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三島 靖 MISHIMA Yasushi

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last update 2006.11.21

51:銀ぶら

2006.11.21


 

「銀ぶら」とは「東京の繁華街銀座通りをぶらぶら散歩すること」だ。『広辞苑』にはそう出ている。が、もともとは、いまも銀座にある創業百年が近い喫茶店、パウリスタへ「ブラジルコーヒー」を飲みに行くことだったという。つまり「銀ブラ」。大正時代の初めに、当時もう銀座でブイブイいわしていた慶応大学の学生たちが作った言葉のようだ。
 空気が冷たく感じるようになった秋の一日、わたしも「銀ぶら」をしてみた。


 この秋、銀座と有楽町にニコンとフジフイルムがそれぞれ新しいフォトスペースを開いたのは、写真やカメラに関心を持つかたならお気づきだろう。
 ニコンは、それまで銀座五丁目にあった「銀座ニコンサロン」と修理業務を行うサービスセンターを七丁目に移し、ショールームとプロサービスを併設、10月7日にオープンしている。フジフイルムは、写真教室とギャラリーを合わせたスペースを「FUJIFILM フォトエントランス日比谷」と名づけ、10月20日にオープンさせた。
 銀座ニコンサロンはその移設を記念し、1968年以来のニコンサロンの歩みをふりかえる特別企画展を行っている。いま開かれているのはその第三回で、小川隆之、北島敬三、長倉洋海、瀬戸正人、小林紀晴の作品で構成された「世界の響き」だ。小川の「NEW YORK IS」(68年)から順に、およそ10年ごとにニコンサロンで開かれた彼らの写真展の作品を再掲している。
 五人の写真を見ていると、おそらくわたしでなくともすぐに気づくことがある。それは、前の四人と後の一人の間に、ほとんどパラダイムシフトといっていいほどの大きな断絶があるということだ。
 そこに展示されている写真はすべて、撮影者と「世界」との距離を写真で語ろうとする試みにほかならない。そしてそれぞれの写真は、撮影者をへてわたしたちの日常の視覚に闖入し、わたしたちの記憶に書き込まれる、ものの見えかたの座標だ。これは五人の写真すべてに基本的には共通している。
 すくなくとも1990年前後、間違いなく80年代いっぱいくらいまでは、写真を写真として意識して見る人びとの間には、見ることへの執着があった。写真でもってなにかを見ようとすること、あるいは写真でもってなにが見えるかということへの執着といってもいい。ネットを検索すれば、なにかを見たい欲望を即席に満足させられる時代ではなかったのだ。だから、たかだか二〇年ほど前のことなのだが、見たいという欲望はいまより素朴に存在していたと思う。当然、写真家はそれを意識せずに撮影したり発表したりすることは不可能だっただろう、というより、このようなことを誰も疑わずに撮ったり見たりしていた、といったほうが正確だ。
 したがって前の四人の作品は、ただひとつの動機、つまり「撮る」からには「見なければならない」という倫理で透徹している。
 倫理は当然、情緒という余波をかぶる。見なければならない〜見せなければならない〜見なければならない−−脅迫観念にも近い、見ることの執着的な循環。わたしのように1980年前後から写真を写真と意識して見はじめた鑑賞者が圧倒的に惹きつけられたのは、この循環に投げ込まれたがためだったのだと、いまさらのように得心がいく。
 前の四人の写真それぞれには、かんたんな作者の緒言をべつにすれば写真説明もない。なのに、わたしは彼らが足をつけたその場所に空想の足をつけ(逆にいえば彼らがカメラを持ちシャッターを切る、その立ち位置と「押し」の感覚には、言葉不要の明晰さがあるということだが)、いつまでもその執着につき合える。
 情緒の余波といったのは、たとえば出展者のひとり長倉洋海が、エルサルバドルを撮ってその二百本近いフィルムを、身を挺し身命を懸けて持ち帰った、というその「重たさ」に、わたしもつき合ってしまう、ということだ。デジタル画像なら、同じ量の写真をはるかに軽く持ち帰られる。現代の報道写真家なら通信で大切なカットを送りもするだろう。フィルムの重たさにつき合って写真を見るなどというのは、デジタルから写真にはいったひとびとにはもはや説明さえむずかしいだろう。

 そこで後の一人、小林紀晴が撮った「White Panic 9.11からの日々」である。
 わたしは、このニコンサロンでの展示を二回見た。二度見てから、小林が展示した写真を載せて書いていた文章(「DAYS NEW YORK」/『アサヒカメラ』2002年1月〜12月号)を読み直した。

「僕はさめているのかもしれない。そのことを残念に思う。同時に過去の知るはずもない時代のこの街にあったであろう「熱」に、僕は嫉妬する」

「街を歩いていて向こうから光がやってくると、それにカメラを向けずにはいられなくなった。その光にいやおうなく反応させられる。その光を風景と呼んでいいものなのか迷う。きっと風景以前である。」

 話の中でもっとも興味深いのは、ニューヨークで起きた炭疸菌騒ぎの現場、新聞に載った22カ所をひとつひとつ歩き、写真に撮った、という話だ。

「22の場所に何かがあるわけではないことはわかっていた。ましてや炭疸菌が写真に撮れるわけでもない。だから恐怖を感じさせる原因そのものは、絶対に写真に撮れない」

 とはわかっているのだが、それでも「自分が感じている恐怖の正体を、正視しなくてはならないといった気分だった」のだと続く。そして撮影の結果はもちろんこうだ。

「でもどこまでも穏やかな秋の一日であることに変わりはなかった」

 見えないものは見えないのだ。見えないものが写真に写るはずがない。それを見えたということは偽善にほかならない。「White Panic 9.11からの日々」は、そういっている。もちろんその写真は、見えないことは撮れないと確信する態度を持たない。だから、見るべきだという脅迫観念を告発する態度もない。見えないものは見えなくていい。撮らなければならない写真などない。そのかわり、その思いにいかに自分が揺れたかという「揺れ」を、なんらかの形でとどめたもの、それをあえて写真といいたい、ということなのだ。
 ほかの四人の展示と違い、写真にまず、写真家が、いかに日常の自分らしく世界に接したかという言葉が付される。そして何を撮った写真かという写真説明もついている。そしてそれらが説明しようとするのは、写真は、いかに鑑賞者がわかるような形では世界を写しとらないか(そのように撮ろうとしても写らなかったか)ということだ。
 逆光に撮影者のカメラが照らされて被写体が見えにくい写真−−ほかの四人ならば撮影者の側からストロボというもう一つの太陽を照射して「見える」状況を作ろうともするだろうが−−写真を生み出す存在ながら、それ自体は写真を破壊する作用さえ持った光に素直に引き寄せられる感覚。それは写真の終着点、いわば写真の墓地に向かって歩むことにほかならないが、画面を飛ばした逆光の眩しさには悲壮感も抑鬱感もない。悲しみや悩みを共有する仲間がそれでも明日へ続く落陽を見る、ドラマのエンドシーンをさらにその後ろから撮ってあげているような、包容感と許しに満ちた写真……。
 そういえばこの写真と合わせて連載された文章を読んでたびたび気づくのは、写真をめぐる出来事の多くが、友人そして、友人の友人、知り合った誰それ、というような人間関係のゆるやかな「リンク」から立ち上がる視線のもとに起きることだ。たまたまニューヨークで出会った日本人が、偶然かつて同じ写真学校に通っていて、記憶があったと明かされたりする。濃からず薄からず、深くは関わらないかわりに深くは傷つかない緩やかな絆。この日常性のリンクに投げ込まれることが写真を見るきっかけだったならば、わたしはそのリンクに付される写真を、途切れることのない共感と信頼を持って飽くことなく見続けられたのだと深く気づかされた。
 


 わたしは90年代の多くの時期を、あまり写真を熱心には見ないで過ごしてしまった。だから今回のニコンサロンでいうと、瀬戸正人の「バンコク、1983」と約20年後の小林紀晴の「White Panic 9.11からの日々」の間に、日本の写真にどんな動きがあり、動きを担った写真が実際にはどのように見られていたか、ということの実感がない。
 そんなわたしにわずかにいえるのは、「FUJIFILM フォトエントランス日比谷」の開設記念展で、カメラ雑誌を乗っ取るような発表で伝説的な立木義浩の「舌出し天使」が再展示されたが、その立木が会場メッセージに書いていたように、写真を執拗に見せようとする編集者がいて、写真家も鑑賞者もその執拗さを共有した時代は「繰り返しようがない」ということだ。
 写真の「かつて」を引き受けたカメラ雑誌の編集者という立場にかえるなら、もちろん流行りすたりにも敏感でいたいと思うし、好みでもの事を判断しようとは思わない。しかしその一方で、「かつて」にとらわれた執拗な仕事をする古さを持ち続けたいとも思う。といっても、キレイごとだけをいって本や雑誌を売っていける編集者はよほど恵まれた人だろう。わたしの感想も、これくらいにしておかないとボロが出てしまう。


 さて「銀ぶら」の続きだが、つぎは高級ブティックで写真を見てみることにしよう。
 このウエブサイトで高級ブランド店のことなど書くな、という意見があるかもしれないが、やっているのである。写真展を。かのダイアン・アーバスも、ロバート・メイプルソープも(彼はたぶんアーバスをパクって)いっていたではないか、もっとも高いものともっとも低いものを同時に見ることが大切なんだと。いや、べつに「高い」「低い」の話をしているのではない。話をややこしくしてはいけない。
 で、ひとつは、銀座五丁目のメゾンエルメスで開かれている「木村伊兵衛のパリ」である。
 木村伊兵衛が一九五〇年代の洋行で撮影していたカラーフィルムからのプリントには近年、再評価の気運があり、七〇年代にいちど出版されたことがあるカラー版のパリの写真が新編集で刊行されもした(『木村伊兵衛のパリ』朝日新聞社)。エルメスの展示はこのシリーズからである。また同じパリでもモノクロ撮影のほうを、これも高級志向でアピールしているライカ銀座店で展示している。
 わたしはエルメスでの展示を三度見た。ここで展示されている木村伊兵衛のパリのカラー写真は、いわばロベール・ドアノーやカルティエ=ブレッソンの写真でお馴染みのモノクロのパリのイメージに、あざやかな、そしてほどよくノスタルジックな古色を帯びた色をつけた感じがする(実際にパリで木村伊兵衛の案内役をつとめたのはドアノーであり、カルティエ=ブレッソンに会ってもいる)。現代のカラーフィルムとは違うその発色に古きよきパリの情緒を見い出し、フランスの上流家庭のインテリアを飾るべき装飾性を発見して、会場で見られるような「絵画」仕立てを行ったのなら、展示の構成はおおいに成功していたというべきかもしれない。

 


 もう一カ所、銀座三丁目のシャネル銀座ビルにあるネクサス・ホールでも写真展が開かれている。「Pour une photographie engagee −報道写真−」と題し、フランス国立図書館で行われた写真展を展示しているものだ。タイトルの「報道写真」は、わかりやすさを案じて付加したはずで、仏語の題は「参加する写真のために」−−つまり、もはやいわゆる「報道写真」ではない、ということだ。わたしが前回書いた、ことしのアルル写真フェスティバルと関連させていうなら、フランスはさまざまな社会の問題に直面し(とくにイラク戦争以後の宗教と移民の問題)、個々の問題にたいして個人がいかに「アンガージュ」するかということを考えている(人により温度差はあれ、すくなくとも日本人の大多数よりは積極的に)ということである。そこにかかわる写真展を「シャネルが」(あのシャネルが/あのシャネルだからこそ/それはどちらでもいいことだ)行っている、ということだ。
 展示フロアのネクサス・ホールには、写真を注意深く見ようとする気持ちを徹底的にそらすBGMを別にすれば、静かに写真と向き合える素晴らしい空間が作られている。聞くところでは平日は鑑賞者が一日三〇人ほどだそうで、下階のブティックを訪れるだろう人の数とは差がありそうだが、むしろそれをよしとしたい。わたしは、たまたま下階から「間違って」写真展会場に入ったといっている二人連れの女性と同時に見たが、たとえば、アフリカからフランスへの移住を試みて吹き飛ばされそうな危険な小舟で渡海する密航者たちに「参加」して撮ったオリヴィエ・ジョバールの写真を、この人たちの感想の囁きを聞きながら見ることはとても興味深かった。
 なにもわたしは、高級ブティックで平日から買い物するような人は、このような写真を見るなというのではない。まったく逆である。むしろ写真こそ、そのような場を暴力的に「場違い」にするもの、執拗さで眼を突き刺す闖入者としてふてぶてしく居坐るものであっていい。そうあるべきなのだ。闖入者−−そう、自身もまた写真に憑かれたことで興味深い、あの安部公房のような意味でもって。


ニコンサロン1968-2006特別企画展「世界の響き」〜12月5日/東京都中央区銀座7-10-1 STRATA GINZA 1F 銀座ニコンサロン
・立木義浩写真展「舌出し天使」〜11月22日/東京都千代田区有楽町1-1-2日比谷三井ビルディング1F フォトエントランス日比谷
・「木村伊兵衛のパリ」〜1月21日/東京都中央区銀座5-4-1 メゾンエルメス8階フォーラム
・「木村伊兵衛写真展」〜1月21日/東京都中央区銀座6-4-1 ライカ銀座店
・「Pour une photographie engagee −報道写真−」〜12月3日/東京都中央区銀座3-5-3シャネル銀座ビル4階シャネル・ネクサス・ホール


*さきごろ、わたしはフォトグラファーズ・ギャラリーに招かれて、評論家の飯島洋一、写真家の北島敬三の二人と話す機会をもった。トークが終わり、会場に残っていたわたしに、ひとりの若い外国人が近づき、意見をいってくださった。この日、私たちは参考図版としてテロで倒壊したニューヨークの世界貿易センタービルのさまざまな写真を会場で見せながら話していたのだが、彼は、わたしたちの冷静な見かたがひどく印象的だったという。彼は、その事件で友人もしくは兄弟(申し訳ないが正確には聞き漏らした)を亡くしたとのことで、わたしたちがつぎつぎに投影し比較するなどしているツインタワーの写真を、冷静にはとても見ていられなかったというのだ。質疑応答の時間にいうようなことではないと思ったので、と彼は丁寧にいい、わたしに礼をいって去っていった。

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