06.22. 拡張
「野村仁 変化する相−時・場・身体」(5月27日−7月27日、東京・六本木/国立新美術館)。段ボールの構築物が自重で崩れ落ちる1969年の「Tardiology」にはじまり、天体観測などを経て、最後はソーラーカーによるアメリカ横断に至る、盛りだくさんな回顧展。その軌跡は認識の拡張に貫かれているわけだが、それを導いたのは記録メディア、なかんずく写真と言ってよい。「Tardiology」自体、その崩壊過程は写真によって記録されている。72年から83年にわたり、ムービーカメラのこま撮り機能を用いて身辺を撮り続け、膨大なフォトブックにまとめた「Ten-Year Photobook又は視覚のブラウン運動」も出品されている。そこに記録された日常の断片は、写真なかりせば認識することはできない。写真が認識の拡張を可能にしたのである。もっとも、今回は観客1人あたり1冊しか見ることができない。何冊か見ることができれば、その途方に暮れさせる感覚をいっそう体感できたのに、とちょっと残念だったが、写真論的な観点からは必見の展覧会には違いない。
06.22. それはさておき
野村仁展のカタログを眺めていて、光合成は英語でphotosynthesisというのかと、恥ずかしながら初めて気づいた。先ごろ、新書版が刊行された森山大道「光と影」のシャクヤクのカットを見ながら、以前、立ち直りのきっかけになったとされる被写体が植物だったことを面白く思ったことがある。森山大道のphotosynthesis。こう書いてみると、なんだかもっともらしいな。
06.23. 白
鈴木理策展「WHITE」(5月28日−7月11日、東京・銀座/ギャラリー小柳)。北海道で撮られた雪景。目をひいたのは奥にあった4連幅の作品。左側3点は風景をさえぎるように、手前の雪が大きな領域を占める。右端の1点はほとんど白い領域となっている。これは果たして、左側の雪と連続するものなのかどうか。見ようによっては曇り空のようでもある。曖昧な白の広がりはしかと定めがたい。その宙づり感によって、展覧会タイトルに言う「WHITE」が浮上する。以前にもどこかで書いた気がするけれど、雪のシリーズは青木淳設計の青森県立美術館――例えば土のように見える部分と白い壁の反転可能性と宙づり感を追求した建築を撮影する中で、始まっている。
06.24. スナップ
北島敬三写真集「THE JOY OF PORTRAITS」(RAT HOLE GALLRY)を購入。時間に沿って、2分冊のうち、スナップショットを中心とする「2」をまず開き、そののち1992年以降の「PORTRAITS」をまとめた「1」を見る。この分冊の形式にもうかがわれる通り、スナップから離れたのは1991年/92年が境目だとされる。もっとも、見てみれば分かる通り、旧ソ連の写真はスナップではない。被写体の社会的属性をあえて入れ込んだ、例えばザンダーのそれにも近いようなポートレートである。つまり旧ソ連の取材で、すでにスナップは手放されている。一瞬、立ち止まって考えられてよいことかもしれない。思うにスナップという手法を使わずとも、スナップによって取り出されていたところの人間の状態が、旧ソ連においては露出していたとも考えられないだろうか。むろん取材条件等という実際上の話ではなく、解釈の次元のことだが、その先は「むき出しの生」についての本を読んでみることにした。
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