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2007/5/3

 

*Sarah J. Rogers (with an essay by Michael Fried), James Welling: Photographs 1974-1999

*ISBN: 1-881390-25-X

*Wexner Center for the Arts, The Ohio State University.

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Sarah J. Rogers (with an essay by Michael Fried), James Welling: Photographs 1974-1999, Wexner Center for the Arts, The Ohio State University.

 マイケル・フリードが写真について語り始めたのは、ほぼ2000年代からである。批評の現場から遠ざかって久しいこの研究者が、一転して写真というメディアに関心を寄せる様を奇異の目で見つめるものは多い。ただしその詳細をつぶさに見るまでもなく、フリードの写真論は「芸術と客体性(Art and Objecthood)」(1967年)からの批評理論を拡張させた、危ういほどの強引さをもった「美術論」である。今一度その理論を整理してみると、以下のようになる。芸術に対立するものとしての演劇、そしてそれを内包した美術作品の「演劇性(theatricality)」を克服するために、最初期には批判の対象であった「没入(absorption)」という態度を観者に媚びることのない反演劇的な要素として組み込んでいる。この論を展開するために、フリードはシャルダンやマネ、イーキンズなどのモダニズム絵画の源流から1990年代に開花するいわゆる「アート・フォトグラフィー」へと跳躍するのは、いわば現在の写真をモダニズム芸術の継承者として見ているからである。しかし、本当にそうなのだろうか?

 今回取り上げるジェームズ・ウェリングの回顧展カタログには、短いフリードの作品論が掲載されている。「ジェームズ・ウェリングの《錠前》(1976年)」と題された、おそらく彼の最初の写真論である。ポラロイド写真やモノクロームの静的な建築写真、手の込んだ抽象的なフォトグラムなど多様な手法を用いるウェリングは、すでに通念と化した写真の言説に批評的観点を持ち込んでいる写真家として、早くから知られるようになる。このポスト・モダニズムに括られる作家に「モダニスト」フリードがアプローチすることは、一見奇妙にすら思えてくる。だがフリードが関心を抱いているのは、この作家がミニマリズムの文脈に接点を持っていることであるようだ。ウェリングはウォーカー・エヴァンスやポール・ストランドなどアメリカ写真を牽引した人物を学ぶと同時に、ロバート・モリス、リチャード・セラ、ロバート・スミッソンなど、ミニマル・アートからランド・アートに至る60 ̄70年代の作家たちに強い影響を受けていた。この事実を踏まえ、フリードは《錠前》にミニマリズムの痕跡をたどると同時に、それが自らの理論に適用可能かどうかを多少控えめに(昨今の彼の論考に比べれば、という留保付きだが)考察している。

 《錠前》は、文字通りある民家のドアノブの下に取り付けられている錠前を写したものだ。それ以上でも、以下でもない。ただの木製の、多少傷ついた錠前である。しかしこのツー・バイ・フォーの建材は部分しか示されておらず、それが錠前だと理解するにはタイトルによる言葉の力を借りるほかない。何の装飾もない四角柱であるこの建材を、プレーンな厚板としての、壁に立てかけられたジョン・マクラッケンの作品に比するものとしてフリードは語る。しかし、彼はここでウェリングがミニマル・アートにはない側面を持ち合わせている、と釘を刺す。つまり、この写真のクローズ・アップは部分のみであって全体を統一するゲシュタルトを発生させないために、ミニマル・アートのような演劇的作用もまた起こらないというわけだ。対象を正確に写すことを目的とした場合、その主題であるはずの錠前すらフレームに収めないために、この作品は失敗作にすら見えるかもしれない。だが写真は、その作品の周りを回って裏側や側面を見ることを強要するようなことはできないし、ウェリングに至ってはそのような演劇的誘惑をかもすこともない。そこに示されたイメージのみであることが、写真の平面媒体としての特性である。これは単に《錠前》においてだけでなく、《ロサンゼルス建築》シリーズや《日記/風景》シリーズにおける一連の作品にも言えることである。この「部分性(partialness)」という語法は、しばしばフリードがアンソニー・カロを評価する際に用いた接合によるシンタクスをほのめかす論点である。次に、暗い露出効果による表面の強調は、素材を顕わにすると同時に各部分のディテールに偏差をもたらすことになる。フリードは部分性、暗い調性、そして表面の強調という三つが相互作用して、写真によるミニマル・アート批判をウェリングによる写真から展開している。

 だが、このフリードの論考はミニマル・アートとの差異を強調する一方で、論点が単発的でいささかまとまりがない。論考の途中で、フリードはウェリングがモダニズムの伝統的系譜に連なる作家かどうかを述べているが、その答えは「イエスであり、ノーである」とするひどく曖昧なものだ。30年前の自らの論考まで持ち出しておいて、ではいったい何のためにウェリング論を書いたのかと、ここで読者は立ち止まってしまう。論考の最後でウェリングの操作による壁のラインについて言及している部分も、それがウェリングの祖父が印刷工であったという歴史的文脈を引き合いに出しているが、これも家族的な記憶の痕跡をほのめかすことの意味を明らかにしていないし、結論部分に持ってくるには筋が通らない。こうした尻切れトンボの論考はフリードの写真論にしばしば見られることで、何か言い知れない居た堪れなさがある。確かにある意味では、ウェリングの作品の特徴をつぶさに描き出しているとは言えるのだが、まるでみずからの理論との接続を果たすだけの目的で語るような、そんな写真への無関心さがフリードの論考には感じられるのだ。

 ただ、フリードの過去の批評を紐解いてみれば、ミニマル・アートにせよ、19世紀の絵画にせよ、彼の理論に使用される特徴から導き出された各要素はこれまであまり表出してこなかった鋭い視点として残ることが多い、ということは述べておくべきかもしれない。激しく批判したミニマル・アートを、最もよく捉えていたのはフリード自身であったということは、ゆるぎない事実としていまだ存在している。ではウェリング論ではどうだろう。

 このフリードの論考は、ウォルター・ベン・マイケルズと並んで写真の「表面」を論題に上げたものとして評価されている。暗い調性のコントロールによって、映し出された対象の表面を浮かび上がらせると同時に、その物質性を越えて写真自身の表面を意識に上らせる。そうしたウェリングの巧みな技量を論じるフリードに、このカタログは印刷をもって応えている。この諧調表現の提示がなければ、そもそもフリードの論旨は成り立たないのだ。だが、その技巧が増せば増すほど、一つの疑問が浮上してくる。写真自身の「表面」とは、いったいどのことを指すのか? イメージと現実との間の仮想的な薄膜を指すのか、印画紙の表面を指すのか、それとも印刷された紙を指すのか?

 一つの例を挙げてみよう。ウェリングの抽象的なアルミホイルの写真は、オール・オーバーに広がるとき、撮影対象の表面と写真の表面が同期する瞬間を描き出している。そこでは当然のごとく奥行きを認知することは困難である。このオール・オーバーは、単に撮影対象の事だけを指しているのではない。調性が起こるとき、その表面は写真自身の表面に接近してゆく。調性が過剰になればなるほど、写し出されているものが判別可能だとしても、イメージの奥行きは削減されていく。ここで一般に言われる言説を思い出してみよう。「写真は必ず何かを写しだしてしまう」。だが光を完全に遮ったとき、写真の表面と対象(闇)は密着する。他方で過剰な光を浴びるとき、写真の表面と対象(光)はおなじく密着する。これに応えるのはフォトグラムであり、ウェリングはこの技法をしばしば使用して作品を制作している。フリードは、暗い調性のコントロールについて言及していた。さらに、「物的なもの(thingness)」というハイデッガーを示唆した現象学的表現も行っている。しかしその視点はほとんど拡張されず、フォトグラムについてもほとんど触れられていない。

 その動因がなんであれ、ウェリングの露出コントロールによってもたらされた写真は、指示対象の表面を「物的なもの」(これをハイデッガーは「自己の‐内に‐立つこと」、さらに「光の‐内に‐立つこと」と言い直している)として存立させることである。だが注意したいのは、ハイデッガーがゴッホの《靴》(1886年)から道具の道具性を導き出したように、《錠前》から錠前の道具性を引き出しているわけではない、ということだ。むしろウェリングは、写真の写真性を引き出している。ハイデッガーが言う「内に(in)」という前置詞は、何かの内部のことではなく、ここでは写真にあまねく広がる写真性、つまり指示対象という表面のことを指している。《錠前》において、指示対象はクローズ・アップという「部分性」によって固定観念としての錠前を逃れ、ただの木片として、しかしその露出の調性によってむしろその表面、たとえば木目に注意を促される。タイトルの存在は、指示対象を再び「錠前」へと、周回遅れの固有名を投げかける。この周期を経るとき、指示対象自体にはある「表面」が生まれるだろう。ウェリングの写真がときに鬱屈した不鮮明さを感じるのは、そんな指示対象のむき出しの表面を見るからなのかもしれない。

 フリードが「物的なもの」を挙げ、暗い調性のコントロールから写真の表面を語ったとき、すでに素材は十分に揃っていた。彼はミニマル・アートへの言及より、写真そのものについて述べるべきであったと私には思えるのだが、いつも思わせぶりな言葉を残して筆を置くこの批評家が果たしてそのことを考えているのか、今のところ私に知るすべはない。



※以下のサイトでウェリングの近作を見ることができます。
 David Zwirner http://www.davidzwirner.com/
 
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