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三島 靖 MISHIMA Yasushi

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49:ワールドカップと写真美術館

2006.06.28


 東京都写真美術館で「キュレーターズ・チョイス」と題された展示が始まった(6月24日〜7月17日/東京都目黒区三田・恵比寿ガーデンプレイス)。
 題して「写美専門スタッフが選ぶ名作 知られざる傑作から珍品まで」。館長を筆頭に、写真美術館に勤務する学芸員や研究員たちが、それぞれに思いのある作品をピックアップし、コメントをつけて展示している。
 報道関係者に通知されたプレスリリースには、このように告知されている。


 今回は、学芸員と作品が主役の展覧会です。
 各自の個性がのびのびと展示室にあふれています。
 あまりの種々雑多さにちょっと混乱されるかもしれませんが、
 豊富なコレクションをご紹介するよい機会と考えております。

 学芸員自身も「学祭」(学芸員の文化祭)と言って、
 展示をとても楽しんでいるようです。


 ここでわたしの書いているものを読んでおられるかたは、話題が写真美術館となるとわたしがまたイヤミを言うに違いないと期待されたかと思うが、実はこの展示、わたしは素直に楽しんだ。率直にいって、面白かったといってもいいくらいだ。以下、断片的に。

 わたしがあらためて驚いたことをいくつか。
 まず、東京都写真美術館に勤務する学芸員・研究員の数(非常勤を含む)は意外に多いのだ、ということ。
 これはイヤミでも何でもない。たんにわたしが知らなかっただけだ。
 それから、東京都写真美術館は、日本で絵画や彫刻を扱う美術館だとそう多くは買って持つことができないであろう「世界の名作」を、ごく当たり前に、かなりたくさん持っているのだということ。
 単純な比較はできないにせよ、写真プリントのほうが一般に絵画や彫刻よりも「名作」の市場価格が安いはずだから当然ともいえるのだが、今回の展示のように「のびのびと」見せられると、この背後にまだまだすぐれた収蔵作品があるんだという実感があり、それをいかなる形で、週末の一来館者としてのわたしが鑑賞しうるのか、ということについて、あらためて考えてしまう。
 会場には、わたしもよく知っている作品で、しかしプリントをじっくり見るのは初めて、というものもあり、興味深く見た。わたしの基本的な考えとして、写真を見る場合あまりにプリントそのものにこだわりすぎるのはナンセンスではないか、ということがあるが、それでもなお、プリント、それもとくに撮影者の意志が反映されている<焼き上がり>から得るものはある。これは間違いのないことだ。
 ちなみに写真美術館はけっして所蔵品を隠匿しているわけではなく、わたしでも、週一回木曜日の13時から18時、2週間前に予約したうえで、作品1点あたり340円(一度に40点まで)を支払えば、閲覧が許される収蔵プリントを個人で直接見ることができる。しかし、会社員としての日常勤務があるわたしには事実上不可能だ。

 予想外に多くの専門家が勤務している、ということに戻ると、それだけの数の人びとそれぞれに、それぞれの思いにつながる写真との出会いがあり、写真の見かたがあり、写真の見せかたがある。それが見えてきたからこそ、この展示は面白かったのだ。
 たとえば会場では、展示スペースを担当者の数で分けるのだから一人が展示できる数は多くはない。また、担当者間では選ぶ作品をほとんど調整しなかったはずで、だからラリー・クラークの「タルサ」シリーズのすぐ隣に、佐々木崑の「小さい生命」シリーズがあったりする。つまりムチャクチャなのだが、それが面白いのだ。
 要するにこれは雑誌的な面白さだろう。しかも、ものすごく単純に「写真ならなんでも見たい」という読者の希望に応える形でゴッタ煮編集がされていた、元気だったころのカメラ雑誌の構成を思わせるところがある。
 わたしはもともとは、写真はいちどにたくさん見るものだという主義だが、この展示の場合、担当者一人当たりの展示数が少ないことにも、強さがあったと思う。
 むろん、このような見せかたは雑誌の作りとしてもとうに古いに違いなく、まして美術館のような空間になじむ見せかたとも思えない。しかし、わたしはこの展示を楽しみながら、不思議に思った。写真美術館の専門家の皆さんには、これほどに写真に対する思いがあるというのに、ひとたび美術館本来の展示となると、その思いはどうして見えなくなってしまうのだろう。この展示をいちど見てしまったら、「思いを見せない」ということが、美術館における最大の約束事のひとつであることは容易に理解できる。そしてそのことは、こと写真に対しては最大の抑圧として作用してしまうのではないか。

 もちろん、この展示が、わたしには成功に思えたのは、偶然の幸運な化学反応だったのだろう。そのことは原則として認める。こうした展示のやりかたが開き直りの領域に踏み込んでしまった場合、たちまちそれは企画者を斬る刀となることも明らかだ。わたしなど昨日まで木村伊兵衛といっておいて今日からはダイアン・アーバスといっても平気な人間だが、美術館学芸員にはもちろんもっと厳しい立場というものがあるからだ。
 ただ、情緒もときにはよい化学反応を起こすことがあるのだ、ということをわたしはこの展示から学んだし、化学反応という見えかたの可能性に、小さく勇気づけられもした。
 思いが通じないから、あるいは思いを通じさせるために、「思い」だけで行動すると、たいていは不幸な結果に終わる。その一方で、W杯サッカーの日本チームのパフォーマンスについて、観戦者はもちろん当の選手たちまでもが、思いの足りなさ、を最大の後悔(敗因ではない)としてあげていることが思い出されもする。
 公共施設としての美術館をめぐる危機的な状況は、けっして大きく改善されてはいないだろう。美術館という制度と写真との関係そのものでいえば、もちろんわたしはいぜん批判的な立場にある。しかし、わたしが写真に出くわした、そのさまざまな見えかたのひとつに、確実に美術館という場所は数えられもする。
 このつぎ、東京都写真美術館はどう出るのか。これまでにやや薄くなってしまっていたわたしの期待は、この展示への小さな共感とともに、非常に大きなものになったのである。


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