10.03. 私写録
「安斎重男の私・写・録(パーソナル・フォト・アーカイブス) 1970−2006」展(9月5日−10月22日、東京・六本木/国立新美術館)。日本の現代美術の目撃者として知られる人の写真を並べる。2000年、大阪・国立国際美術館でも安斎氏の大展覧会が開かれたが、今回の方が膨大な感じがする。基本的には年代順。最初はむろん自分も知らない時代で、そのうち、そんなこともあったなと思い出す時代にさしかかるはずが、しかし、見てきたものの重なりは意外に少なく、見たはずの展覧会であっても、あれ、こんな感じだったかな、と記憶の中の展示風景とは少し違う気がする。多分に自分の記憶があいまいになっているのだろう。もう一つは撮影が1970年、特に「第10回日本国際美術展−人間と物質」展あたりに始まっていることとかかわるかもしれない。今日で言うインスタレーションの時代に安斎氏は同伴してきた。作品が作品それ自体というよりも、見る側の体験の中に存在する時代。むろん一貫した姿勢で継続的に現場をとらえてきた重要性ははかり知れないが、原理的に言えば、それら体験の中において、やはり相対的な位置にあると思われる。展覧会のタイトルに「パーソナル・フォト・アーカイブス」とある。控えめな物言いに聞こえるが、以上の消息を自明のことと受け止めてのことかもしれない。
10.04. パトローネ
篠原有司男と榎忠の2人展「ギュウとチュウ」(10月2日−12月24日、愛知県・豊田市美術館)。まず篠原の巨大な壁画と巨大なオートバイ彫刻で、おおーとのけぞらせる。続いて近ごろ話題の榎作品。静的な美術館建築のせいもあって、まとまりすぎている気もするが、総じて好展示として楽しむ。さて、榎作品で目をひいたのは、フィルムのパトローネをブロック状に圧縮し、大量に積み上げたインスタレーション。何でも14トン分だそうだ。もとよりフィルムが“絶命危惧種”となったことを意識した作品だが、周期的に照明がゆっくり明滅することもあって、メタリックな緑色その他が群がる甲虫にも似た生命感を帯びる。積み上げ方は軍艦のようでもある。内部を保護する殻であるパトローネは守るべきものを欠いた廃物となり、闇の中で本来の排他性ないしは攻撃性をあらわにしているわけだ。その意味で銃やミサイル、大砲といった武器をモチーフとする他の作品にも通じる、榎らしい作品。このほか2人の制作風景を軸にしたドキュメンタリー映像が制作されているそうで、その予告編が流れていた。そこで篠原は「現代美術なんてものはいつも盛り上げてないと、すぐにぺちゃんこになっちゃうんだよな」といった意味のことを話していた。そうだよなあ、と少ししんみり。
10.17. 偶然性
柴田敏雄展「IN COLOR」(10月6日−11月4日、東京・小金井市/双ギャラリー)。これまでに比べ、カラーでの柴田調はこういうものだと明確に打ち出した感がある。モノクロの写真家がカラーに移行する時、ただ色が付いたという以上の変化が起こるものだが、このランドスケープの写真家も例外ではない。偶然性の取り込み方がより顕著に見て取れるようになった感がある。静的な整斉性に対して、偶然的な要素を受け入れながら、より上の次元で写真として持たせていく作法と言えばよいか。何しろ水面に落ちる雨滴の波紋、さらには人間の姿まで写っている。柴田の写真については以前、ランドアート的と記したことがあるけれど(本年0603 83年/風景の項)、現代美術との結びつきはかなり直接的だと言ってよい。もともと現代美術の側から写真という手法を選び取った際、偶然的な現実を制作に取り込むことが意識されていなかったはずもない。加えて例えばランドアートにおいても、偶然性の取り込みは図られていた。スミッソンのエントロピーに対する関心など。そこでは人為と自然、より大きく言って時間の作用との関係が制作の中に取り込まれる。同様に柴田敏雄は知られる通り、当初から自然の中にある人工構築物を撮影してきたし、その写真がはかなさ、うつろいの美学を感じさせてきたのも一つには現代美術の文脈から説明されてよい事柄かもしれない。だとすると、モノクロームが必然的にもたらす整斉性を離れ、色という変数と向き合うことを通じて、本来あった偶然性の要素が強く出てきたという考え方もできそうだ。
10.18. アーカイブ1
中本晋輔、中橋一朗著『コーラ白書 世界のコーラ編』(2007年10月、社会評論社刊)を書店で購入。面白い本だ。コカ・コーラ、ペプシはもとより、こんなコーラもあったのかという変わり種まで500種以上を集め、くわしく解説する。一口にコーラと言っても、実は著しく多様なコーラが存在しており、本書での「コーラ」の定義は、常温で液体、パッケージにコーラとある、といったことになっている。よくグローバリズムの象徴と見なされるコーラだが、実のところ、グローバリズムは均質な形でなく、ローカリティーと結びつき、時にはマルチカルチャリズムとないまぜになって進行することも一目で理解させる。ところで、この書籍、ウェブ版のコーラ白書がすでに存在し、それがもとになって出版されているのだが、その意味で、ふと思い出すのは同様に、ウェブ上のアーカイブをもとに出版され、最近人気だという産業遺産系の写真のこと。
10.18. アーカイブ2
写真・石井哲、文・大山顕『工場萌え』(2007年3月、東京書籍刊)をはじめ、ほかにダムや水門といった産業遺産の写真集が人気だそうだ。人気だということで、テレビその他のメディアで紹介されているのを時折見かける。コンビナートが風景として享受されるようになったのは端的に言って、風景として見ることのできる距離が生まれたことを意味しよう。柳田国男の言葉で言えば「要望なき交渉」、つまり果樹を生きる糧としてではなく眺めるのと同様の心理的な距離が、コンビナートの生産活動や労働との間にも生まれ、風景として眺められ、人気も博すようになった――というわけだが、しかし、それ自体は風景論の公式通りの話に過ぎない。興味を覚えるのは、すべてかどうか、ウェブ上のアーカイヴをもとにした出版が行われていること。デジタル写真の可能性ということが数年前、よく語られていたけれど、パーソナルで、趣味的な画像アーカイブが結局、果実の一つだったのかもしれない。
10.25. 内
渡辺眸「hitomi watanabe early works全共闘の季節 1968−69」(10月17−30日、東京・銀座ニコンサロン)。当時を知るわけでもなく、話題の写真展ということで立ち寄る。バリケードの内側から撮影したと強調されており、その結果、建物内部の作品が少なくない。なおかつ外光が差し込み、建物の細部が粒子の中に飛んでいるカットが目をひく。つまり柔らかな光の粒子が「連帯を求めて孤立を恐れず」といった文字を柔らかく包み込みようにも見えるわけで、心情の投影ないしは内面的な連帯を意味するものなのかどうか、そうしたありようを含めて、一つの記録ということのように思われた。
10.26. 曼陀羅
「東松照明 Tokyo曼陀羅」展(10月27日−12月16日、東京・恵比寿/東京都写真美術館)。この日は内覧会。沖縄、長崎、京都、愛知と続いてきた曼陀羅シリーズの最終パート。これまでは撮影地ごとの展覧会だったが、今回は撮影拠点としての東京であり、撮影地は全国にまたがる。時期的にも長期にわたる。今回もまた写真家自身の選択・再構成による展示であり、こんなものも撮っていたかと知らされる写真もある。例えば1956年、奈良での石仏の写真。それを展示に組み入れることは、アメリカニゼーションへの関心の基底に、日本的な風土への関心があったことも印象づける。すでに知られた写真でも荒木経惟を撮影したカットでは、新たにデジタル加工で改変されている。少し不思議だったのは昨年夏、「愛知曼陀羅」展を見た時ほどの疲労感はなかったこと。幾つか理由もありそうだが、一つには愛知では記録性を重んじた写真であり、なおかつ細部まで際立たせるプリントだったのに対し、こちらは実験的な手法を再び押し出していった時期にあたるからかもしれない。展示を眺めながら、実験写真家・東松照明、なんていう展覧会もあるいは別個に成り立つのかもしれないな、という空想も頭をよぎった。
10.31. 微生物
少し前に届いていた『photographers'
gallery press別冊 写真0年 沖縄』(2007年10月刊)を眺める。先にあとがきに目を通すくせがあり、「編集後記」を読む。中村大吾氏いわく、世に写真があふれる現実と<美術館なりギャラリーなりの写真展を訪れてみてそのとき口にされる趣味的な感興と、いったいどう釣り合うのだろうか>――自分もそうだなと思う。いまも趣味的な感興を書いているわけで、意味なしと言われれば一言もないな。続いて北島敬三「PLACES」シリーズを眺める。沖縄での撮影。これまでと違い、いやに黒ずんだコンクリートが写っている。数えるほどしか沖縄には行ったことがないが、こういう質感のコンクリートを見た記憶がある。言い換えれば場所の特殊性が写り込んでいるわけで、シリーズの大きな変化ということにもなりそうだが、それとは別に、なぜ黒くなるのかと思ってみる。コンクリートそれ自体の質によるのか、あるいは気候によって微生物が活発に働くからか。後者だとすれば人間のいない、人間の作った空間ないしは背景をとらえたシリーズには同時に、微生物が残したしみも写り込んでいることになる。まあ、そういう微生物とかしみのようなことに微生物のごとくかかわる感じで、また趣味的な感興でも書いてみるかなと思った次第。
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