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この秋から冬にかけ、いくつかの場所に招いていただき、写真を学ぶ若い人たちの写真を見せていただいたり、わたしの知る範囲での編集作業で写真を扱う仕事を、疑似体験してもらったりした。
といってもわたしは、自分が人にものを教えられると思ったことはない。
以前もここで書いたと思うが、このウェブサイトなどでわたしの名を知ったとか、あるいは誰かに紹介されるなどで直接名指しで頼まれない限り、行き当たりばったりに写真を見て意見を言うことはない。わたしが勤務するカメラ雑誌には掲載を希望して持ち込まれる作品もあるわけだが、たまたま持ち込み希望の電話をとった場合は、ほかの編集部員に受け付けを代わってもらってしまう。
一面識もない不特定多数の人に向けて雑誌を作って売る仕事をしていて、不特定多数の側からアプローチされると逃げてしまうというのは無責任このうえないが、仕方がない。
紹介があれば面談するじゃないか、とか、写真を見るときは結構、厳しい意見を言うじゃないか、と、わたしを知る人たちからは非難されそうだが、「間口」での距離感のとりかたが、わたしには難しい。写真展会場に写真家が居合わせて、面識がないのに突然意見を求められたりすると、ことにつらい。
それはともかく、撮影者に相対して写真を見る場合、撮影者によって(世間での評価とか地位とか)距離感を変えているか、といったら、それはない。まったく無名であろうと、誰もが知る巨匠であろうと、同じだ。基本的に、わたしの考えかたは率直に言う。
といっても、あくまで結果としてだが、一定の評価を得ている写真家に見せられたものを全否定し切って捨てる、ということはまずない。
カメラ雑誌といえばとかくお座敷調の業界づき合いばかりしているメディアで、編集者は名の通った写真家の作品ならなんでもおし頂くものだと思われているかもしれないが、そんなことはない(まったくないとは言わないが)。だからといって、わざわざクズを持ち込んで編集者の見る目を試したり、あわよくばちょっとばかりの原稿料を稼ごうなどという写真家など、いまどきいない。昔と違って写真で稼げる仕事は様々あるし、逆に昔より競争は厳しい。陽を斜めに見つつあるカメラ雑誌と遊んでいる時間などないはずだ。
それでもあえて、写真を扱う編集者をたずねて「作品」を見せる、というのは、そこでの対話を通じて自分の位置を確認する、ということだろう。その位置が、まずその人の写真によって、他の少なからぬ人たちに見い出されたとき、撮影者は「一定の評価」を得るのだろうと思う。わたしが、写真を自信満々で見せてくれる若い人たちにまず言いたいのはその事だ。
さて、若い人たちに写真を見せられて意見を求められたとき、わたしはほぼ例外なく、将来について考えているかどうか聞いている。写真は仕事なのか趣味なのか。仕事にするならどんな写真家/カメラマンになりたいのか。報道撮影それとも広告写真、あるいは純粋芸術家。具体的な職種が思いつかなくてもいい。こんな写真集が出せたら嬉しい、でもいい。彼らが思い思いに描く、夢としての写真との関わり。そこへ至る近道はないか、近道がないならせめて間違っていない迂回路を通れないか。なんとか彼らが撮って形にするのが好きなものを追いかけることで、その道を走り続けられないか……。
私は若い人たちを、あるいは若い人たちが作品だと見せてくれる写真を「若さ」を理由に応援する気はない。ひと目でブッ飛ぶような作品を見せる人に出会いでもすれば別だが、そういう経験はわたしにはほとんどない。だいたい<一定の評価を得ている>人たちの作品を見てもめったにないことなのだから、そんなことがしばしばあるほうがおかしいと思う。カメラ雑誌に勤務しているのに忙しくて写真展や写真集を見ている時間がなかなかないと、ここで書いたりあちこちで言うせいか、最近、ロクに写真も見ないでモノを言っている、というような文脈で批判されたこともあるが、ならいっそ、作品を見るたびにブッ飛ぶような体力の余裕もないと開き直りたいところだ。
いずれにせよ、わたしができるのは、どんなに微細でもいいから、彼らの写真の中に道標らしきものを見いだすこと、そしてそれをどう辿ればいいかを考えることでしかない。むろん、私が発見した道標を辿ったからといって金鉱を発見できるとは限らないし、だいいち、わたしに金鉱のありかを見つける高い能力があるなら、わたし自身がとっくに写真家になっている。
だからわたしは、その道標らしきものが、彼らにも見えているのかどうかを話し合いたいと思う。そしてそれを辿る準備と勇気があるかどうか聞きたい。そして、道を引き返し選び直す、あるいはいっそ目的地を変える余裕があるかどうか確かめながら、わたしが見る限りでの写真の現状完成度について検討したいと思う。
なぜ、こんな話を始めてしまったのだろう。
写真を学ぶ若い人たちと話しにくくなった、と感じるせいかもしれない。
もちろん、わたしがトシをくったために、場所によっては「若い人」とわたしの間に親子ほど年齢差がある。そりゃ話も通じまい、というところだが、これまでは、話の通じない同世代よりむしろ楽に話せる感じがあったのだ。それがここ数年、少し違った断絶を感じるようになっている。
ひとつ明らかなのは、彼らの語彙がひどく単純明快になってきた、ということだ。若いから語彙が貧弱なのは仕方ないだろう、ということではない。若い人たちは、自分の思いが単純な語彙につかまえられるのを潔癖に嫌う性癖があって、だからといって表現力も幼稚なら思いそのものも幼いから、「う〜んと、え〜っと」と口ごもる、あるいはうまく言えないから逆ギレする、というところがあったのだ。その気持ちを、わたしは大切なものだと思ってきたし、その迷いの中で写真を撮ったり選んだり他人に見せたりする、ということも大切だろうと思ってきた。
しかし、最近どうもそこのところが猛烈に単純なのである。「この写真はナニナニです」と迷わず言う子が、かなりいる。「ナニナニ」には、例によって「日常」「癒し」「記憶」「超越」「感動」などが入るのだが、その「ナニナニ」のために、写真の並び順が(いかにもソレふうのどこかで見たような順に)完全に決まっていて、よさそうなカットだけ抜こうとすると怒られたり(笑)する。ひょっとしてどこかのアホが「ナラティブ」ということを間違って教えたのではないかと、わたしなどは真剣に疑っているのだが、どうなのだろう?
そしてもうひとつ、わたしが憂鬱になるのが、「ナニナニ写真」であることが写真にとっていかにくだらないかをわたしが話すと例外なく、数を頼んだ反論がある、ということだ。いわく「見せた人は全員いい写真だと言ってくれた」。いわく「写真を知らない多くの人に見せたいから写真を知っている人数人が何か言っても意味はない」。いったい彼らはいつから、数を頼むことを覚えたのだろうか? まさか、どこかのアホが(笑)……。
わたしは、ここで「ナニナニ写真」へ雁首揃えて歩調をとろうとする人たちをただケナすつもりはない。
たとえば、古い話だが土門拳の「リアリズム」というのがアマチュア指導のキーワードになった時代がある。ご承知のように、土門の教えはアマチュア写真家たちが撮った数多くの「乞食写真」となって現れ、「クソリアリズム」といわれて徐々に退潮の途をたどった。結局、写真による社会主義リアリズムの実現を夢見て後進を教導しようとした土門拳の思いとはうらはらに、当時カメラを持って写真を撮る余裕のあった階層の人びとは「社会変革」というモチベーションの部分は完全に白紙であったのだ。
しかし、いま日本の写真史を振り返るときに参照されることはめったにないその「乞食写真」群は、果たして本当に何も語るところのない、モチベーションが抜けたカスなのだろうか。
わたしは、いま若い人たちが自信満々で見せてくれる「ナニナニ写真」が怖い。しかし、その「ナニナニ」に写っているものは本当は「ナニ」なのか、いちど腰を据えてつき合ってみる必要があるのではないか、と感じてもいる。

*わたしといっしょに写真編集の実務を体験してみる学生さんたち(本文とは関係ない)。
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