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「意外な入り口からこの論を始めることにしよう」という一文で、この建築論は、ジョエル=ピーター・ウィトキンの写真「接吻」に幕を開ける。
著者は、二人の老人が接吻しているように見えるウィトキンの写真――実は解剖学教材に使われる、縦に割られた一人の老人の頭部を二つに開き、口を合わせるように置いている――に、奇妙な、アイデンティティの欠落した、オリジナルは殺されて(すでに死んでいて)そのコピー同士が並存しているかのような、しかし「その前後に、私たちの社会の混乱や腐敗、絶望、空虚、ありていに言えば現在の社会そのものの構造を逆照射するような不思議な光が秘められているように思う」、「不思議な吸引力」を見い出す。
そこからこの建築論は、近代合理主義のすぐれた産物として世界をイメージで満たしていった写真や、現代絵画、そして造園術や都市計画から現代建築に至るまで視野を広げて、現代史のさまざまな局面に立ち止まりながら、イメージが共通して持つ「破壊」の病理を探ろうとする。
わたしたちが世界を認識し世界の中で人として生きていく上で欠かせない、イメージと現実のインターフェースを提供するツールのほとんどすべてに暴力と死が内包されているという悲観的なスタンスは、そのこと自体は必ずしもまったく新しい態度ではないと思うが、よくあるような、視覚表現に対する印象批評と社会時評を器用に重ね着しただけの床屋談義めいた言い当てとして語られるのではまったくない。社会の表面に浮上したさまざまな視覚的表現、視覚的構造物のさらに表面から共通項をたんねんに読みとり、それが実は破壊衝動に満ちた抑鬱的症状にほかならないことが執拗に示されていくのだ。このような作業を読んでいくことは、なまなかではすまない読後の憂鬱をもたらす。
著者はこの本で写真にふれるとき、写真が実は、イメージを消滅させようとする裏返しの暴力を持つことを示す。そしてそれは、本来なら写真の大きな可能性を予感させたはずの反復性と複製性から生じているという。たとえば著者は、ニエプスが試行錯誤のすえやっと手にした、あえかに定着した像は、そこから写真が明証性を発揮していく出発点であるというのが常識的な理解だが、それよりも、世界がぼんやりと消えていく状態を示しているのではないか、という。写真史が絶望的に逆転されるその瞬間。そして、ポール・ヴィリリオをひきながら、原爆の閃光は、「生きた広島をまるごと撮影し、都市の表面に像をそのままプリントする」つまりそれは生を殺す写真なのだ、という指摘に至る。その救いのない落下感はたまらない。さらにはマレーヴィチがその絵画の極北において示す空虚さ、いわば航空写真で破壊後の廃墟を撮ったような高みからの視線が持つ「生の中断」への欲望が曝されるに至っては、背筋が寒くなるような読書の興奮がある。
わたしはいま、この本で写真について書かれた部分(本文の多くを占めている)を選んでいるが、著者の視線は、アンディ・ウォーホルとチェコスロバキアへ、ドストエフスキーとサンクトペテルブルクへ、そしてフロイトと革命期ロシアへ、そしてダイアン・アーバスとベトナム戦争のアメリカへと、鋭さを失わず見渡されていく。そしてこの悲惨な連鎖の渉猟は、あのグラウンド・ゼロ、世界貿易センタービルのツインタワーが等価の双子として短時間のうちに同じ経緯で崩壊する宿命にあった――双子の写真が、その撮り手であるダイアン・アーバスに自己の破壊をもたらしたのとまったく同じように――という、文字どおりの終末へと収斂していく。
かくして病は暴かれた。しかし治療の方法はない。わたしたちは、合理化され大衆化されたイメージ製造装置の可能性によって、あらかじめ破滅させられていたのだ。
著者は一九五九年生まれ、多摩美術大学教授。建築評論家として知られ、ひろく文化論にも筆を進めている。写真への言及も多数ある。ことに現代の建築にニヒリズムや終末観を見い出す姿勢の人で、この点では現代建築家や都市開発を記号論的に礼賛する型の知識人とは一線を画している人だろう。が、それにしてもこの本は悲観的である。
この本を読んだだけで想像するのは失礼かもしれないが、おそらく著者は、採り上げたさまざまなイメージが内包するゼロへの衝動を加速する、現代社会が持つ抑鬱的症状を、多かれ少なかれ意識において共有していると思う。そしてバブル期を中心に、ヘタをすれば二〇年以上にわたりいまだに続く、視覚表現の飽きっぽい消費のなかで、このような憂鬱な本を書く人をわたしは原則として支持する。
四六判四五〇ページというボリュームは、ブログ全盛で、百数十ページの新書なら一週間で書かれるのが常識といわれるいま、さほどの分量ではないともいえるが、わたしはこれを、著者が費やした時間に匹敵する集中力をもって、各項で賛否をつぶやきながら読み通すべき「大著」としてすすめたい。
わたしたちの身近な破滅や終末の予感でいえば、わたしたちの住まいが大規模に「偽装」されていた、という話題もさることながら、「ドラマ」のなかでしか起こり得ないような不可解な事件(しばしば殺人を伴う)が起き続けていることが、すぐに思い当たるだろう。いうまでもなくそれらは、わたしたちが創作した「ドラマ」の複製である。わたしたちは「ドラマ」を非日常の娯楽として発見したその瞬間から「ドラマ」の複製として生きていくことを余儀なくされているのだ。
昨今、奇妙な小説仕立てであたかもそこに何かの物語があるかのように見せかける写真作品の不穏な流行もまた、この仕組みをなぞって終末に向かう、ひとつの絶望的な筋書きのカタログであるに違いない。
*『建築と破壊』(飯島洋一/青土社/二〇〇六年一月)
*ここでのテーマと直接関係があるかどうかは別として、わたしがちょうど前後して読んでいたもうひとつの本も手にとってみてはいかがだろう。かつて大学生の教養書には必ず名を連ねたフロムが、いまどれほど読まれているかは知らないが、賛否をつぶやきながら読書に時間を費やす価値はあるのではなかろうか。こちらは、人はなぜ同じ種を「破壊」することができるのか、という問題について、八〇〇ページ近くを費やした大著である。『破壊−−人間性の解剖』(エーリッヒ・フロム/紀伊国屋書店/二〇〇一年六月/一九七五年刊上下本の合本再刊)
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