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05.02 かこい3
05.09. 限定
05.11. 美人

05.11. 昭和1
05.11. 昭和2
05.16. 雲

05.17. 目
05.23. チョコレート
05.30. サイズ


05.02 かこい3

 高梨豊写真展「囲市 かこいまち」(3月28日―5月14日、東京・品川/キヤノンギャラリーS)。写真集「囲市」の収録作品を中心に、都市を撮ったモノクロなど若干の旧作を交えている。チラシには2つテキストが載る。一つは写真集の序言で、たしかそこにはなかった<表徴とは裂け目である。そのあいだから覗いているものはほかならぬもう一つの表徴の顔である>というバルトの一節が加えられている。『表徴の帝国』の中で、京都・西往寺の宝誌和尚像の写真に付されているキャプションだ。ちなみに、この本は3年前、『記号の国』として新訳が出版されている。その石川美子訳を引けば、<記号とは裂けめであり それを開いても べつの記号の顔がみえるだけである>。さて、二番目のテキストは<「スケールアウト」について>。いわば展示に関する注釈だ。<写真の「大きさ」は曖昧なものである>。まず撮影があって、その後の<住み着き方>によって大きさが決まる。スケールアウトすると<そこに映し出されたモノやコトの意味は変質する筈である>。という風に記されているのだが、会場で強く意識されたのはこのシリーズが、視界を遮蔽しながら立ち上がるイメージを頻出させていること。言い換えれば、もともと視界をスケールアウトしていく被写体を選択しているわけで、そのことを身体的に実感させる展示ともなっていた。

05.09. 限定
 中平卓馬展「なぜ、他ならぬ横浜図鑑か!!」(4月7日−5月12日、東京・清澄/シュウゴアーツ)。病後の中平が撮っている対象が限定的だということは、以前もここで書いたことがある(2003年1003、04年1224の項)。それは今回も、基本的に変わらない。以前の<事物が事物であることを明確化するだけで成立する>という図鑑/写真論を参照し、水鳥が、眠るホームレスが、つやつやした緑の葉がそのようなものとして写されていると言う場合、それが水鳥、ホームレス、緑の葉といった極めて狭い範囲にとどまることもまた、避けて通れない端的な事実だろうと思う。ただし、今回の展示を見ると、その限定された被写体に新たな対象が加わっているようだ。いま詳細に比較して言うわけではないけれど、例えば砂。あるいは撮影者を見てしまっている農家の女性。さて、どう考えるべきだろうか。


05.11. 美人
 「美人のつくり方 石版から始まる広告ポスター」展(4月7日−6月3日、東京・江戸川橋/印刷博物館)。明治末ごろから昭和戦前期の、美人画を中心とする広告ポスター展。幾つかのポスターについては、印刷技術やプロセスを紹介する。それもあって「美人のつくり方」というわけ。色彩分解した版下を、ずらりと並んだ画工がせっせと制作している写真パネルもある。大変な手間がかかっていたんだなー。それだけに石版による美人の顔、とりわけ肌の柔らかそうな生気はすばらしい。当時の男子はもうたまらん、という感じだったかもしれない。いまでも収集家の中には“石版萌え”な人がいるのではないだろうか。そこからすると、杉浦非水の登場がいかに画期的だったかもよく分かる。肌に対する執着、それは同時に、衣服等との描写水準の差を気にしない画面につながってもいるわけだが、非水は意識的に平面化している。個人的な関心だと、少なからぬ美人ポスターの背景に、屏風が配されているのが目をひいた。屏風があるということは当時、富貴や古式ゆかしき印象につながっていたのかどうか。なおかつ琳派風のものが幾つかあって、一つははっきりと酒井抱一の夏秋草図屏風の一部と分かる。たしか大正4年のポスターだったと思うが、すでに明治37年、三越が光琳遺品展覧会を開催するなど、商業的な分野では琳派再評価が始まっていた。明治末年の漱石「門」には知られる通り、抱一の屏風を安値で売ってしまう話が出てくる。微妙な移行期のエピソードだとも言えよう。閑話休題、この美人と屏風というフォーマットはけっこう息が長かったようで、この日内覧会が開かれた東京都写真美術館のコレクション展「昭和 写真の1945〜1989」展の第1部(5月12日―6月24日)にも、このフォーマットで戦後、新風俗の女性を撮影した写真を見ることができる。以上のような流れを踏まえると、どう新しさを演出しようとしたのか、撮影者の興のありかも分かる感じがある。


05.11. 昭和1
 というわけで、その「昭和 写真の1945〜1989」展。4部構成による東京都写真美術館のコレクション展。第1部は「オキュパイド・ジャパン」。昭和20年代を扱っている。つまり「昭和」展と言いつつも、今回、戦前・戦中は対象外となっており、実際は戦後の昭和展ということになる。では、なぜ「戦後」でなく「昭和」なのかというと、昨今の昭和ブームという事情もあるのだろう。にもかかわらず、並んでいるのは昭和20年代の写真なので、どう見ても今回は「戦後」展なのだった。面白いのはヌード写真を扱ったパート。上記「美人のつくり方」展で、はやくも明治41年、「森永の西洋菓子」のポスターが西洋神話画の枠組みを借りてヌードを描いているが、写真になると、大正11年の名高い赤玉ポートワインのセミヌードでさえも、刺激的だったらしい。ヌード写真が堂々と発表されるのは戦後のことになる。とはいえ昭和28年、阿部展也演出、大辻清司撮影の写真にはヘアが写っていながら、発表時には修整されていることも、出品される雑誌で確認できる。いまやそれもOKになったわけだが、近代日本のヌードがまとう「美」という口実は今となっては、さすがに有効期限が切れてきた感じがする。それと、最後に掲げられる奈良原一高の「無国籍地」が戦後の廃虚を撮りながら、まったく当時の水準を隔絶した感覚を示すことも、改めて印象深かった。


05.11. 昭和2
 そういう話はそれとして、本展のハイライトの一つは、やはり被爆直後の広島を撮影した林重男「相生橋東詰め北側の広島商工会議所屋上から広島市内を見わたす(360°のパノラマ)」だろう。大判カメラを手に持ち、ぐるりと撮影した12カットを接ぎ合わせる。ほかにもパノラマ的な戦災廃虚の写真が幾つか出品されている。さして不思議に思わなかったが、なぜ戦災廃虚はパノラマ的に表象されるのか。記録という目的上、広範な視野を収めることはもとより望ましい。建造物が失われた空間的な広がりをとらえたいという率直な気持ちの動きもあったことだろう。それとは別に、近代的なパノラマの視覚の使用法の中に、戦災写真はどう位置し、どのような脈絡を持っているのか、持っていないのかということが気になったというわけ。いま手持ちの材料は乏しいのだが、それは例えば、観光鳥瞰図の大家である吉田初三郎がやがて、同じ鳥瞰図法でヒロシマを描いた意味を考えるということになるかもしれない。


05.16. 雲

 「パリへ−洋画家たち百年の夢」(4月19日−6月10日、東京・上野/東京芸大大学美術館)。本展で「洋画家たち」と言うのは、東京美術学校及び東京芸大関係者のことだが、それはさておき、カタログを見ていると、出品作の一つである黒田清輝「雲」の連作(1914−21年)について、<おそらくモネのルーアン大聖堂連作(1892−94)を意識した、意欲的な実験作であろう>と解説されている。会場で見た時、そういう連想ははたらかず、むしろラスキンの雲の研究との関係はどうなのかな、ということは思った。明治期に強い影響をもったことがうかがい知られる「近代画家論」は最近、大部な翻訳も出たようだし、読んでみないといけないなーなどと思う。むりやり写真の話にこじつけると、黒田の連作からほどなく、スティーグリッツが例の連作を撮り始める。それがまた、日本の写真家に影響を与えるわけで、まさに雲の流れてゆくごとし。


05.17. 目

 森山大道写真展「SOLITUDE DE L'OEIL 目の孤独」(5月17−23日、東京・日本橋/丸善)。同名の写真集がフランスの出版社から刊行されるのを機に開かれたよし。限定40部の豪華本で、フランスのミシェル・ビュルトーという人の詩が載る。展示は収録のプリントを中心に、ポスター形式にしたものを交える。すべてカラー。人工光や褪色という現象への関心をうかがうことができるが、ところで、この森山大道という写真家に「目」という比喩は似合うだろうか。むろん、よく使われる「目」の言葉の意味するところは無際限に広いわけだが、例えば「部屋」になぞらえられるような意味での専制をどう揺り動かすか、ということが一つの課題であったような気がするので、どうかな、と一瞬考えて、ここにちょっとだけ書いてみた。


05.23. チョコレート

 東京・六本木で話題の東京ミッドタウン、これまた話題の「21_21 DESIGN SIGHT」の第1回企画展「チョコレート」(4月27日−7月29日)。デザイナーたち約30組がチョコレートを種に、あれこれ発想の妙を競い合う。個人的に最も目をひいたのは、大きな壁面に並べられたジェームズ・モリソンの大型ポートレートで、コートジボワールの“緩衝地帯”で生活する労働者たちを撮っている。現代アートに昨今、ドキュメンタリーが導入される場合の写真の使用法、その撮り口という意味で、ひとつの典型とも言えそうな作品だが、この展示に対しては、有効に機能していたように思う。


05.30. サイズ

 鈴木涼子「ANIKORA-SEIHUKU / uniform」(5月18日−6月7日、東京・京橋/ツァイト・フォト・サロン)。萌え系のフィギュアに、おそらく作者自身と思われるポートレートを接合した写真作品。その奇妙さを通じて、萌え系の男性的欲望が……といった言説をただちに引き出しそうな作品だが、ここでは大きさについて。言うまでもなくフィギュアは愛玩するにふさわしく、小さい。それをほぼ等身大のサイズにすることで、いわば生身の身体性を対置することが目指されていよう。それは同時に、前項のジェームズ・モリソンによるポートレートもそうだが、アートないしは作品であることのしるしにも見える。社会的に広まっているフィギュアに対して、正当にも作品として批評している感じが多少する。総じてストレートな印象を受けるのは、そのせいもありそうだ。


 

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