06.01. 傾斜
岸幸太写真展「傷、見た目」(5月25日−6月5日、東京・新宿/photographers'
gallery)。ずっと続いているドヤ街周辺のスナップ。ノー・ファインダーのためか、画角は傾いていることが多い。前回見た個展は、それらを右下がり、左下がりの配合、さらに展示室の四隅との関係も考慮しながら並べており、ふと「スタイリッシュ」と言いたいような感じもした。今回もおおむね同様ながら、ただし、なぜか傾斜に説得されるところがあった。なぜかは、よく分からない。
06.01. びんらん
瀬戸正人写真展「BINRAN」(5月28日−6月3日、東京・新宿/PLACE
M)。PLACE Mは実に20周年だそうで、その記念展の第2弾。台湾の椰榔ショップを撮っている。先ごろ台北に行ったところ、20年前にはたくさんあったスタンドが見当たらず、聞けば市の中心部にはなくなったとのことだった。その説明が正しいとすれば、写っているのは郊外やロードサイドのショップということか。ちょっとしたショーケース風になっていて、それぞれセンシュアルな感じの女の子が座っている。BINRANは椰榔の横文字表記だが、みな色彩はけばく、パワフルなB級感が漂う。ともあれ公然と存在しながら、まじまじと見るのがはばかられるたぐいのセンシュアルさであって、それを撮ってしまう独特な視線の質をやはり感じさせる作品。
06.02. 霞谷
「幕末の写真師夫妻 島霞谷と島隆」(4月21日−6月3日、群馬県高崎市/群馬県立歴史博物館)。10日ほど前に某所でポスターを見て、開催を初めて知り、いまさら行けないかとも思ったが、やはり見たくて出かける。島霞谷については、木下直之著『美術という見世物』(1993年、平凡社)に教えられ、その後も断片的な紹介に触れてきたが、今回の展覧会で壮大な全体像が現れたかというと、必ずしもそうではない。写真、美術、活字その他、近代的技術の移入に幅広くかかわったダ・ヴィンチ的存在とむりやり持ち上げることもできなくはないが、むしろ展示から伝わってくる営みのつつましさ、手作り感の方が実のところ、本来の姿に近いのではないか。興味深かったことの一つは展示解説にあった、霞谷の絵が着物の質感を伝えることに意欲的だという指摘で、これは実際に作品を見ながら、なるほどと納得。リアリティーの位相はまず、そのあたりにあったということか。改めてどういう制作事情か、不思議だったのは、1860年代の筆と推定される「水浴図」で、油彩による3女性のヌード。水浴図はもとより浮世絵の好色主題の一つだが、それとはまったく違う西洋的な道具立て、身体表現で描かれている。これが1860年代だとすれば、ずいぶん早い。霞谷の写真帖には舶載されたとおぼしき西洋のヌード写真がたくさん収められているそうで、史料に残らない形で進行していた東西交流の厚みに思いをいたすべき、と実感させた。
06.05. 空
会田誠、山口晃の2人展「アートで候。」(5月29日−6月19日、東京・上野/上野の森美術館)。当代の人気作家2人の競演。ともに名門・東京芸大のご出身だが、竹の台を挟んで、会場が上野の山の南側に位置する美術館というのも味わい深い。写真関係では母校・東京芸大写真センターの展覧会「写真で語る「」(1995年)に会田誠が出品した作品を見ることができた。簡単に言えば、車窓から偶然的に撮影したカットの中から、見るべき作品がどのくらい生まれるものか、確率を検証してみたというもので、それをしかも、高校の文化祭みたいな体裁で安っちくプレゼンするという、悪意に満ち満ちた作品。それぞれのカットにも、さすがのコメントが添えられている。空を撮ったら写真はおしまいだ、みたいなことも書いてあった。そう言えば、あのころ空を撮った写真が多かったなと思い出す。あ、いまもか。
06.08 1983年/口上
東京芸大写真センターによる「写真で語る」展は1988年から95年まで、計4回行われた。それから10年余り、今年は「《写真》見えるもの/見えないもの」展(5月29日−6月17日、東京・上野/東京芸大大学美術館陳列館)が開かれている。その関連イベントとして9日、写真家6氏による座談会の司会を引き受けたもので、その下調べをする。出席者は山崎博、柴田敏雄、小山穂太郎、中里和人、佐藤時啓、鈴木理策氏。手近な資料を見直したり、簡単な年譜に落とし込んだり、といった程度のことだが、ちなみに年譜の項目が最もふくらんだのは1983年。いわば任意の参照点として、当日の話題にするのはどうかなと思い、どういう年だったのか、試みに「美術手帖」「アサヒカメラ」のバックナンバーを眺めてもみた。そんな範囲の調べ物に過ぎないのだが、多少なり興味をひかれることもあったので、1983年をめぐる私的なノートを以下、心覚えにアップしてみる。なお資料による記述でもあり、本項目も敬称略です。
06.08. 83年/美術と写真
「《写真》見えるもの/見えないもの」展のカタログで、展覧会実行委員長の佐藤時啓が触れている通り、1983年、東京国立近代美術館で「現代美術における写真」展が開催されている(10−12月、翌年にかけて京都国立近代美術館に巡回)。おおまかに言うと、1970年代を回顧し、ポップ、コンセプチュアルアートの中で、写真が使用されていった現象をたどり直す内容だ。3部で構成されている。まずポップと写真(ハミルトン、ホックニー、ラウシェンバーグ、ローゼンクイスト、ウォーホル)。次に日本人作家(畦地拓治、今井祝雄、河口龍夫、小本章、野村仁、山中信夫など17人)。最後がコンセプチュアルアートと写真で、バルデサリ、ベッヒャー、バーギン、ディベッツ、ハーケ、コスース、クルーガーにフルトンやロング、さらにギルバート&ジョージまで取り上げている。ただし明確な限定が存在している。「美術家」による写真の使用だけを扱い、「写真家」による仕事を美術の枠内で取り上げるつもりがなかったことだ。<本展は写真家の写真による展覧会ではなくて、美術家による写真をとり入れた作品展である>。そう巻頭の論考で、藤井久栄は書いている。また、<美術家と写真家との区別を問われれば、素人と玄人の違いとでもいおうか。ここでの美術家とは写真を利用しているだけであるから>とも藤井は言う。当時の写真と美術をめぐる国立館の意識を物語って興味深いが、この展覧会、写真界での評判はかんばしくなかったようだ。
「美術手帖」12月で、写真欄を担当していた飯沢耕太郎は3点を挙げて、順々に批判する。まず70年代を扱うのなら、ポップアートの部は不必要ではないか。次に日本作家の数が多すぎる。日本作家の作品は一部を除いて弱く、<写真映像と実物(現実)との落差から生じるトリック的なめくらましの効果を追掛けることに終始していることからも生じているに違いない>。最後に「写真家」による「現代美術」的なアプローチを外したことに、批判の矢を向ける。藤井の<素人と玄人>という言い方に対して、<一つのメディアを使用することに、「素人」も「玄人」もまったく関係ないはず」と正当にもかみついている。そして具体的には、杉本博司、田村彰英、山崎博、シンディ・シャーマン(!)ら「写真家」たちの作品と「美術家」たちの作品との間に質的な差異があるならば、その差異が明らかにされなければならないし、そうでないならば、<一種のセクショナリズムを感じざるをえない>とコラムを結んでいる。ちなみに同誌は当時、ほかのジャンルの時評欄を設けており、写真欄もその一つ。飯沢は1年間担当し、その時評は『写真の現在 クロニクル1983−1992』(1993年、未来社)の巻頭に収録されている。今日まで続く時評的な活動のスタートはこの年のことだったようだが、ともあれ「現代美術における写真」展に対する最大の違和感は、結びに記す<一種のセクショナリズム>にあったのではなかろうか。「アサヒカメラ」に目を転じると、桑原甲子雄の展覧会評が載っている。桑原は世代もあるのか、ラウシェンバーグやウォーホル、ホックニーが面白かったというのだが、やはり美術と写真の「差別」をかぎとり、写真が美術でない保証はどこにもない――と書いている。
「現代美術における写真」展は、写真関係者に排除や差別を感じさせたようだ。その感覚の前提にはまず一つ、当時はいまよりも美術、写真というジャンルの枠組みは強かったという事情があるのだろう。飯沢がシンディ・シャーマンを「写真家」の側に組み入れ、今日の感覚では妙な感じがするように、そもそも区別するのは難しい。スーザン・ソンタグ『写真論』が言うように、同列に論ずべきジャンルでもないわけだが、もう一つの前提は、そのソンタグの翻訳にも関係する。写真界の側が違和感をもったのは、おそらく写真は現代美術と交錯するようなジャンルとなり得る、という自負を強めていたからではなかったか。実のところ、日本の写真界は“写真論の季節”を迎えていた。きっかけの一つは79年、ソンタグの翻訳で、そのあたりを契機に、写真をめぐる論説が目につくようになった――と、飯沢は「美術手帖」7月号の時評に記している。例としては西井一夫『写真というメディア』、三浦雅士『幻のもうひとり』、多木浩二『眼の隠喩』を挙げているのだが、実は大きな役割を果たしていたのが、三浦の表題エッセーの初出誌でもある、大島洋を中心とする「写真装置」誌だ。80−86年の刊行で、83年4月には第7号「写真論のパラダイム」を刊行している。通算12号の中でもかなり厚くなっており、飯沢の時評が写真論の高まりに言及したのも、この7号を受けてのこと。そういうなかで、東京国立近代美術館「現代美術における写真」展が開催されたわけで、その「美術家」限定のスタンスに対して、飯沢や桑原が不快に思ったのも無理はなかったように思える。
では現代美術の側は、この展覧会をどう受け止めたのだろう。もっと探せば反応を見つけることができるはずだが、さしあたりよく分からない。ただし、70年代末からの“写真論の季節”を基本的に共有していたことは間違いないようだ。「美術手帖」は78年12月号で「写真の座標」、80年3月号で「美術に拠る写真、写真に拠る美術」という特集を組んでいる。前者は写真に挑発性の回復を、という程度の趣旨だが、後者は60−70年代美術における写真の使用をめぐって、<客観的な眼=写真が、肉眼を前提として存在する美術の表現形式のなかでどのような展開を示すのか>と問いかけ、山崎博、山中信夫、ディベッツ、ベッヒャー、ヒラードらの作品を紹介している。また、峯村敏明の優れた写真論「存在にさす移ろいの影」が掲載されたことでも記憶されてよい(後に05年、水声社刊『彫刻の呼び声』に収録)。関心のありようとしては「現代美術における写真」展と先取りする内容だ。さらに81年3月号では、特集「写真家名鑑 海外編−写真史の101人」。力が入ってきていたわけだが、さて肝心の83年、同誌はどういう風だったかというと、すっかりコンセプチュアルアートと写真などという話は消し飛んでいる。ニュー・ペインティング旋風が上陸したのだ。82年10月号に「ドクメンタ7」のレポートがあり、ビュラン、アンドレ、グラハム、ボイス、ルウィット、河原温らと、クレメンテ、バゼリッツ、キア、ロンゴらの作品が入り混じっていた様子が伝えられている。ところが83年に入ると、雑誌として大きく舵を切ったふしがある。年間を通じてシュナーベル、バスキアその他、日本からは横尾忠則が大きく扱われる。写真入りでメアリー・ブーンの来日が紹介されてもいる。「現代美術における写真」展が開かれ、飯沢の批判が載った83年12月号の特集は「ミニマリズムから表現主義へ」。ニュー・ペインティングの歴史的な正当化を図ったものか。その巻頭に寄稿した藤枝晃雄は「横尾がゆくべき最適の場所は予備校のデッサン室」などと罵倒を浴びせているのだが、少なくとも「美術手帖」の読者にとって、「現代美術における写真」展がどの程度のインパクトを持ちえたか、これは厳しいものがあったように思える。
83年のトピックとして、いま70年代の美術における写真使用を回顧する展覧会とその周辺を振り返ってみたが、すでに触れた通り、“写真論の季節”を担ってきた「写真装置」誌が第7号「写真論のパラダイム」を刊行したのもこの年だった。1926年から65年、中井正一から三浦つとむまで12本の写真論を再録し、海外の未邦訳文献11編の梗概も収める。日本編はのちに再構成・増補した形で東京都写真美術館叢書『再録 写真論』(99年、淡交社刊)となった。未邦訳文献の中には、バルト『明るい部屋』が含まれている。ちなみに「美術手帖」誌81年3月号に「ロラン・バルトの写真論」という一項があるが、そこではまだ記号論的な一面しか触れられていない。『明るい部屋』が多大な影響力をふるうようになるのは、83年以降なのだろう。ともあれ極めて充実した誌面だったわけだが、しかし、大島洋のあとがきは悲観的だ。15年前の初個展――60年代末、実は日本におけるコンセプチュアルアートの先駆と評されてもおかしくなかった「ひかり」展と、それに対する写真誌の時評の一言<この写真展は、とりあげるにあたいしない>を振り返り、19世紀から1983年の現在まで、<「写真批評」は寸分も破綻することなく、この一行のレベルと原則の姿勢を崩さないでいるのだといってよい>と書きつけている。“写真論の季節”のピークに立ちつつ、ほとんど先行きを期待してもいないかのようなのだ。実際、この年の「美術手帖」誌はもはやニュー・ペインティングしか眼中になかった。何だかすごい話なのだ。今日では、いくらけなしても構わない程度に思われていそうなニュー・ペインティングにしても、そこに写真とのひそかな結託が潜んでいることは「photographers'
gallery press」5号の中の脚注で、倉石信乃が指摘している通りだが、こうしたすれ違いを経て、90年代に入るころになると、美術と写真の交錯は一気に全面化しはじめる。議論の場、制度的な枠組みは別々のままで。80年前後の議論がもう少しかみ合う形で続いていたら、という感もなしとはしない。
06.08. 83年/観測
すでに何度か名前が出てきた通り、山崎博は83年当時、現代美術と接するような位置にある写真家と目されていた。第1写真集『HELIOGRAPHY』を刊行したのは、この年のことだ。年譜によると69年、フリーランスとなった山崎はしばらく舞台写真などを撮影していたが、74年の「OBSERVATION・観測概念」展で、以降に続く仕事をスタートさせる。この「観測概念」という展覧会タイトル、まず「概念」で当時のコンセプチュアルな美術の動向との接点をうかがわせるが、「観測」という言葉の方により興味をひかれる。この当時、少なからぬ美術家が「観測」を志向していたふしがある。最も壮大な例を挙げれば、タレル「ローデン・クレーター・プロジェクト」だろう。場所を定めたのは74−75年あたりのようで、宇宙や光の観測をもくろんでいる。日本で言えば、例えば野村仁「moon
score」(75年)が思い浮かぶ。野村は60年代末、「Tardiology」で段ボールの仮設構築物が自壊するさまを写真によって記録していた。あるいは崩壊を通じて時間を観測した、と言えるかもしれない。そして写真の世界では、田村彰英が69年発表の「家」シリーズで、定点観測的な仕事を始めている。
このうち野村を含む「写真を用いた美術」を80年の時点で分類しているのが、先にも触れた峯村敏明の論考「存在にさす移ろいの影」だ。「存在の定位にかかわる仕事」を位置派、そうした要素のない映像本位の仕事を映像派と呼び、野村をはじめとする位置派に時代の特有さを認めている。峯村の言い方で言えば「存在の定位」、ここでの文脈に引き寄せて言えば「観測」を志向する、写真ベースの仕事が広がっていたわけだ。さしあたり山崎の仕事に同様の関心を見て取ることは不可能ではない。言い添えれば、構図はミニマルな性格が強いし、水平線から光の棒として突き出す太陽の光跡は、個人的な印象ではダン・フレイヴィンの作品もふと思い出させもする。実のところ、発表形式の面でも個展にウェイトを置き、従来の写真家の行き方から踏み出していた。コンセプチュアルアートの領域で高く評価されて、何の不思議もなかったように思えるのだ。
しかしながら、83年の「現代美術における写真」展に山崎は含まれていない。山崎自身、自分の仕事はあくまでも「写真」であって、コンセプチュアルアートとまったく同列に扱われるのをよしとしていなかったふしがある。初出はよく分からないのだが、「コンセプトに写真を奉仕させるのではなく、写真にコンセプトを奉仕させる」という挑発的な発言もあったようだ。実際、山崎は写真による存在の定位なり観測を目指したわけではない。観測を成立させる機構、つまりは写真そのものの考察を志向していたようなのだ。写真界にも当時、そういう見方があった。「写真装置」誌第9号に『HELIOGRAPHY』の書評が載る。評者の市川和は<山崎にコンセプチュアルな部分はまったくないと思う。むしろ、カメラに内在するメカニズムに興味をもっているサイエンティフィック・フォトグラファーかテクニカル・フォトグラファーというべきだと思う>と言い切る。結論としては、<カメラに内在された時間論を顕在化し、“つまらない”中性的な対象によって、カメラマンの曖昧な主観性を撃っているのである>という風に結ばれるが、写真家の主観性批判に収斂していくあたり、山崎は「美術家」ならぬ「写真家」であって、そのように論じるべきだという明確なスタンスが伝わってくる。
とはいえ<コンセプチュアルな部分はまったくない>という断言には、ちょっと驚かされる。コンセプチュアルアートへの憎悪というか、逆向きのセクショナリズムのにおいも多少しないではない。その後、山崎自身は87年、栃木県立美術館の「現代美術になった写真」展に参加することになる。89年には第2写真集『水平線採集』を刊行し、そこでは74年以降の仕事を包含する形で、より整理された見解を書きつけている。海に向かって撮影したのは、ありふれた海岸という「平凡な状態」の内で写真を作り出して行こうとしたのであって、そのために「水平線に向けてカメラを水平に構える」コンセプトを必要としたのだという。コンセプチュアルアートの中で、むろんヒラードなども写真の機構に関心を寄せているわけだが、彼らの多くが作品を成立させるために使用した写真それ自体をいわばコンセプチュアルに突き詰めてきた軌跡――山崎の言い方によれば<コンセプトに写真を奉仕させるのではなく、写真にコンセプトを奉仕させる>仕事は、やはり独特なものだと言ってよい。特にコンセプチュアルアートとの複雑な位相は、なお考えられてよい点を含んでいるように思われる。
06.08. 83年/日常
いま引用したように、山崎博『水平線採集』には「平凡な状態」という言葉が記されている。この一文は「1989年夏、平凡な日、いつもの場所で」と結ばれる。昭和が終わった年であり、東欧革命が進み、やがてベルリンの壁も崩壊するのだから、そうした含みも一考を要するが、内容としては74年以来、海の撮影は「平凡な状態」を意識したものだったという意味合いである。実際に、市川和は『HELIOGRAPHY』評で「“つまらない”中性的な対象」と言っている。「写真装置」誌12号では山崎自身、「ミニマル化した対象」という言い方もしている。平凡さ、中性性、ミニマルさにとどまること、逆に言えば劇的なスペクタクルを拒否する感覚は、言うまでもなく同時代の現代美術でも広く共有されていた。自分で「photographers'
gallery press」5号の脚注に書いたことだが、アルテ・ポーヴェラその他、70年前後の美術動向を考える時、同語反復性や反修辞という切り口は意外に汎用性がある。飯沢耕太郎が83年の展覧会で<写真映像と実物(現実)との落差から生じるトリック的なめくらましの効果>と評したのは、修辞批判とそれを純化させた同語反復性の提示だったはずで、その文脈はすでに当時、説得力を失いつつあったということかもしれない。
ところで、それは日常性ということとも、どこかで関係していなかっただろうか。いま手元にある渋谷区立松涛美術館「大辻清司の写真」展のカタログからの孫引きだが、大辻は「カメラ毎日」68年6月号で、いわゆるコンポラ写真について考察している。<積極的に単純素朴な撮り方をするこのような態度を裏側から見るならば、写真や表現の手練手管を潔癖なまでに否定していることだといえよう。しゃれた技巧や構図や、その他諸々のこれ見よがしの写真表現術に対して、足元にぺっと唾をはいて横を向いてしまうような背の向け方である><もう一つ、画面の上に目立つ特徴を取り上げてみよう。それは取り上げる対象が、日常ありふれたなにげない事象が多いことである>。反修辞と日常性が並んで顔を出している。71年、牛腸茂雄・関口正夫は写真集『日々』を刊行している。クロノロジカルな事柄で言えば、その牛腸が世を去ったのも83年のことだった。
06.08. 83年/interlude
何しろ近い過去のことなので、どういう立場から振り返っているのか、自分でも奇妙な感じがする。いったん自らを振り返ることにしよう。83年は大学に入った年だが、それからしばらく、現代美術や写真の記憶はほとんどない。逆に80年代初めについては、かすかに思い出せることもある。地方都市のアート小僧で、タイムライフ社の美術全集を見て育った。ジオットにはじまり、デュシャンに終わるという巻構成で、デュシャンを尊敬していた。「現代詩手帖」誌を読み、80年、初めて買った詩集は谷川俊太郎『コカコーラ・レッスン』。コンセプチュアルな傾向を強く示す詩集だ。さっぱり動機も思い出せないが、美術部に一瞬在籍し、1点のみ描いて去った絵はコンパスを実寸大で精密に描いたもの。コンセプチュアルは片田舎の高校生にまで及んでいたらしい。谷川の詩集に「写真展の印象」という詩編があるが、写真展でなく、代わりにクイックフォックス社の「11人のフォトグラファー」シリーズが何冊か家にあったのをよく眺めていた。ウィージーとラルティーグは今でもいいなと思える。そんな風だったのに、大学に入ったとたん、ほとんどすべて忘れ去った。83年は浅田彰『構造と力』が刊行された年にあたる。いわゆるニュー・アカブームのさなかにあって、思想書を読む方が面白かった。分かったかどうかは別として。美術史学科に進んだものの、今度は日本・東洋の古美術に入れ込んだ。先輩諸兄が魅力的だったのと、世間的な有用性のなさが気に入っていた。地方で仏像を調査したり、台湾に宋元絵画を見に行ったり。ニュー・ペインティングやボイス、キーファーへの熱狂は、そんなことがあったの? という感じ。現代美術とやらに再会したのは90年、地元記者として接した水戸芸術館のオープン以降のことになる。「作法の遊戯」展であいまみえた現代美術は、かつて地方のアート小僧を魅了したクールなそれとはかなり違っていた。美術・写真の83年はつまり、知っていても不思議はない、しかし、まるですれ違っていた時期にあたる。
06.08. 83年/NY
83年1月の「アサヒカメラ」増刊号「いま写真とは」を開いてみると、山崎博、石内都、北島敬三の座談会が載る。おそらく“ホープ”という位置づけなのだろう。山崎が話をリードする感じで、興味をひかれるところでは、3人とも展覧会育ち、印刷メディアの比重が相対的に落ちてきた――とも語っている。同誌3月号では、木村伊兵衛写真賞が発表され、北島の写真集『NEW
YORK』(82年、白夜書房)が受賞している。選考委員は安部公房、石元泰博、渡辺義雄、重森弘淹といった人たち。掲載される書影には「反解釈の写真」と大書した帯が付いている。受賞に際して付された帯だそうで、西井一夫の一文によるものだとは思うが、ただちにソンタグを思い出させる言葉がバーンと記されているあたり、やはり時代を感じさせる。
実は先日、photographers' galleryに立ち寄る機会があって、ちょうど北島自身が編集していたシリーズのDVD版を少し見せてもらった。以前にプリントを見た時も同様の感想をもったけれど、スナップショットの名作という世評はそれとして、いまとなっては一つの記録という性格を帯びてきている。どういう記録かというと、80年代初頭、ニューヨークにおける視線の力学がはっきり伝わってくる。多くの人々が「見せる」気まんまんだ。しかも奇妙にも、見られているか否か、さして気にかけていない。見られることに無頓着とも言える。通常の見る/見られるという関係とは異なる、独特な視線のありようという感じがする。それに対して、見せられているようで見ている、無防備な人も当然見るという北島の応答が、この写真集を成り立たせている。DVDを駆け足で見終わった後、こうした視覚環境に反応したシアターなどの動向もあったかもしれませんね、と口走ったところ、後ほど、シアターではないが、バスキアなんかが登場するころでしたね、とのことだった。断っておくと、ニュー・ペインティングそれ自体と連動する性質の写真集ではない。しかし、それを生み出した視覚環境を写しとどめた写真集が83年、木村伊兵衛賞を射止めていた、とは言えるかもしれない。
06.08. 83年/風景
長くなってきた。このあたりで切り上げよう。やはり今回気が付いたことだが、柴田敏雄の第1写真集『日本典型』(92年、朝日新聞社)の冒頭のカットもまた、83年の撮影である。最も時期の遡るカットであり、名作の撮影はこのころに始まったと思ってよさそうだ。いま全体を見直して、自然と人工その他の議論はひとまずおいて、何より印象的だったのは、どう見ても60−70年代の現代美術を通過してきた、むしろそれによって培われた視覚によって、風景がとらえられていることだ。土木構築物における同一形態の反復、グリッド状の分節に反応している。あるいはコンクリートの無表情な形態や質感、不意に現れるエレガントさ、それらすべての自然への介入。逆に露光時間の長い、水の美しさが際立つカットはむしろ例外的で、ミニマルアートやランドアート、ふざけてマイケル・ハイザーもあればハミッシュ・フルトンもあると言いたくもなるような極めて多様な語彙が、どういうわけか日本の土木現場に出現している。そのことをモノクロの描写力を駆使して伝えている。「墨絵のよう」と評されるプリントの美しさはまぎれもないが、この写真集が美学的だとすれば、ミニマル以降、特にランドアートに反応するのと同じ感受性を有しているからであり、それが現実の風景の中に見出されていることによって、現代美術を逆照射するような仕事にもなっている。
柴田自身の年譜をたどると、比較的知られている通り、東京芸大で油絵を学び、辰野登恵子とは同級生だった。辰野と柴田、さらにもう1人を加えた3人は71年、「コスモスファクトリー」というグループ展を開いている。この時、柴田は正方形の合板を赤、青、黄色に塗り分けた絵画を出品したと伝えられている。ミニマルの動向に反応していたようだ。その後、75年にベルギーに留学し、日本に帰ってくるのは79年のこと。この間、辰野はグリッドに手書きのグリッドを重ねる地道な版の仕事を続けていた。同じではないにせよ、ミニマル以降の世代として、その先を切り開こうとする意識をともにもっていたとしても不思議ではない。柴田は表現手段として写真を選んだわけだが、まず作品化し得たシリーズに少なからぬ“グリッドのある土木現場”が含まれていることは、偶然そういうものが写った、という風には到底思えないのだが。
そんな風に、60年代末に始まる現代美術の諸動向をくぐり抜けてきた人物による風景写真集『日本典型』は結局のところ、何を表象しているのだろうか。土木工事の行われた風景の中に、ランドアートみたいな語彙が見て取れる。それを撮影することで、両者を下支えする同時代の造形的マトリックスを露頭させているのではないだろうか。例えばベッヒャーの仕事が一方では工業的、他方では芸術的な形で現れる産業社会のマトリックスを扱っているように。見かけはかなり違うが、意外に近い仕事と見ることもできそうな気がする。『日本典型』というタイトルも意味深長だ。きっかけはワープロの誤変換で、「点景」が「典型」になった――とどこかで読んだ記憶もあるが、そうだとしても、選び取られた「典型」の語を、ここで言うマトリックスの謂いと読み替えてみたい気もする。ともあれ現代美術を出自とする柴田が、そんな写真の仕事を成り立たせていったのも83年ごろのことだったのだ。
06.14. イリュージョン
高木修展(6月4−23日、東京・日本橋/ヒノギャラリー)。興味深い彫刻。メッシュのある鉄板による3点を出品する。一望性を担保する大きさ、板状の折り曲げから面で囲われた立体まで、3点それぞれの構造の振り分けを見るだけで、よく考えられた仕事という第一印象を受ける。興味深いのはその先で、メッシュの鉄板だから、その重なり合いによってモアレが出る。そのモアレがイリュージョナルな面と化し、彫刻に非実体的な印象を与えている。ちなみに周囲を歩くと、モアレが動き、酔いそうなほど強い錯視をもたらすのだが、ふと考えさせられる。確かにイリュージョニスティックな彫刻が実現している。それはただし、モアレという錯視、多分に身体的なエフェクトによって支えられている。何というのか、“乗り越え”感がある。会場に置いてあったカタログなどを見ると、フォーマリズムを信奉する方のようで、熟慮の上のことなのだろう。それゆえ、ちょっと興味をそそられる。
06.14. 松
須田一政「千代田の松」(6月1−23日、東京・日本橋/パストレイズ)。上記の彫刻展の後で、この写真展を見るという脈絡のなさが、ギャラリー回りの面白さ。皇居回りの松はこれまで何人かの仕事を見たことがあるけれど、さすがの独特さ。赤外線写真みたいなトーン、不定形の幹のアップなど幾つかの撮り方を見せるが、いずれも松の不思議な存在感を引き出している。大伸ばしにして、桃山時代の障壁画などと並べてみたいような写真。
06.15. 水
展覧会のよしあしは結局、好き嫌いだという風に言われるが、妥当性のある基準もないではない。まず広く知られざる作品を世に出しているかどうか、次に既知の作品であっても、それらに新しい文脈を与えているかどうか。むろん「モダン」な考え方だし、この2点を満たしても、なぜか嫌な気持ちにさせる展覧会もまああるけれど、その意味で、横浜美術館「水の情景」展(4月21日−7月1日)はいい展覧会だったと思う。最初の点では金村修をはじめ、何人かが新作を手がけている。2番目の点でも「水」という月並みなフレームながら、作品個々の並べ方は意欲的で、興味をそそる文脈を見つけて楽しむことができた。日本画はあまりピンと来なかったけれど、日本画展示の通弊なのかもしれず、だとすれば横浜美術館だけに過大な期待を寄せるわけにもいくまい。ちなみに以前、2度開かれた「風景表現の近代」チームと重なる顔触れが担当している。最後のパート「水と人」は横浜美術館を去った倉石信乃の担当で、ジョン・マーティンの聖書もの版画とルイス・ボルツの黙示録的風景の対照、あるいはこの展覧会にいきなり沢田教一「安全への逃避」を持ち込み、それを香月泰男の出征直前の油彩というイントロダクションなどを経てきっちり見せてしまう手際に説得された。この先は私的なメモ。金村の「Room
Full of Telepathy」は横浜近辺で水のある風景を撮ったとのこと。計88点。おミズの風景かなあと思えるカットもあるけれど、それも水の属性と関係ないわけでもないか、などと思い直す。ともあれ、意外にしっとりしたカットが多数含まれていた。横山大観とクールベに挟まれる形で展示されていたのは柴田敏雄のダム写真。「日本典型」以後の1996年、アメリカでの撮影。流れ落ちる水は画角の設定によって上昇に転じ、ダム湖に滞留する泡は不意に宇宙的な雰囲気を漂わせる。それを眺めながら、「アースワーク」と言う時のアースとは、大地と同時に、宇宙と対比した意味での地球という含意を持っていなかったのかな、などという思いつきがぽかりと浮かぶ。
06.20. HCB
「アンリ・カルティエ・ブレッソン 知られざる全貌」展(6月19日−8月12日、東京・竹橋/東京国立近代美術館)。最晩年に設立された財団による展覧会。2003年から世界巡回中で、日本では東近美のみでの開催とのこと。ヴィンテージ・プリントを含む、膨大な作品・資料(素描も含めて)を紹介し、見ごたえは十分。展示構成としては、撮影地域別となっている。ジャーナリスティックな形で世界中を渡り歩きながら、「作品」を残していったHCBにふさわしいというべきか。基本的に人間への関心を失わなかった人であって、ほとんど地域ごとの視線の違いを感じさせないこと、さりとてアメリカ編だけはやや調子が違うかな、といったことも気付かれる。思った以上に入っていて、若い人たちが熱心に見ていた。自分もまた大いに楽しんだのだが、素朴な事柄としては、ヴィンテージを除いて大半の作品に付随する黒枠が気になった。いや、もちろん残す人は残すものだが、一つにはHCB自身が一貫してフレームに対して厳格かつ意識的だということがある。構図の整斉性はそれなくしては成り立たない。のみならず、現実の場面に見いだされる窓等のフレームを執拗なまでに構図の一要素として使い、メタレベルでもフレーム意識を主張する。そうしたHCBの写真の外側を縁取る黒枠も言うまでもなく、フレーム意識を強化する役割を果たしている。かくて見ている側もついフレーム・コンシャスになってしまうわけだが、それはさらに、「作品」と版下原稿、アーティストHCBとジャーナリストHCBを分かつ指標のようにも、本展では見えなくもない。
06.26. 古写真
先週、東京・上野の東京国立博物館の特集陳列「古写真−記録と記憶−」展(6月5日−7月1日)を見に行った。同館は膨大な幕末・明治の写真コレクションを有するが、これがおそらく初めての特集陳列だという。ダゲレオタイプ「島津斉彬像」が重要文化財になったのが1999年のこと。この間の古写真の公的認知はめざましく、ついに東博も写真展かという感慨を抱かせるが、実は同じ99年から目録3巻(各図版編とデータ綜覧編で計6冊)を出している。というわけでこの日、図書館にその目録を見に行く。特集陳列は文化財行政、近代化の諸相、幕末・明治の有名人ポートレートと、バランスよく紹介するものとなっているが、目録を見ると、まだまだ面白い写真がたくさんあるようだ。西洋絵画・彫刻の写真が相当数入っている。重要文化財「万国写真帖」もそうだし、ルーヴル美術館の所蔵品写真は、明治29年、日本の宝物写真と交換で手に入れたものなのだという。そんなこともあったのか。まったく個人的な興味だが、「万国写真帖」12巻「ベルギーとドイツ(1)」に、ダンネッカー「アリアドネー」という彫刻が載っている。文学史上悪名高い「裸蝴蝶」論争の際、巌谷小波の批判に対して、山田美妙は、ドイツ系の勉強をしたあなたなら「ダン子ッケル」くらい知っているだろうと返しているのだが、こういう写真も日本には入っていたのかと分かって、何だかすっきりする。ちなみにウィキペディア英語版によるとJohann
Heinrich von Danneckerは1758〜1841年、シュツットガルトの彫刻家。「万国写真帖」の彫刻も「パンサーに乗るアリアドネ」として掲げられている。代表作の一つなのだろう。
06.29. ヒーロー・ヒロイン
東京都写真美術館のコレクション展「昭和 写真の1945〜1989」の第2部「ヒーロー・ヒロインの時代」(6月30日−8月19日)。この日は内覧会。率直に言って人寄せ感も漂う企画だが、なかなか見られないコレクションが出ているので、ふむふむと楽しむ。そう言えば以前、ここで<「森山大道展」と言えば、まさかカリスマ写真家があれこれのポーズで写っているとは思うまい。写真集もまた同様で、「土門拳写真集」は写真家の、「井上和香写真集」は被写体の名前を指すわけだが>云々という戯れ言を書いたことがあって、先日、「10+1」誌47号、鈴木一誌さんの「地表への接近」を読んでいたら、同じことが「知人から聞いた話」ということで書いてあった。話が回っているのか、偶然の一致なのか、この「ヒーロー・ヒロインの時代」展にもそういうところがあって、1枚の写真の価値は被写体・撮影者の双方に相わたる。戦後まもなくは明らかに被写体側に力点があるが、秋山庄太郎、篠山紀信をはじめ、写真家自身の中に人気者が現れてくる。ほかにも気付かれることは幾つかあって、出品されるプリントでは時として、肌の質感などがリアルに写っている。印刷に回す時はそれ向けの焼き方なり修整を施していたはずで、そうなると、いま見ているプリントは何なのか、「作品」としてまた生まれ変わったものを見ている、ということかもしれない。そこから逆向きに想像できることもあって、いま目にしているプリントの中にも、ザラ紙のグラビアに映えそうなもの、もう少しいい紙質の表紙などで映えそうなものとあって、例えば秋山庄太郎の白バックは後者の好例のように、いま見ると思われた。しかし、そんな話はさておいて、強い印象を残したのは石元泰博のポートレートの突き抜け方。最近、刊行された新作「シブヤ、シブヤ」(6月8日、平凡社刊)にも驚かされたが、それはまた他日にでも。
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