2007 | Jan
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03.01. ない
03.01. 疎外
03.12. 口絵
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03.14. 都市の写真
03.14. かこい1
03.14. かこい2
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03.01. ない
土屋誠一企画「disPLACEment」の第2弾である、倉重光則展(2月13日−3月4日、photographers' gallery+IKAZUCHI)。一方の部屋は蛍光管を使った最近の作品で構成し、他方には倉重が1970年、福岡・志賀島で手がけた野外作品――砂浜に、砂とセメントを混ぜたものでキューブ状の立体を設置する――の記録写真と、その立体が崩壊・消失して久しい現地を土屋が再訪し、撮影した写真を掲げている。それを見、また、土屋がカタログに執筆したテキストを読み、ぼんやりと考える。テキストはこうした仮設的な作品とその写真をめぐり、作品のありかの不確定性を問い直し、作品の「経験」の場所は単独的、一回的であり得るのではないか、と論じている。会場で漠然と考えていたことは、その論とはほとんど関係しない。ような気がする。ごめんなさい。それは「ない」ということがどのようにして表象されるのか、というようなことだ。倉重の蛍光管を使った作品は「あったもの、あるべきものがない」ということを、立体作品として提示している。そう考えさせるのは、志賀島における野外制作をめぐる2点の写真であり、その先にこれらの作品が位置していることを説得的に伝えていた。最も分かりやすいのは<ガス状の不確定性正方形III>だろうか。物質性の強い素材による正方形がだんだん存在感を希薄化させ、最後は壁面、蛍光管、若干の線による正方形に行き着く。「あるものがなくなる」ことの表象。それは写真になぞらえて言うと、組写真的な提示の仕方だ。その反対側の壁にもたせかけられた<−II>は、正方形の4辺に蛍光管を配した作品で、囲われた正方形の内側は空無となっている。もう1点の作品<−I>を参照すれば、この空無の正方形はまったくの空無というよりは、あるべき絵画ないしキャンバスの不在を意識させる。この2点の作品は実のところ、絵画を参照項とする「あるべきものがない」の表象であるように思える。いま「参照」という言葉を2度使ったけれど、果して「ない」ということは、何らかのレファレンス抜きに表象することができるのだろうか。写真については、ことさらそうだろう。キューブ状の立体がなくなってしまった砂浜を再訪した土屋の写真は「ない」ことの表象として撮影されている。しかし、それが「ない」ということは、おそらくイメージの枠内では決定できない。もう1点の、倉重自身が当時撮影した写真を参照する時、土屋の写真は初めて「かつてあったものがない」を意味する。逆に倉重の写真は「ある」こと、今日見ている側の時制で言えば「あった」ことを記録しているが、土屋の写真を参照することで、「なくなったものが、かつてあった」ことを認識させる。ここでの「ない」ことの表象は、2点を組写真と見なす時に初めて成り立つ。逆に言えば、1枚の写真は、他の写真であるとか、キャプションや外部的な知識といったレファレンスを抜きにして「ない」ということを表象することができない。まあ、ここに例えば東京タワーがない、とか言うことは常にできるわけだが、それは話がずれるので避けると、実のところ、「ない」ことの表象はレファレンスを必要とする、言い換えれば、レファレンスに開かれている。例えば記憶とか記録をめぐって、写真が「ない」ことの表象にかかわる時、それは必然的なレファレンシャルな関係の網目に開かれることになるのだろう。これが一体どういう話につながるのか、自分ではよく分からない。逆にどこからつながっているのかと言うと、最近、「attention」というリトルマガジンが創刊され、たしか「不在」と「非在」をめぐる熊野純彦のエッセーが載っていた。それを読んだ後で、倉重展を見たことは間違いないのだが、あたまが悪くて、いま論点をクリアに思い出せない。そのうち、続きを考えてみることもあるのかな。
03.01. 疎外
高橋ジュンコの2期にわたる展示は、前半が「The Receptionist」(2月20日−25日、東京・四谷/Lotus Root Gallery)だったが、それは行けなくて、後半の「Tokyo Mid」(2月27日−3月11日、同)のみ。展覧会と同タイトルの「−I」「−II」という2点の映像作品で構成されている。この人の動く作品を見たのは初めてだが、一つは車の激しく行き交う道端、もう一つはオフィス街――大手町近辺か――に夕刻、女性をたたずませて、その静止した姿と周囲のあわただしい動きとを対比的に、長回しで撮影している。そこには時々、ガーとかゴーといった、都市のノイズがカットインする。一方は最後、クローズアップによって顔もまた映像上のノイズと化す。顔の喪失。前半の受付嬢という被写体もあわせて、今日の女性たちにとって、疎外という主題が決して過去のものではないことを改めて実感させるが、例えばエレベーターガールで知られるようになったやなぎみわが、いわば批評的なファンタジーを物語る方向に展開したのとは異なり、ここにはざっくりとした率直さがあって、いいなと思った。
03.12. 口絵
ポンピドー・センター所蔵作品展「異邦人たちのパリ 1900−2005」(2月7日−5月7日、東京・六本木/国立新美術館)。この広さという意味でのメガ美術館の開館記念展。エコール・ド・パリあたりに始まり、抽象、具象、そして多文化主義といった4章の構成がわくわくさせるものであるかどうか、また、出品されている作品の全体的な質の問題はさておくことにしよう。むろん藤田嗣治の室内画はいい絵だったし、そこには陶器が描かれていて、以前ちらりと書き添えたことを思い出したりもしたが、閑話休題、この展覧会は冒頭、マン・レイやブラッサイらの写真で幕を開ける。その後も各章の始まりに写真が展示されている。しかし、抽象や具象、多文化主義といった章の内容と写真の関係が、自分にはよく分からなかった。カタログを買わなかったので、そこには書いてあるのかもしれないけれど。会場で疑ったのは、これはつまり、雑誌の口絵扱いなのかな、ということ。パリってこんな風ですよ、というような。ちなみに田原桂一は章の冒頭、オノデラユキは例外的に冒頭ではなく、他の美術作品が並ぶ中で扱われていた。
03.14. 都市の写真
考え出すと、気になってしまうことがある。三球・照代じゃないけれど。都市の写真は一体、何を撮っているのか。建物でなし、人でなし、それらの入り混じった空間とさしあたり言えばよいか。とはいえ実際に、都市の写真と呼ばれているものを見ると、都市でなく、端的に現代風俗だなと思うこともよくある。都市写真の一つの範型はやはりアジェなのだろうが、それ風の不思議感を今日見つけ出して、果してそれが面白いのかどうか、かえってこちらが不思議になるような写真もしばしば見かける。都市の街路を歩く、その感覚の表出をむしろ目指す場合ももちろんあって、やはり都市の写真と言って誤りではないと思うけれども、都市が被写体それ自体とは言えないかもしれない。高梨豊の新作について考え出した時、そんなことがふと、横から頭に入ってきた。都市を撮り続けてきた人であり、なおかつ被写体としての都市という感じを、その写真はたしかに与える。都市というよりも、町とか界隈といった言葉がむしろ似つかわしいようなところもあるけれど。それはさておき、次項はその新作について。
03.14. かこい1
昨年1年間を振り返る機会があり、どこか物足りないなと感じる理由をいくつか考えてみるうちに、そう言えば高梨さんの新作がなかったな、とふと思った。むろん毎年、写真集を出しているわけではないのだが、その都度、関心と方法を意識的に更新した仕事はどこかで、ある年を振り返る手がかりとなってきたところがある。その新作「囲市(かこいまち)」(クレオ、2007年2月)が刊行された。いま簡単に振り返ると、「地名論」(2000年、毎日コミュニケーションズ)は、都市が写らなくなったという実感にはじまって、2点の組み写真という方法を採っていた。そのあわいに不可視の時間軸を垂直に立て、それが地霊にまで届くことがあるのではないかという、いわば後退戦から繰り出された仕事だったとも言えよう。続く「NOSTALGHIA」(平凡社、2004年9月)では一転、写らないということを引き受ける。いま写るとか写らないとか言っているのは、つまり高梨が思い描くような都市であり、それは前項で触れたように町や界隈、生活と結び付いて形成された空間というニュアンスを伴うが、それが写らなくなったとしても、当然ながら眼前には都市とその像がある。本写真集はそちらを被写体に選んでいる。カラーポジによって、都市の表層性が差し出された。<この仕事にあっての決めごとは 「底なしの深さのなさ」 その表面性と正対することである>と記されている通りである。では今回、「囲市」ではどうなったか。写真そのものは、前作を継承しているところがある。例えば最初の1点――Rの字が見える何かのシートに覆われた建物の前を、メーテルみたいな帽子の女性が自転車で横切る――は、前作で印象的だった、工事の仮設壁の前を横切る老女の影が、写真上部に見える豹の看板と奇妙な呼応を見せるカットを思い出させる。ほかにも被写体上の共通性を見つけることはできよう。ただし、同じように都市の表層性と正対しつつも、その表層性が「囲う」という都市の構造、成り立ちに由来することに、注意が向けられている。城壁都市ならずとも、内部にさまざまな分割、区画を有する以上、都市にとって「囲う」ことは本質的な構造だが、今日、それが徹底され、都市空間の不可視化=表層化を招いているという気付きが、この写真集を編ませたのだろう。表層化はまた、写真イメージをプリントした仮設壁がそうであるように、「囲い」の排他性をソフィスティケートする効能を持っている。<子供の頃 洒落たつもりで口にしたものだ。女を囲う 囲い者 などと……(略)やがて 囲いは所有や欲望の表徴であることに気づくのである>。「NOSTALGHIA」が都市におけるイメージ論だったとすれば、「囲市」はイメージの政治性を視野に収めた仕事、ということにもなるだろうか。
03.14. かこい2
というふうに、確かに先鋭な側面を持つ一方で、先鋭さだけを取り出すことを何か控えさせるようなところも、高梨豊の仕事にはある。前作「NOSTALGHIA」では、徹底して表層性に正対することを自らに課しつつも、そこに失われた感情が反映することが期待されてもいた。<内面から遠く離れてノスタルジアは ものの表面に浮上する>。「囲市」においても、前項の引用はこう続く。<「囲」は タイトにルーズに変幻するが その綻びや透き間から 日本社会独特の「世間」を垣間見せることがある>。依然として、写らなくなった、自身にとって重要な町や界隈をからめ手からであれ、どうにか表象するという目論見は捨てられていない。実のところ、それこそが高梨豊になお関心と方法論を更新させ続けている不動の1点であるのかもしれない。
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