|

八月上旬、フランスに行ってきた。
おもな目的は、夏休みを南フランスの小都市、アルルで過ごすことだ。
ゴッホが住んだことでも知られるアルルでは、毎年七月に歴史ある国際写真フェスティバルが開かれており、今年は三十七回目、期間は七月四日から一週間だった。
正式な名称を「Les Rencontres D'Arles Photographie」すなわち「アルルの写真との出会い」というこの写真祭は、「出会い」をキーワードに構築されていることが特徴だ。もともとはアルル在住の写真家、ルシアン・クレルグが、夏のバカンスを兼ねてフランスの写真家を招いた私的な集まり――その中にはアンリ・カルティエ=ブレッソンらの姿があった――に端を発するというが、現在のフェスティバルの内容をあげていくと、その「出会い」が名実ともに大切にされていることが、よく理解できる。
*

まず「見る」こと。
いうまでもなく多数の写真展が開かれる。今年は個展、グループ展合わせて公式なものは二十一を数え(近年では少ない部類のようだ)、故人も含め何らかの形で展示があった写真家は欧米から南アフリカまで百人を超えたと思う。それらの多くに、写真家本人や企画者によるガイドツアーもある(彼らは別の場で開かれるレクチャーやディベートにも参加する)。
展示のほとんどは、迷路のような中世の街並みが残るアルル旧市街で開かれるが、ただ歩くなら東西も南北も二〇分ほどなので、チケット売り場で渡されるパンフレットを見ながら写真展を探して見て歩く楽しさは、想像していただけると思う。
ほかにも夏のバカンス地を彩るイベントとして、夜、ローマ時代の古代劇場遺跡で行われる投映ショーがある。例年、ジャズのライブなどが同時に行われているが、今年はロックシンガーのパティ・スミスのパフォーマンスがあったようだ。開始は午後十時過ぎと遅いが、夏のアルルは暗くなるのが午後九時近く。バカンス客たちの夜の盛り上がりはこれから、といった時間帯である。なお、写真展はフェスティバル終了後も夏いっぱい開かれている。期間中の混雑を避けて写真展をゆっくり見て回るほうが休暇向きだろう。今回のわたしの日程もそう考えてのものだ(つまりフェスティバルそのものに参加したわけではない)。
つぎに「語る」こと。
これについては、シンポジウムや討論会、ワークショップが期間中毎日開かれている。デジタルテクニック関連のミーティングもある。今年はライカファンの集いや中古カメラ市、写真集の古書市なども開かれたようだ。昨年度刊行の写真集に対する賞が設けられているので、出品サンプルとしておもにヨーロッパで刊行されたのであろう写真集の多くを、自由に見ることができた。
そして、まさに「出会い」にかかわること。
まずはポートフォリオレビューがある。毎日公式に行われているようで、そこで選ばれた作品の展示もあった。さらに、写真関係者やその世界を目指す人たちの非公式な場での交流。これがこのフェスティバルが「出会い」と題されるゆえんだろう。というのも、小さな街にひととき、欧米の重要な写真人が多数集まっているのだ。彼らの間で期間中にかわされるさまざまな対話のボリュームは相当なものになる。
ちなみにわたしは以前、雑誌記者としてフェスティバルに参加したが、記者証を目ざとく見つけた多くの写真家たちにつぎつぎに写真を売り込まれ、往生したことがある。このとき、かなり後に日本で、何かものすごく偉いことであるかのように教えられるようになったプレゼンテーションを写真家はふつうにするものなのだということを、わたしは知った(二十年近く前の話である)。
昔話ついでに書いておくと、当時フランス国立図書館写真部門の責任者であり、同時代のフランスの写真に伝説的な影響力を持っていたジャン=クロード・ルマニ氏が毎夏訪れ、非公式に誰のポートフォリオでも見てくれる、というのがアルルのフォトフェスティバルの話題のひとつでもあった。この人の影響力というのはいまでは賛否が半ばするかとも思うが、その写真の見かた、見た写真に対する判断と言葉の組み立てかたは、実際にそばで見ていたわたし自身、かなりの影響を受けたことは間違いない。これは別に秘策でもなんでもないので、ご要望があれば別の機会にお話しする。
*

というように見渡してみると、アルルの写真フェスティバルは、写真にかかわる人びとが、業種を同じくしつつも違った役割や立場の人に出会い、写真の仕事における自分の位置を確認する空間なのだ、ということがつかめてくる。むろん、ことの多くは商売がらみのリアルポリティクスやマーケティングなのだが、いずれにせよ、フェスティバルの中心にあるように見える写真展は、いわば「出会い」をめぐるサムネールのようなものだといって差し支えないほどである。
それがアルルの写真フェスティバルが「出会い」と題されていることの意味だとするならば、当然ながら、アルルに来て写真を見ているわたしは、ただひとつのシンプルな疑問を抱きながら写真を見ていかなければならないだろう。
その疑問とは「わたしはなぜ写真を見ているのか」ということである。
それは「わたしとは誰なのか」ということだ。
フランス語の案内図ならば「Vous etes ici」と書かれる「現在位置」、わたしはそれを、写真を見ることのうちに見い出さなければならず、そしてそこからわたしは、わたしに向かい合う旅をあらためて開始せねばならない、ということだ。
わたしに向かい合う旅とは、決して私小説を編むことではない、ということを強調しておきたい。スーザン・ソンタグがその写真論集の最初で嫌味っぽく翻案しているプラトンの洞窟の比喩をさらに借りていうならば、洞窟の壁に顔をくっつけて影を見、影を語るのではない(残念ながらわたしは東京にいるとき、ほとんど例外なくそのように写真を見ていると思う)。できるなら洞窟の入り口から射し込む、眩しい光を直視したいのだ。写真に背を向けて。
*

今年はフランスの写真家、レイモン・デュパルドンが監修者として招かれた。ピュリツァー賞受賞歴のある報道写真家であり、ドキュメンタリーおよび劇映画監督・映像作家でもある。写真通信社ガンマの創設者であり、のちにそこを離れてマグナムの正会員になっている。
この人のディレクションは明確だ。フェスティバル代表のフランソワ・バーレの言葉を借りるなら、「他者のモノの見かたによるセルフ・ポートレイト」だというのだ。バーレは、こう念を押してもいる。「他者が彼を見ることによる像なのではなく、彼が他者を見ること、そして彼がその人びとが見るものを見ることによる像」なのだと。
そしてデュパルドン自身は、つぎの三つのテーマを用意した。それは「影響」「旅の道連れ」「政治と社会にかかわる写真家たち」というものだ。それぞれに、彼の写真に影響を与えたアメリカの巨匠たちの作品、60〜70年代に彼と同時代を生きたいわば「戦友」としての写真家たちの写真、そして、ドキュメンタリー写真という分野においてさまざまな方法論を駆使する現代の写真家だちの作品を、ピックアップしている。はっきりとドキュメンタリー特集だと銘うたれてはいないのだが、これほど明確にジャンルが軸に立てられたことは、近年このフェスティバルではなかったのではないか。
こう解説してくると、伝統派フォトストーリー型のドキュメンタリー写真がずらりと並んださまが想像されるが、もちろん、まったくそうではない。デュパルドン自身は、いくつかの分野の写真には失望があった(たとえばアフリカをテーマにしたものや風景に関するもの)こと、その一方で、移民や政治に関する写真ではめざましい発見があったといっている。
今回のフェスティバルに、ひとことでドキュメンタリー写真とは到底くくれそうにない写真が数多くピックアップされたのは、撮影者が写真を撮ることで見る側に何かを伝える、などという方法では、もはやドキュメンタリーは成立しない――撮ることと撮られること、見せることと見ること、そのほか、あらゆる局面において複数化・重層化した双方向性なしには、写真というものは(ドキュメンタリーという分野に限らず)成立しえないのだ、という、ごく当然のことが結果として現れたということだろう。
*

さて、すでに書いたように、このような姿勢で選ばれて見せられる写真を見るわたし、についてだが、写真を見ているときはデュパルドンのディレクションのことは知らなかった。はからずもわたしの意識とデュパルドンの姿勢が交差したわけだが、ほぼすべての展示を見た後、今後も記憶に残りそうな印象は、二つある。
ひとつは、ソフィ・リステルユベールというパリで活動する女性写真家の作品についてだ。
一九四九年生まれの彼女は、デュパルドンの「旅の道連れ」にラインナップされたが、その写真は伝統的なドキュメンタリーではまったくない。二〇〇〇年前後に彼女自身が実際に旅した中東の風景に、通信社のビデオアーカイブから取り出した、爆弾による穴の映像を貼り込み、大型のプリントにして、アルル旧市街にある、も抜けのからになった家の室内の壁にランダムに貼った作品である。仕立てはただそれだけだ。
ひとをその係累から引き剥がす破壊のオブセッションを表現し続けてきた彼女の新作ということだったが、正直なところ映像には切迫感がなく、インスタレーションという方法にも新しさがない。その場ではほとんど意識にとどめず、つぎの展示に向かった。
しかし、アルルからパリへとフランス滞在が続くにつれ、なぜかこの展示ばかりが思い出されるようになった。
ちょうどロンドンで起きた旅客機<爆破>テロ未遂事件が、フランスでは肌身に迫る危機感として感じられたこともあったろうが、それよりも、移民の問題にせよ階級・階層の問題にせよ、わたしの存在は他者のありようによっているのだ、つまり他者を知らずしてわたしの存在を考えることはできない、ということを、日々痛感させられるのが大きかったと思う。旅行者、在住者を問わず滞仏日本人が一般にどう感じるのか知らないが、すくなくとも私はそうだ。
いま簡単に日本人とわたしをイコールとするような文脈で書いたが、フランスにいると、わたしはどうも自分を簡単に日本人だとはいえない(国家をわたしの属性としてわたしの存在を考えることができない)感覚がつねにある。ならばどうするかといえば、周囲との関係においては「わたしはアジア人」だといいたいが、これは、いまのわたしにはとてもむずかしいことだ。
いずれにせよわたしは「マイノリティ」なのであって、それは数という物理的側面からも民族という政治的側面からも、フランスで写真を見ているわたしを正確に表現していると思うが、にもかかわらず、ソフィ・リステルユベールの展示の、どの部分にもわたしは人として属することができない。爆破された側にも、する側にも、展示があった古い家に住む側にも、そこへ侵入する側にも、さらには来客としてさえも。
理屈では、わたしが現代世界のどの部分に属するか(つまり芸術の好きなかたが愛用するコンテンポラリーという言葉のくくりにおいて)は、説明がつくだろう。しかし、わたしはそれを実感することはできない。東京で「コンテンポラリー」な写真を見ていても実感さえできない。東京の外にいることで、実感できないことをようやく実感できる、といった程度のことだ。
じつはリステルユベールの展示は、わたしにそのような実感をもたらした。そしてそれは、今年アルルで見せられたさまざまな「ドキュメンタリー」写真の中で、写真がいま置かれているその場所で、フレームの内側(デジタル印画の調子がどうだとかどんなカメラを使っただとか、撮影者がどんな人だとかいうことも含む)以外の場所から写真がわたしを揺さぶった、唯一の例だったということだろう。つまりそのインスタレーションは、わたしを、わたしからいったんアンインストールする力を持っていた、ということである。そしてそれは「テンポラリー(一時的な/はかない)」なものとして、期間終了後、アルルの旧市街からも消え去ることになっていた。つまり、わたしの記憶だけに歴史を刻む、そのような力を持っていた、ということでもある。
たぶん展示の撮影は禁止されていたと思うが、わたしは無意識のうちに1枚だけ、この展示の写真を撮っていた。むろんその写真は、わたしの記憶に残った「テンポラリー」な力をまったく連想させはしない。夢を写真に撮ることはできない。つまりはわたしのこの記憶も、南仏の光がもたらした日射病ゆえの妄想なのかもしれない。
*

さて、もうひとつは「影響」というテーマでの展示で、アメリカの巨匠たちの作品を集めた写真展である。ウォーカー・エヴァンズやエドワード・ウェストン、アンセル・アダムズ、ウィジーやルイス・ハイン、あるいはウィリアム・エグルストンなど、いわばアメリカ写真の王道にある作品をすこしづつ展示したものだ。かつてゴッホが治療を受けた病院をいまは市民向けの文化施設(図書室やレクチャー室などがある)にしている場所で、東京ならば区役所の分館、コミュニティセンターのような空間での展示だと思っていただきたい。プリントはフランス国内の美術館のコレクションから借り受けているが、ダイジェストふうの、けれん味のまったくない静かな展示だった。
ただ、わたしにとってこれが特別だったのは、予想外の数のヴィンテージプリントが展示されていたということだ。ヴィンテージかどうかはキャプションに記され、必要に応じてモダンプリントと額を(大げさにならない程度に)変えてある。そして、どの写真家の場合でもほとんど必ずヴィンテージが出されていたから、わたしはこれほどたくさんの、有名写真家のヴィンテージを一度に見たのは初めてだった。警備もなく、夏の軽装の人びとが涼みついでのように眺めている姿は奇妙な感じがする。
ちなみにわたしは「お宝」に出くわしたと自慢しているのではない。こと写真については、プリントに対する過剰な評価には反対だ。むろん美術品としてプリントを売買・収集することを否定はしないが、市場の約束事にしばられて複製性や増殖性、伸縮性、いったん発表した作品の調子を変えてリプリントしたり組み合わせを変えてシリーズを組み直せるなどの編集性、こういう特徴を制限したり、本や雑誌などに印刷された形で見るという鑑賞(オリジナルの意味は確かにないが)を低く考えるなら、写真の面白さは半減すると思う。
といいながら、写真を見る体験でもっとも感動的なのは、写真家が自分で仕上げたプリントを順繰りに手にとって見ること(できれば写真家その人のいる場で雑談でもしながら)だということも、間違いなくいえるのだ。
アルルの会場で、いま見ているプリントの多くがヴィンテージ、つまり写真家自身が撮影後、早いうちに自分で仕上げたものだ、と知ったとき、静かな会場は突如、写真家たちの声にならない囁きに満たされた、豊かなざわめきの場となった。
絵画的フェティシズムだといわれるまでもなく、このような感覚が危ないことは承知している。作家の言葉や意図の斟酌、そのことによる被写体への「カメラアイ」なる念写的亡霊技術のデッチ上げ……いかに写真に対する「感想」が左へ右へと情緒に流れてきたかは、わたしもその流れに乗った者として自戒なしでは思いだせない。しかし、写真にまとわりついている声にならない囁き(それが写真家のものかそうでないかを問わず)を聞かずしてテキスト論ふうの衣装をまとってみせたとて、じつは古い踊りを新しそうに踊っているだけだ、ということは、やっている人たちも十分に承知しているのではないか。
同時代的だとか、ことさらに遡行を強調するとか、写真はなぜそのように見なければならないのだろうか? いまのわたしにはそのような写真を見る「スタンス」とは、見る「わたし」とは何なのかということをつねに保留にしておける、もっというなら「わたしの現在位置」など生涯一度も意識しないでおける集団の中でしか通用しない態度なのではないかと思えてくる。いや、うすうすそう思っていたのが確信となった、といったほうが正確だろう。
その確信をわたしにもたらしてくれたのは、展示の中にあったわずか三枚のダイアン・アーバスのヴィンテージプリントだった。
*

照明が暗いせいか、あるいはわたしの見間違いか、これまで見た経験のある、ダイアンの生徒だったニール・セルカークのプリントよりも明らかに眠い感じがした。眠いというか、いまひとつガリっとしていない。しかし、むしろこのプリントからわたしはダイアンの声を聞いたような気がした(キャプションにヴィンテージと書いてあっただけでそうなのだとしたらわたしもかなり重症の日射病だったのかもしれないが)。
それは「ああ私ってどうしてこうコントラストが締まらないのかしら」かもしれなかったし「できた! これが撮りたかったのよ!」だったかもしれない。わたしは三枚の写真を見ながらダイアンの言葉に耳をすませた。
しかし間もなく、その言葉は跡形もなく消え去った。そこにあったのは、あなた(つまり見ているわたし)は誰なのか、と厳しく問いかけ、返事を待っている、写真に写った人々の視線であり態度なのである。
もちろんそこには仕立てがある。撮られた人物の態度は撮っているダイアンに対するものだし、その仕立てを効果的に機能させるのはむしろ、プリントの専門家による、より質感のよい(コンテンポラリーな)プリントかもしれない。しかしダイアンが焼きあげたプリントには、彼女が写真を撮ったという行為の彼女自身による完了形であるという、特別な意味がある。
ことダイアン・アーバスについていえば、以前にもすこし書いたが、撮影の完了とはすなわち撮影者の存在が終わるということだ。ダイアンはそのような写真を撮り始めてしまったのだから。その終わりに向かって、一枚一枚が撮られプリントされていったのだ。
そして、撮影者ダイアン・アーバスの不在は、その写真を見るわたしを自由にはしない。絶対に。
またその写真は、わたしの「読み」に応じて戯れてくれもしない。決して。
それでもなお、わたしは、ダイアンの不在を前提に、その写真を見なければならない。
写真に写っている人びとがこちらを見るまなざしは、繰り返すまでもなく仕立てによるものだ。むろん「あなたはなぜ私たちを撮るのでしょう」とダイアンに問いかける視線である。基本的には。しかしいま、その視線は「あなたはなぜ私たちを見ているのでしょう」という言葉となって、わたしに投げかけられる。わたしは写真を「読む」前に、それらの「人びと」に対して、まず、こう答えることから始めなければならない――え〜僕は、その、日本人の旅行者なのですが、わかりますか? 日本人とはですね……。
*

わたしが日本に戻ってきたとき、世間の話題は首相が八月十五日に靖国神社に参拝した、ということにあった。
むろんこの総理大臣がおおかたの外交的問題を故意に無視して参拝したのは、歴史に対する深慮によったはずがない。要するにほぼ思い通りに過ごせた宰相在任歴を完成させるアイテムゲットの感覚でしなかっただろう。つまりほかでもない八月十五日に靖国神社で自分の記念写真を撮ってもらうことが必要だった、というだけの話である。その意味では多数の人々が靖国神社へはせ参じて携帯電話で記念写真を撮ったのは、この男の思うつぼだったとしかいいようがないのだが、国民それぞれの「現在位置」をどこまでも追いつめないでいてくれる優しいリーダー(の下で愛国者であるという位置を発見する人が増えているという事態は、私にとっては恐怖でしかない)の、8月15日の記念写真を見せつけられて、多少なりとも意識的に「靖国」という言葉(日本人が抱えた歴史の重さということでいうなら驚くべきことにわたしの名にまでついているのだが)について考えてみようとした人びとの大半が、思考のスタートラインとなる現在位置を知るべき里程標の、ほとんど絶望的な欠落に気づいたはずである。
欠落感を埋めるために写真を撮る、というのは、写真家・東松照明のよく知られたキーワードだ。戦後、占領者が政治・文化的に日本を浸食していく、そのカルチャーショックと「欠落感」がまさに「同時代」であった昭和五年生まれの東松にとっては、欠落感を埋める行為すなわち歴史の里程標探しであり里程標づくりだったことになる。
ならば「同時代」の写真家にとって、あるいは写真を見る「同時代」のわたしたちにとって、埋めるべき欠落感とはなんなのか。わたしも、いまこの場ではっきりとなにか一つを例示することがむずかしい。しかし、かなり多くの数の日本人が大きな欠落感を感じていることだけは間違いないだろう。なぜなら、欠落感が大きくなければ「国」などという巨大な属性をもってそれにすがろうとするはずがない。
そして、すでにわたしには、日本の「同時代」写真家および写真を見る専門家のかたがたの声が聞こえるような気がする。
たったひとこと。
「それは写真が引き受ける問題ではない」
|