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 この冬、日本の戦後美術史上での記念碑的作品が、再び制作されるということを知り、東京・町田にある和光大学のキャンパスへ訪れた。今まで語られた文献や記録写真が教えてくれる情報によれば、その作品は、野外へ設置される作品であり、高さが3メートル近くある円筒形のフォルムを持った巨大なものであるという。その作品は、初めて制作された当時、ある野外彫刻展に、その展覧会の会期中のみ仮設的に制作されたものであり、その後一度の再制作の機会を別として、記録としてのみ知ることができる作品となっている。また、日本の戦後美術史を振り返る際に、必須の作品として常に参照され、一つの歴史の転換期を明確に示したものでもある。私自身、いよいよ「それ」が実見できるという事態に対して、相当の期待を持っていた。
 大学の入口に掲げられている案内板によれば、キャンパス内の裏側へと逸れる道を歩んでいくと、「それ」が設置されているはずであった。だが、そこで目の当たりにしたものは、写真によって見慣れているはずの円筒形の巨大な土塊である「それ」ではなく、土の小山でしかなかった。

 1960年代末頃から、日本の現代美術史において重要な動向とされる「もの派」において、主要な作家の一人と見なされる関根伸夫は、1968年に開催された第1回神戸市須磨離宮公園現代彫刻展において、<位相−大地>を出品する。この作品は、直径2m20cm、高さ2m70cmの土でできた円筒形と、それと全く同サイズの、大地に穿たれた穴からなる[註1]。制作の手順としては、穴の部分の土を掘り進めながら、そこから直径の2倍分、4m40cm離れた傍らに先のサイズの円筒形を積み上げていく。つまり、あたかも大地から積み重ねられたシリンダー状の形態を、大地からすっぽり抜き去ったように見せるのである。関根は、この作品を先の展覧会に出品することによって、美術界における評価を確定的にし、この時には大賞に次ぐ賞を獲得している。
 そのような世俗的な評価を別としても、この作品によって、もの派の動向が開始されたことは、ほぼ事実といって良いだろう。現在は著名な美術家である李禹煥は、まだ批評家として認知されていた当時に著したいくつかの論考において、関根のこの<位相−大地>を、その当時主流であった「ネオ・ダダ」を代表するところの「反芸術」的傾向、あるいは「イヴェント」や「ハプニング」のような傾向に対する、明確な転換の契機として捉えた[註2]。また事後的には、もの派の動向は、アメリカではミニマリズムからポスト・ミニマリズムへの移行期、フランスではシュポール/シュルファス、イタリアではアルテ・ポーヴェラといった動向と、時代的にほぼ一致するものとして捉え返され、日本独自の動向であるにもかかわらず、世界的な視座においても同時性を持つものであると、高く評価されることになる。
 日本の美術史上で言えば、この作品は多くのプロブレマティックを内包しており、先に述べたように李禹煥は、現象学を思想的背景として、超歴史的な物自体の顕在化によって世界を一挙に把握するという目論見の現実化したモデルとして、関根の<位相−大地>を当てはめ、それ以前の近代の歴史概念に対置して、近代主義を批判する糸口とした。後にもの派と呼ばれるこのような思想を形成する、ある種のイデオローグ的機能をそのテクストによって果たした李に対して、よりリアル・ポリティクスに関わる「美術家共闘会議」(=美共闘)の中心人物である彦坂尚嘉によって、歴史主義的な相からの、李の非歴史主義[註3]に対する批判といった事態に発展し[註4]、近代主義批判における方法の争点を与えるきっかけとなったのである。

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