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三島
靖 MISHIMA Yasushi |
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(番外)小さい机−−写
真と小学校、そして美術館 2001.9.27
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小学校の教室に入るのは何年ぶりだろう。私には子どもがいないので授業参観というような機会もなく、本当に久しぶりに小学校の教室に入ることになった。
私は日本の現代美術の事情にはくわしくないので、廃校となった小学校を使って「セゾンアートプログラム・アートイング東京2001生きられた空間・時間・身体」という展覧会(1)が行われたいきさつには明るくない。また小学校を展示会場に使う美術展はもちろんこれが初めてではないが、私が実際にそのような空間で現代美術を見るのは初めてである。
私がこの展覧会に足を運んだのは、出展者に写真家・鈴木理策の名があったからで、パンフレットに書かれた「本展は『生きられた空間・時間・身体』というテーマのもとに気鋭の美術家22名(組)が参加し」という文脈のなかでこのひとがどのような展示をするのかたいへんに興味を持ったからである。
この展覧会の展示方法は、おおむねアーティストひとりあたり教室ひとつ、あるいは給食室を使ったり体育倉庫を使ったり、という空間の割り当てで、それぞれが表現する、ということになっていた(ようだ)。
ここで鈴木が行っていた展示方法は、つぎの通りだ。
・教室には、ふつう授業で使われるように学童向けの机と椅子が並べてある。展示のためにとくに教室を大幅に改変したところはない。
・教室の周囲に、通常「写真展」と呼ばれるのと同様に写真がめぐらされている。
・机の上にも1点ずつ、フレームされた写真が置かれている。置かれている写真は、壁に展示された写真とは違う「群」で、かりに私が机のどれかを選んで席についてこの展示全体を鑑賞したとすれば、私の位置は明らかに「教室」に対する「生徒」となる。
私が興味深かったのは、この写真家が、じつに素直に「教室」を「教室」として使っていたことだった。彼は参加作家のうちでは年長のほうだが、そのことに気づいていま一度全体を見直してみると、不思議なことにずっと年若い作家に至るまで、この「小学校」を引用しこそすれ、与えられた「教室」なり「小学校」全体なりを破壊しようとしている作家は誰ひとりいないように、作品の上では見受けられた。
そして、鈴木理策が展示をしている「教室」にふたたび戻ってみて、ずらりと並んだ机を見ながら私は感傷的にならざるを得なかった。私が小学生のころ使っていた机と椅子はこんなにも小さい!そして現在の私の視界、すなわち当時の教師の視野というのは、こんなにも高くて広くて雑駁だったのだ!参加している美術家たちのほとんどは美術関係の学校に通ったひとで、そのような進路へ向かったひとたちであるということ自体、思春期から相当に表現という自由への憧れと熱意を持っていたひとが多いと思う。にもかかわらず「小学校」に対してこれほど甘い気持ちになれるというのは、どういうことなのだろう。これが中学校や高等学校だったら、また変わってくるのだろうか。そうだとしたら、現代美術というものはそれほどに展示空間に対する情緒に合わせて伸縮可能だということなのだろうか。
もちろん、まさに「小学校」で酷い事件が起こったばかりなのでムチャはできない、という、ある意味で健康な自制心があったのかもしれないし、主催者のほうからこの<廃校となった小学校>を活かした展示をという申し入れがあったのかもしれない。そのあたりを調べずに書いている私の印象が誤っているというならお許し願いたいし、私とて単純に六年間の抑圧を表現しろというような馬鹿なことをいっているのではないことはいうまでもないことだ。
じつは私は同じ日、東京都写真美術館に「手探りのキッス 日本の現代写真」(2)という展示を見に行った。それがなければ、この一文は書かなかったと思う。
すでに指摘する声もあると聞くが、私のと同様の趣旨かどうかは別として、この写真展の最大の印象は「作品のサイズが大きい(ものが多い)」ということだろう。もちろん写真作品を「巨大化」する、という方法はさして新しいものではないし、展示に参加している写真家たちにとって、この展示におけるサイズがそれぞれに必然だったことを疑うつもりもない。まして私は以前比喩的に書いたこともあるように、オリジナルプリントの信頼性は重んじながらも、写真の伸縮可能性・複製可能性をあまりにも縛りすぎるような商品化のための約束事には疑問を持っているほうで、拡縮に異論をとなえているわけではない。だいいち、そんなことをいい出したら、すべてネガと同寸のコンタクトで展示するのか、という話になってしまうだろう。
にもかかわらず、私はさきに小学校の展示空間で感じたものに近い、ある種の違和感を拭いさりきれなかった。
美術館という場所の展示空間は一般に広く大きいだろう。東京都写真美術館も、あれを「狭い」という人もいるようだが、今回の展示を見れば、スペースそのものを「狭い」という人はあまりいないのではないか。そうなのだとして、美術館という空間に拮抗すべく写真が大きくなっていった、それによって結果的に大きなサイズの写真が「日本の現代写真」には多いのだ、とすれば、そのこと自体が奇妙な逆説であり、それだけで私の違和感には説明がついてしまう。そうではなくて、写真が大きいことには個々の作家固有の事情があり、今回の展示に「もともと作品が大きい作家」が多く選ばれているのだとすれば、それはそれで論理的には問題がないだろうが、私の違和感を濯ぐのではなくそれに対する別の説明になるだろう。なぜなら、かりに展示のコンセプトに作品傾向がより合致していたとしても、たとえば六切サイズでの出展にこだわる作家が他と同数の写真で加わっていたら、ただサイズの「小ささ」だけのためにその作品がその場にあることに非常なちぐはぐさが感じられたであろうから。逆にいえば写真が見渡すほど「大きい」ことは、それが一種のプロパガンダに近いイメージなりメッセージなりを存在として持つ場合が多いと私は思うが、そのあたりが明確に意識されているようでもない(意識されていたとしたらまた別の問題があるが)。
私は今回、ふたつの展示の内容、あるいはそれぞれの作品の内容に踏み込まない文章を手早く書いた。作品の、あるいは展示の、小ささ、また大きさに、どこか情緒的な雑音を感じたことによる。何かを見て、その日のうちに何かを書くというのは、私はあまりしないし、そもそもここでの私の感じかた自体、写真(の個々の作品性)とはあまり関係がないように思う。ただ、この日のどうしようもない居心地の悪さだけは、小さな声として伝えておきたかったのだ。振り返ってみると私は、写真作品がなぜそのサイズに作られているのかということを調べたことも読んだこともない。もし私の不勉強で、写真の小ささあるいは大きさに一定のセオリーがあるのなら(3)ご教示くださり、安心させてくださるかたがおられると嬉しい。
(1)10月5日まで/旧新宿区立牛込原町小学校/都営大江戸線「牛込柳町」西口/
http://www.smma-sap.or.jp
(2)11月25日まで/東京都写真美術館/恵比寿ガーデンプレイス内 /
http://www.tokyo-photo-museum.or.jp
(3)一般の印刷用の反射原稿(プリント)であればスキャナ(シリンダーに巻き付けるタイプを使う)に入る上限が四切(254×305ミリ)程度、文中にきわめて「小さい」例としてあげてある「六切」(203×254ミリ、いわゆる『エイトバイテン』)が普通
(実際の印刷サイズにもよるがおおむね)、といった暗黙の約束があるが、これはあくまで印刷物にする上でのこと。 |
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