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2005/12/2
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Candida Hofer , Constance Glenn , Mary-kay
Lombino , Virginia Heckert
『Architecture Of Absence』
■書籍データ
* 言語:英語
* ハードカバー: 111 p ;
* 出版社: Aperture ;
ISBN: 1931788480 ; (2004/10/31)
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▼002
Candida Hoefer, Architecture of Absence, Aperture, 2004.
遅れてきたベッヒャー・シューレ(派)。カンディダ・へーファーの「遅れ」は、何も活動を休止していたというわけではない。それはアメリカの美術マーケットに登場していなかった、という意味での「遅れ」である。デュッセルドルフ美術アカデミーでベッヒャー夫妻に学んだ第一世代は、今世界各地に活動の場を広げるほどの活躍を見せている。アンドレアス・グルスキーをはじめ、トーマス・ルフ、アクセル・ヒュッテ、トーマス・シュトゥルートといった人たちはアメリカ各地でいくつもの展覧会を経験しているが、同世代のへーファーのアメリカでの紹介は一部のギャラリーで行われる程度で、30年のキャリアがありながも大規模な個展を美術館で開くことはつい最近までなかったのである。今回とりあげる『Architecture
of Absence(不在の建築)』は、アメリカにおける巡回展のための展覧会カタログである。この展覧会には写真関係の出版をいくつも手がけている非営利団体のアパチャー財団が参画しており、カタログ制作を担当している。(展覧会は最初の開催地であるカリフォルニア州立ロングビーチ大学美術館とフロリダ州のノートン美術館が企画し、巡回は2007年1月まで続く予定)
ヘーファーの構成方法を見てみると、幾何学的形態の利用、同一構造物を別の角度から撮影するといった手法など、ベッヒャーの教えが生きているのを感じ取ることができるのだが、作品を熟覧するかぎり言われているほどの同一性はない。そのことを論題にあげているのは、カタログに寄稿しているヴァージニア・ヘッカートである。ヘッカートはベッヒャー夫妻に対してよく取り上げられるドイツ写真の伝統、1920年代から30年代にかけて流行した「ノイエ・ザッハリヒカイト(新・即物主義)」の写真家たちとヘーファーを比較し、その類似性と差異を論じている。例として挙げられているのはアルベルト・レンガー=パッチュ、ヴェルナー・マンツ、マックス・クライエフスキー、カール・フーゴ・シュモルツの四人の作品である。論考に使われた写真を見ると、確かにヘーファーの写真の原型ではないかと思わせるほどの類似性をみせているが、決定的に異なるのはどの写真にも人間の痕跡をたどる要素が欠けている点だろう。即物主義と言われるだけあって、完全に写真のフレームから人物をそぎ落として対象のみを撮影した4人の先達に対し、ヘーファーの写真にはその場をつい先ほどまで人々が使用していたかのような、霊妙な雰囲気が漂う。
ここで撮影のタイミングを計るために長時間待機し、人が捌けた瞬間を狙っているヘーファーの姿を自然と想像してしまうのは、先ごろドイツのシルマー/モーゼル社から出版された彼女の新しい写真集、『Libraries』を見たからかもしれない。この写真集を参照する限り、「人物を撮影しない」というテーゼは客観性を固守するためではないことがわかる。もちろんそのほとんどが人物のいない写真ばかりではあるが、中にはうっかり(かどうかは判別しがたいものの)写り込んでしまった図書館利用者の姿がフレームの隅にたたずんでいるものがある(《Deichmanske
Biblioteket Oslo III》、2000年)。この経験をもとに本書をつぶさに観察してみると、読み飛ばしてしまうほどの控えめさで人物が何人か写っている作品を発見することができる(《BNF
Paris XX》、1998年、52頁)。
ヘーファーの撮影対象を振り返ってみると、美術館、図書館、劇場、駅、ホテルのラウンジなど、そのほとんどが人々の往来する公共施設だった。ベッヒャー夫妻や新・側物主義の写真家が客観性と機械性を強調するのに対し、ヘーファーはそこに社会性という要素を盛り込んでいる。だが学友アンドレアス・グルスキーのように、人々の活動そのものを強調しすぎることはない。ヘーファーはベッヒャー夫妻の方法論を客観性ではなく不在としてとらえている。不在が成立するのは、かつて何ものかが存在していた所以である。このヴォイドとしての不在を利用している意味で、痕跡や過去の記憶をテーマにする写真家を挙げるのはたやすいが、ヘーファーが撮影する公共施設は今も人々に利用されている現役の構造物である点で異なっている。それは不在の中でも「一瞬の不在」がもたらす、普段現われることのない建築のもう一つの姿なのである。
「一瞬の不在」をいかに表現するのか。そこでヘーファーが用いているのは、撮影位置の選択と光の効果である。ヘーファーの撮影方法は概ね正面か斜め45度周辺、そして曲線の構造を生かすために角度が曖昧になっているものの三つに分けることができるが、最初の二つの要素には必ずどこかに中心軸を設けている。正面の構図は軸を中心に置きシンメトリカルに、そして45度の構図には室内の角を利用して一点透視法的に構成している(ときとして二点透視法を用いることもある)。マリー=ケイ・ロンビーノがこの特徴に言及しているが、特にそれは空白の観念と対立するような、過剰に装飾されたバロック様式の部屋を撮影するときに有効に機能する。「ヘーファーは彼女の主題に潜在するシンメトリーと直線を強調し、剰余と空白の両方を同時に身体化する作品を作り上げることによって、この障害に打ち勝っている」(本書25頁)。
だが一方でモダニズム建築を撮影した作品の一部には、この剰余と空白の対立項を元々有していないがために、しばしば宗教的な儀式を思わせるほどの厳粛さをかもし出す。その効果は窓から差し込む外光によってすこしく強められているが、ヘーファーの作品は必ずと言っていいほど陽の光の強い時間を狙って撮影されている。このために窓の外に広がる世界は陽光によって平板化し、見るものを室内にだけ注目させる点で、どこか教会の礼拝堂を思わせるところがある。ロングビーチ大学のコンスタンス・W・グレンが述べる、光のもたらす白の色彩と不在の関係もその一因として挙げられるかもしれない。ただ、ヘーファーに見られる白の色彩は、グレンが色彩理論を持ち出して指摘する「全ての色彩の不在」よりもむしろ、色彩の過剰としての白、と言うべきではないか。周知の通りスペクトル分解された色彩を再び混合すると、結果は白色になる。色彩の過剰は必然的に我々に不在を要求させる。建築に反射する光の帯は、その過剰さゆえに建築を、そして建築内部にある事物を否応なく孤立させるのである。そこに不在が発生する――それもある刹那において。とはいえそれが宗教的な崇高さに至ることはまれだ。ヘーファーがとらえる細密なディテールや豊かな色彩は、宗教的な厳粛さをむしろ日常的な静けさに変換している。
カラー写真は我々の視覚により近いために、日常性の痕跡を色濃く残す。上記の三人の寄稿者に共通したヘーファーの社会性という言及も、この色彩の力が大きい。だが強すぎる色彩のコントラストは日常性をそぎ落とし、窓から差し込む輝かしい光はどこか霊妙な雰囲気をつくりだす。空間に密集する多くの事物に対して人物の不在。色彩の多寡。ヘーファーの作品にある美学は、この過剰と欠如の往復運動によって成り立っている。しかもそれが行われているのは、今も不特定多数の人々が利用する公共施設である。それらの建築は社会と密接に結びついていることを、ヘーファーの持ち込む「不在」は示している。この社会性という点で、ベッヒャー夫妻が2002年に上梓した『Industrial
Landscape(産業風景)』(MIT Press)は、今まで産業施設の類型的撮影という方法論ばかりが強調されすぎていたベッヒャー夫妻の作品を、それらが活動していた社会の中に今一度置きなおす試みとして特筆すべきだろう。この写真集に掲載されている作品は、初期から連綿と都市景観を撮り続けていたことを示してくれる。社会性という要素はおそらくベッヒャー夫妻にも外すことのできないテーマだったに違いない。いやむしろベッヒャー夫妻のこの社会への視点を吸収したのが、ヘーファーを初めとするベッヒャー派だったといえる。ヘーファーの作品をたどる意味で、今後ベッヒャー夫妻の「タイポロジー」を再考することも、あるいは有効なのかもしれない。
*以下のサイトでカンディダ・ヘーファーの作品を見ることができます。
Sonnabend Gallery
http://www.artnet.com/gallery/139120/sonnabend-gallery.html
Rena Bransten Gallery
http://www.renabranstengallery.com/hofer.html
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