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last up date 2008.02.16
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12.04. 黒白1

 「六本木クロッシング2007 未来への脈動」(10月13日−2008年1月14日、東京・六本木/森美術館)と、「SPACE FOR YOUR FUTURE アートとデザインの遺伝子を組み替える」(10月27日−2008年1月20日、東京・木場/東京都現代美術館)について。秋口から始まった2つの展覧会はつい比較を誘う。ともにジャンル横断的な構えを取る。一方は「クロッシング」、他方は「アートとデザインの遺伝子を組み替える」と銘打つ。どちらがよかった、といった話も現代美術村のソン内で聞かれる。意見は分かれるようだ。まず「六本木クロッシング」について。2回目の本展も複数キュレイター制を採る。顔触れは天野一夫、佐藤直樹、椹木野衣に森美術館の荒木夏実。領域横断的という意味では、入り口のエスカレーターを昇るところに銭湯の絵を描いている方の作品があったり、横山裕一の漫画があったり、という具合。その漫画については以前から読んでいたが、この会場によくなじんでいるように見えた。逆に言うと、驚きはなかった。内覧会に加え、再度出かけてみた展覧会だが、全体としてもそういう印象だった。なぜなのか、それがむしろ気になるほどに。一つの説明の仕方を考えてみる。領域横断がそれと分かるためには当然ながら、領域が画定されていなければならない。だが現状は画定的ではない。日本から出て、近年最も大きな成功を収めた美術家は村上隆だが、その村上自身、領域横断的な構えを取ってきた。領域の不画定さを方法として取り込み、説明可能な形で提示してきたとも言える。むろん日本だけの話ではないのだろう。ともあれ領域横断性が現実的だとすれば、虚構生産力は持ち得ない。それがあるいは、見やすさの印象につながっているのかもしれない、とまあ、そういう説明の仕方もあり得るかな、と思いながら会場を歩いた。


12.04. 黒白2

 そんな中で興味を持った一つは、椹木野衣がカタログに寄せた文章。ある歯切れの悪さが含まれているようで、それゆえ「クロッシング」ということをシリアスに受け止めている感じがする。椹木はまず、交差を実現する行き方として、ジョン・ケージのいう「サーカスの状況」を挙げる。あらゆる統御の放棄と言えば早いか。読者としては先の横浜トリエンナーレが「アート・サーカス」と掲げていたことを思い出すわけだが、ともあれ椹木は統御の放棄は展覧会である以上、不可能だとして「サーカスの状況」の話を打ち切り、内部と外部の関係に転じる。「こちら」と「あちら」という言い方もしている。越境は内部と外部、「こちら」と「あちら」の往還ではないと椹木はいう。森敦を参照しながら、内部は無限であり、なおかつ外部も無限である以上、原理的に言って互いに参照点を持つだろう、その参照を可能にさせるような仕事こそが越境的だと記している。具体的にどんな作品を指すのか、それも含めて決して分かりやすいわけではないのだが、さしあたり内部を「こちら」とも呼んでいるのだから、そこには内部を内部と名指す者がいるだろう。その者が認識可能な圏内と言えるかもしれない。この言い換えのままに進めば、圏内において参照点を作り出し、それによって了解不可能な圏外を示唆するような作品ということになる。話を認識論にすり替えた気もするが、その前提で、椹木のいうような作品と言えば、トポロジカルな操作を好んだタイガー立石の絵なのかもしれないが、それも少し違う気がする。本展を見てよかったと思わせた、必ずしも多くなかった作品の一つは飴屋法水の「阿呆」だった。鉄球の下に、見ざる聞かざる言わざるの三猿のようなものとマッチの木彫を配している。何かの社会批判を読み取ることもできるのかもしれない。しかし、それ以上に理路を推し量れず、それゆえ会場に何やら黒い穴があいたかのような印象を与えていた。いま穴と言ったが、それが外部への参照点と椹木が呼ぶものにあたるのかもしれない。ちなみに写真作品は、内原恭彦、内山英明、春木麻衣子といった顔触れが出品していた。


12.04. 黒白3

 「クロッシング」は別に黒ッシングではないが、「SPACE FOR YOUR FUTURE アートとデザインの遺伝子を組み替える」の方は白の印象が強い。領域横断的ということで言うと、こちらの方がうまく行っていた。というのはアート、デザインが双方ともかかわるところの「空間」という項を設けているからで、空調設備の企業ダイキンのプロジェクトまで組み入れ得ていた。「空間」と言う以上、展示の技術も当然気になるところだが、岸壁で踊るようにスケートボードをするショーン・グラッドウェルの映像作品で巨大な壁をもたせるあたり、さりげなくもうまい。冷静に考えると、どうかなと思わせる作品もあるが、それが目立たないのも一つに、展示技術によるところが大きい。そしてもう一つはフセイン・チャラヤン、オラファー・エリアソン、エルネスト・ネトといったビッグネームを配していることだろう。ある知り合いの女性が言うには、「六本木クロッシング」との違いは「外タレがいるかいないかでしょ?」。そう言っては身も蓋もないけれど。ともあれ、この展覧会の特徴をもう一つ言うとすれば、展覧会タイトルを略した「SF」感だろう。空間にかかわっていくそれぞれの仕事は、それこそSF的な白のイメージに包み込まれ、逆に言えば、いま、この東京という場所とどういうつながりがあるのか、そのリンクはあまり見えてこなかった。写真作品としては、まず蜷川実花。それからタナカノリユキによる、沢尻エリカの百面相的な作品があった。


12.14. 理路

 「土田ヒロミのニッポン」展(12月15日−2008年2月20日、東京・恵比寿/東京都写真美術館)。この日は内覧会。美的な達成、なかでもモダンなそれを外していく土田の面白さを堪能する。例えば祭りの仮面・装束をまとった人々を、白バックのスタジオ写真よろしく撮った「続・俗神」は、多くの人をぼう然とさせかねない。大切なのは、正しくぼう然することではなかろうか。このシリーズ、無背景のスタイルは「日本のまつりを記号化」と紹介されている。ほかに「砂を数える」から「新・砂を数える」への移行は群衆像の変化ということで説明されている。つまり理路が明かされている。しかし、なるほどと膝を打つ前に、その理路で「続・俗神」や「新・砂を数える」の奇妙さが解消するかどうかも、一考されてよいのだろう。カタログ所収、木下直之の「土田ヒロミのスカスカ、ダラダラ、バラバラ」はその理路とは一線を画していて、やはり読ませる。逆に本展で残念だったのは「砂を数える」の展示方法。写っている人の数が比較的少ないカットに始まり、だんだん写っている人数が増え、砂粒のようになるように整序した形で展示が行われている。「砂を数える」のタイトルがまさに、この展示を呼び寄せているにせよ、その分かりやすさは本シリーズが持つ、何とも中途半端で、独特な距離感を見えにくくさせていたように思う。


12.19. 写真文庫

 「にっぽん1950年代」展(作品編=11月27日−12月24日、資料編=12月11日−12月24日、東京・一番町/JCIIフォトサロン)。年末恒例となった、名取洋之助関係の展覧会。今回は「岩波写真文庫」がテーマ。赤瀬川原平セレクトで復刻されたり、ちょっと注目を集めている「岩波写真文庫」だが、作品編では東松照明「やきものの町 瀬戸」の版下原稿が出ていたり、名取が離島を撮った「忘れられた島」の写真が出ていたり。「忘れられた島」というタイトルといい、離島を強調する撮り口といい、すごいことだ。さらに壮観だったのが資料編で、全286冊が壁面に並んでいる。都道府県別の地誌シリーズの完結を一つの節目に終了したシリーズだが、この展示は科学、芸術などにわたる戦後日本の関心の地図とでもいうべきものを見る思いにさせた。

 

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