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2006/1/13

 

*Olafur Eliasson, Your Lighthouse: Works with Light 1991-2004

*Hatje Cantz, 2004.
ISBN: 3775714405

*Holger Broeker, Richard Dawkins, Jonathan Crary, Annelie Lutgens

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Olafur Eliasson, Your Lighthouse: Works with Light 1991-2004


 光のアーティストとしてのオラファー・エリアソンを描き出す。本書は、その目的のために企画された書籍である。それ故これはいわゆるカタログ・レゾネではない。しかし、それに匹敵するほどの質を有した、エリアソンの作品を十分に堪能することができる一冊といえるだろう。というのも、本書はヴォルフスブルク美術館の開館10周年を記念して開かれた展覧会のカタログなのだが、展示された作品の10倍以上の作品リスト(展示作品14点に対し、掲載作品146点)を年代順に掲載し、作品ひとつひとつに解説を加えているのである。明らかに、企画者は書籍出版に第一の意義を見出しているのが見て取れる。ドイツの美術出版社としては老舗であるハッチェ・カンツから書籍を出版することも、そうした理由の一つだろう。

 カタログ制作は作家にとって作品の一部にも相当する。コンセプトを重視する作家であれば、なおのことカタログにかける比重は大きい。中には掲載する論考を吟味する作家も少なくはないし、エリアソンもその一人であることはほぼ間違いない。2003年にドイツ、カールスルーエのZKM(英名はセンター・フォー・ニューアート&メディア)で開かれた「Surroundings Surrounded」展のカタログは700頁を超える大部の書籍なのだが、上記の意味でいえば極めて特異な存在である。科学者や美術評論家など、各方面から集められた論考の束は、ほとんど通常の展覧会カタログとは呼べないほど多岐にわたり、科学と芸術の関係性をそのリストによって提示してみせる[註]。今回のカタログもそういったコンセプトを受け継ぎ、本書に掲載されている四本の論考のうち半分は直接エリアソンを扱ったものではなく、他の書籍からの抜粋となっている。ひとつは生物学者リチャード・ドーキンスの『虹の解体』第三章、「星の世界のバーコード」の一部であり、もうひとつは最近翻訳が再版されたジョナサン・クレーリーの『観察者の系譜』第五章、「視覚的=幻視的抽象化」からである。どちらも邦訳で手に入るので、本書をご覧になる場合には参考にしていただきたい。

 残りの二つの論考は、どちらもヴォルフスブルク美術館の学芸員によるものである。アネリー・リュートゲンズは美術史における光の系譜をたどり、オルガー・ブローカーはエリアソンの作品分析を行いながら、その全体像を掴もうと試みている。これら四つの論考の構成は、光の科学的な分析(ドーキンス)や西洋の視覚認識の歴史(クレーリー)という遠回りをしながら、エリアソンの扱う問題圏を浮かび上がらせ、美術史的展望(リュートゲンズ)を確認したのち具体的な作品を見ていく(ブローカー)ことで、エリアソンの「光」に関する射程を描き出すことにある。ここで我々はブローカーの論考を基礎としながら、各論考を往復させながらみていくことにしよう。目下我々の関心は、エリアソンにこそあるからである。それを行うことができるだけの作品リストが、本書にはある。

 ブローカーの第一の指摘は、自然現象を限定された空間で再現することによって、その性質を観者に半ば「強制的に」体験させる、ということである。典型的なものは2003年にテート・モダンで開かれた「ウェザー・プロジェクト」展の太陽を模した作品(本書166頁)だが、ちょうど原美術館でエリアソン展が開かれているので(2006年3月5日まで開催)、できる限り出品されているものを挙げるのがいいだろう。ひとつは《単色の部屋と風が吹くコーナー》(1998年、本書84頁)である。黄色一色の光で満たされた部屋は、あらゆるものを黄色と黒(もしくはセピア)の二色に染め上げる。部屋の脇には仮設されたコーナーに小型のファンがいくつも垂直に配置されていて、部屋に入る者に風の歓待をもたらしている。光と風という自然現象に焦点を当てたこの作品は、訪れる者を作品内部に引き込み、諸現象を人間と共有させる。エリアソンの特徴は、「対象と受容者との間の関係」をより際立たせるために、それ以外の要素を極力排除しているということである。人は黄色い光に接することになるのだが、強すぎる光によって影である黒以外に色彩を認知することができない。この作品に取り込まれた者は、黄色い光と風のみに接することで、その性質を問うことを容易にするだろう。

 こうした観者をとりこむ光の作品を、リュートゲンズはブルース・ナウマンやドイツのゼロ・グループなど60・70年代のアーティストに結び付けているが、「自らが見ているのが見えること」というジェームズ・タレルの言葉は、内省的に自己を観察するエリアソンのテーマとの共通性を示している(エリアソンには同様のタイトルの作品《見ているあなたが見える》(2001年、本書125頁)がある)。内省は自らのおかれた状況(空間)を客観的に把握しようとする行為である。そういった空間認識の要請を積極的に取り入れようとする作家が登場してくるのが、この60・70年代だったのである。ブローカーも指摘していることだが、彼らの光の使用は現象学的な問題設定である「物質化の謎」に対する考察を、我々に差し向けているのである。それはミニマリズムの問題圏では、抽象表現主義への抵抗として登場してくる一方で、エリアソンのそれはオブジェ志向だった80年代の美術マーケットへの抵抗に、その一端があるといえるだろう。

 30年前の動向との類似性は、使用する素材だけではなく再現する装置自体を観者の前に隠すことなく配置するという、その提示方法にもある。《四隅をさす光》(2004年、本書176頁)はスポットライトの光を分光フィルターで分解し、ホワイトキューブの四隅に投影する作品なのだが、もちろん光だけでなくスポットライトもむき出しの状態で設置されているために、その仕組みをくまなく観察することができる。それは研究のための実験室に見紛うほどだ。四色の光は薄暗い室内を幻想的に照らし出しているものの、光源の装置が中心に置かれていることで現実の空間として把握せざるをえなくなる。次のドーキンスの言葉は、科学と芸術の両者にとって再考せねばならないことだろう。「不可思議なものは、たとえそれが説明されてしまった後もその詩性を失わない。それどころか全く逆に、説明することによってその不可思議なものがより美しくなることがあるのだ」(本書12頁)。また先の内省に関わってくることでもあるが、こうした実験装置の提示は、「光」という隠喩性への深い没入を避ける意味で重要である。視覚的現象を認知するためには、一度そうした没入の一歩手前にとどまり、自らを観察することが要請される。

 分解された光はそれを見ている者の体を乗り越えて、部屋の隅に到達する。そこでは人間の身体をも作品の一部として構成している。ゲシュタルト心理学を学んだエリアソンは、光の投影という現象と照明器具の物理的対象を、一つの作品内部に取り込むことで構造化することを考えている。こうした「現象から空間への分離することのない移行」(本書45頁)は、天井から降り注ぐ水のカーテンに照射された光が虹を形成する《美》(1993年、本書65頁)に特徴的に現れている。ドーキンスは虹の構造をプリズムとして働く「凹面鏡」と説明した。ためしにこの水のカーテンをスポットライトと向き合う方向から眺めると、凹面鏡としての機能がそがれて虹は消失してしまう。それは当たり前のことなのだが、それでも我々はこの作品の周囲をぐるぐる回りながら、鑑賞すべきある一点を探すことになる。おそらく虹が円形になる場所がこの作品を鑑賞する最もよい位置なのだろうが、むしろ重要なのはそれを観察しながら歩き、虹の現象する様を確認するプロセスなのだ。それを体験することで、虹は彼の地にそびえる橋ではなく、我々の眼に差し向けられた幾多の光であることに、あらためて気がつくことになるだろう。

 こうした観察する行為と身体(としての眼)との関連性は、ジョナサン・クレーリーによって描き出されている。クレーリーは近代以前にカメラ・オブスキュラが持っていた象徴的機能、つまり「外部世界と内部の表象=再現作用との対応を保証し、管理下において、無秩序なもの、法に従わないものを排除する」機能が、19世紀前半の視覚認識の変動にともなっていかに変化したかを論じているが、このことは「観察者」の態度の変更とも一致している。その例として挙がっているのが、ターナーである。クレーリーの分析によると、ターナーは太陽を直視することで受ける身体的な知覚現象を、そのまま絵画におこしているという。あのぼんやりとした輪郭を持つ抽象的な絵画は、太陽の強烈な光によって網膜に焼きついた残像、それも彼自らの自律した眼の現象を、キャンバスに刻印したものである。エリアソンの《あなたに映る青の残像》(2000年、104頁)は、まさにターナーが受けた「太陽経験」を、観者にも共有させる作品といえるだろう。スポットライトは壁面にオレンジの矩形を投影し、15秒後に消失する。観者の網膜にはオレンジの矩形が残した残像が浮かび上がり、その色彩は補色である青となる。「実際そのときに起こるのは、あなたの眼に投影された反転したイメージ、相補的なイメージなのです。しばらくの間、あなたはプロジェクタとなるでしょう」(本書50頁)。
 
 エリアソンが提示する方法は、「参加型」という形式とは少々異なっている。たとえば作品にゲーム性を盛り込むことで観者を参加させるという昨今多く見受けられる諸作品は、考察が足りないためかゲーム性に引きずられて作家の意図にまでたどり着けないものが多い。加えて、参加型に惹き付けられる作家自身がそもそもダイアローグという言葉の罠に陥っているのである。彼らはオクタビオ・パスが以下の一節で喚起している矛盾に無自覚である。「ダイアローグは複数性に依拠し、モノローグは同一性に依拠している。前者の矛盾は、各自が他者と話すときに、自分自身と話していることにあり、後者の矛盾は、わたしがわたし自身にむけていうことを聞いているのが、決してわたしではなく他者であることにある」(オクタビオ・パス『弓と竪琴』)。エリアソンの方法は、パスの言うところの後者に属する矛盾なのだろう。この矛盾は、抜粋された章とは別の箇所でクレーリーが論じているステレオスコープの「めまい」にも似た錯視の効果に、象徴的に現れている。それは視覚の混乱が身体の実在性の揺らぎを触発させ、観者の置かれている空間を再布置化するという、分離・統合の過程である。

 だが、エリアソンの《カメラ・オブスキュラ》(1999年、本書91頁)は再び外的世界を身体から分割させるように見えないだろうか?この点でブローカーは、エリアソンのカメラ・オブスキュラを論考の参照項としてだけ用いており、その作品自身についての分析を回避している。エリアソンの意図は単なるアイロニーにあるとも思えないが、クレーリーを肯定するならばこの作品の方途が見えないのは確かである(カメラ・オブスキュラの作品の多くが「作家所蔵」であることも気にかかる点ではある)。考えてみればこれは、「見ることを見ること」という行為が過剰になった分裂病者のように、身体という洞穴の中から外部の光景を眺める分裂した自己のようにもみえる。原美術館の展示でも感じたことだが、この作品はその意味で明らかに違和感をもたらしていた。この種の「自己」を主題とした作品は、意識過剰の病理という危機に接している。それは西欧の視覚認識特有の現象ともいえなくはないものの、クレーリーが末尾で述べるように、「20世紀のイメージ産業とスペクタクルの総体こそが、この観察者が残した莫大な遺産なのである」(本書31頁)。

 この遺産に浴しているのはむしろ我々日本人かもしれない。インターネットの環境では、観察者は履歴というかたちで他者によって逆監視されている。無数にそびえるパノプティコンの監視塔で、顔の見えないお互いを監視し続ける我々は、その隠された顔を偽造さえして他者のさらなる観察を喚起しようとするのである。それは自己を内省することではなく、理想的な外見を仮設することで自己を外部化する作業なのだ。このような社会の中で、エリアソンは視覚だけでなくそれが依拠する身体に働きかけるような作品を提示してみせる。彼のカメラ・オブスキュラの存在は、そうした作品体験そのものをさらに相対化する、相補的な作品だといえるだろう。同様の関係性は、本書の作品リストでも確認できることである。作品の大きさやその特性から展覧会ではそれほど多くの作品をみることができないが、本書は作品同士の比較を可能にする意味でも、作品そのものとの相補関係にあるのである。



[註] そもそもZKM自体が芸術と科学をテーマに設立された機関であるだけに、この出版物はその性格を色濃く反映したものともいえる。たとえばブルーノ・ラトゥールとペーター・ヴァイベルが企画した『Iconoclash: Beyond the Image Wars in Science, Religion and Art』(MIT Press, 2002)は、タイトルにもあるように科学と宗教、芸術におけるイメージについて採り上げた展覧会で、デューラーから杉本博司まで幅広く作家を取り上げている。情報量という点で言えば同じキュレーター陣が昨年秋に企画した『Making Things Public: Atmospheres of Democracy』(MIT Press, 2005)などは、ゆうに1000ページを超える大著で、これもZKMの一つの特徴を成している。

関連サイト

*Hatje Cantz Verlag: http://www.hatjecantz.de/index.php
*Kunstmuseum Wolfsbrug: http://www.kunstmuseum-wolfsburg.de
*Olafur Eliasson Official Website: http://www.olafureliasson.net
*Tanya Bonakdar Gallery:
http://www.tanyabonakdargallery.com/artist.php?art_name=Olafur%20Eliasson
*Tate Modern: http://www.tate.org.uk/modern/
*ZKM: http://www.zkm.de
*原美術館: www.haramuseum.or.jp
*ギャラリー小柳: http://www.gallerykoyanagi.com/
*マサタカ・ハヤカワ・ギャラリー: http://www.masatakahayakawa.co.jp
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