する能力すべてを負わせるには、限界があるというような由である。しかしここで、「現代の写真」というタイトルそのものを止めればよかろう、というようなごく素朴な疑問を投げかけたとするならば、どのような返答が返ってくるだろうか? つまり、ここで問題にしたいのは「現代の写真」と銘打たれているにもかかわらず映像作品が半数近くを占めていることに対して、何ら積極的なコメントすら述べられていないという事実である。美術館(とりわけ「公立」)という組織において、企画主体たる天野氏にどのような制限があったのか(あるいはなかったのか)は不明であるが、仮に「現代の写真」というテーマの提示が、組織的な運営の枠組のその内部において、遵守すべき項目であったとしても、先に見たようなエクスキューズが必要であるのかどうか、疑問である。上記の説明では、風呂屋という看板を掲げているにもかかわらず、シャワーのほうが現代人にとってより身近な存在であるからという理由で、湯船が全くないというのと、ほぼ同様の論理(?)においてのみしか説明され得ないであろう。このような矛盾と、ある種の中途半端さは、この展覧会全体を通して、通奏低音をなしているように思われる。
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