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三島
靖 MISHIMA Yasushi |
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last update
2008.6.16 |
52:常套句
2008.6.16
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わたしが、多くの写真家たちとの会話でもっとも繰り返した「常套句」は何だろう、と考えていた。たとえば写真家にインタビューして雑誌に掲載する記事を作るとする。そのとき、どんな写真家にもかならずする質問とは何か。
ひところは間違いなく「フィルムかデジタルか」だった。カメラがデジタル化されつつある時代に、「フィルムにこだわる」という発言を引き出せば、作品性がまるで高いかのような記事になったから、魔法の質問だった。しかも「フィルムもデジタルも関係ない、カメラが全部デジタルになったらデジタルを使うだけだ」という、ひどく当たり前な発言があると、さらに作家性が強く聞こえたから不思議だ。
常套句よ、永遠なれ。
しかし今年の四月、カメラ映像機器工業会が、出荷台数が少なすぎて工業会の統計基準を満たさなくなったことを理由に、以降フィルムカメラの月産台数は公表せずと発表した。もちろんフィルムが売られている限り、まだたくさんのフィルムカメラが世の中で稼働しているわけだが、「フィルムかデジタルか」という手軽な常套句は繰り出しづらくなってしまった。
そこで、つぎの常套句に頼ることにした。
「スナップ」である。
プライバシーとセキュリティを保護せよという、近年強くなった正当な人権的要請から、街路で見知らぬ人をスナップ撮影することは困難になっている。
正確にいえば、被写体の許可なく発表することが厳しくなった、ということだ。
輻輳と循環がどこから始まったのかよくわからないが、もとは写真を撮って発表する手続きを正そうとする文脈だったのが、街路でスナップ撮影をすること自体が倫理的に問題だという副産物が常識に昇格してしまったような印象もある。
いわゆるストリートスナップを発表したことで、撮った側と撮られた側で大きな法的トラブルが繰り返し起きているとはあまり聞かないので(明らかに法にふれるような行為で被写体を傷つけた場合は別だ)、「スナップを撮ってはいけない」あるいは「撮れなくなった」という昨今の「常識」は、多かれ少なかれメディアと撮影者の自己規制の累積だと想像される。
いま自己規制と書いたが、わたし自身は、原則として被写体側を優先的に保護すべきだと考えている。
ひとは誰も、自分が望まない姿を撮影されて不特定の他者の視線にさらされない権利がある。これは、ひとは誰も、不特定の他者に撮影されない権利がある、ということでもある。一般に撮影者の側には、被写体を傷つける意図はない、という主張があるようだが、傷つくか傷つかないかは撮影者が決めることではない。傷つけるつもりがないから撮ってもいい、というロジックは、他人を傷つける奴が居るかもしれないから撮らなければならない、という監視カメラのロジック(なぜかこのカメラの前では人はプライバシーとセキュリティを乖離させて平気なようだが)と、実は同じことだ。
しかし、そう言うお前は典型的なスナップスタイルの人物写真を雑誌の誌面に掲載しているではないか、と、わたしの仕事を知る人は指摘するかもしれない。
わたしは、ある問題に関する主義主張のために写真家の作品を掲載してはいない。なにかのテーマの挿絵として作品を扱う考えも、自分から持ったことはない。したがって「典型的なスナップスタイル」の写真が私を編集者として掲載されているとして、そこで私が「常識」に対して関わっているのは「手続き」上の実務のみである。
通過者の視線で撮ったスナップフォトに、撮影後、第三者があらゆる「手続き」を施すことは不可能だ。いくら撮影者とメディアが心情的・実務的に手を尽くしても、撮られた側から問題を突きつけられる可能性はなくならない。すでに知られているように権利感覚に先進的なフランスなどでは建築物や景観にも著作権などの諸権利が設定されつつあるから、今後、問題発生の可能性は無限大になるといってもいいだろう。
したがって、私のしていることは「気の持ちよう」の再確認のみ、ともいえる。問題が大きくなりやめざるを得なければやめる、とか。となれば、心中する気に到底なれない写真家に詰め腹を切らされることもありうるが、そのときはそのときだ、とか。
ならば、掲載前の調整が面倒なうえに問題の火種を含んでいるかもしれない写真を、お前はどうして誌面に載せるのだ、という人があるかもしれない。自分の主義主張のために写真家の作品を掲載しているわけではないなら、無理してどうする?
実のところ、わたしにも正確な理由はわからない。
しかし、こう言うことはできる。
わたしは原則として撮られる側を優先的に保護しなければならないと思う。ひとは誰も、意図しない方法で撮影され不特定他者の視線にさらされない権利がある。報道や芸術などいかなる社会的使命を帯びた写真にも、その権利を侵す特権はない。しかし、このことで写真というモノの見かたの方法がその視線を自ら弱めるようなことは、決してあってはならないのだと。
見られることは「傷」になる。見ることは、視線が刻む傷にほかならないからだ。しかし、自らの視線が刻む傷をまのあたりにすることもまた、「傷」にほかならない。写真とは、このような痛みの間を貫き通る、ふれただけで指の切れるような刃でなければならないのだと思う。
このような思いとはうらはらに、わたしは「スナップの可否」を、新しい常套句として使ってきた。この質問を写真家たちにしたとき、おかしなことに「フィルムかデジタルか」同様、可否のいかんにかかわらず論理が単純であればあるほど、作品あるいは撮影する行為に付加価値がつくような気がするのだ。
かつて写真学校の多くで、広角レンズをつけたカメラを学生に持たせ、街路の人々へ「寄って撮れ」と教えたことがあったと思う。その「寄り」の度合いで「ストリートに斬り込んだ」と評価を決めたこともあっただろう。いまも同じことをしている教室があるかどうかはともかく、この文脈での「斬り込む」は、わたしが書いた「刃」とはまったく別のことだと思うのだが、その検証をわたしはまだしていない。
秋葉原という、現代社会を象徴するような「ストリート」へ、ナイフで斬り込む、という現実の行為が起きた。驚くべきことは、その「ストリート」で事件が起きたとき、じつに多くの人々が熱心に写真を撮っていたという事実だ。その人々のたたずまいにわたしは、これまで考えてきた「見る/見られる」とはまったく異なる視線の存在を感じた。
新聞に報道された、携帯電話で現場を撮影する人々の写真の説明には、現場を「不安そうに見守った」人たちだと書かれている。かなしいことに、わたしも週刊誌記者時代に書いたことのある常套句だった。
常套句よ、永遠なれ。
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