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三島 靖 MISHIMA Yasushi

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42:中川政昭さんをしのぶ

2005.9.16.


 すでにご存じのかたも多いと思うが、写真家の中川政昭さんが、さる七月十八日に脳出血で亡くなった。六一歳だった。文字どおり急逝であり、亡くなる数日前にメールか電話のやりとりをしたわたしは、いまこの瞬間も信じられない思いがある。
 八月三十日に東京・丸の内の「ギャラリーパストレイズM/A」で故人をしのぶ「中川政昭さんを語る会」が開かれ、わたしの社の編集者・記者の中ではわたし自身がもっとも故人と交流があったということで、若輩ながら発起人のひとりに名を連ねさせていただいた。それでいて当日は会場に入るのが遅くなってしまい、発起人らしいことは何ひとつできなかった。ご遺族、および関係者のかたがたには、あらためてお詫びしたい。
 この写真家、わたしの周辺(つまりカメラ雑誌の周囲にいる人びとの間)では「ちょっと変わった人」だといわれていた。それは「とても変わった人」ということなのだが、そういう人ほど「面白い人」だと思う癖のあるわたしは、何がきっかけだったかはすっかり忘れたが、その「変わった人」と話をするようになった。
 話をしてみれば、もちろん変わっているどころかきわめて科学的で論理的な人なのだが、要するに「話が長い」。たんにそのことが、誰もが急いでいる現代にすこしばかりそぐわなくなっていった、というだけのことに違いないのだが、時代に敬遠されている、という意識が故人にあったかどうか、ここしばらく、やや人間不信に陥っているようだった。故人が親しいと聞いた写真家たちがみなスナップ撮影の名手だったので、どこかの街へ一緒に写真を撮りにいきましょう、などと、心配する気持ちからとはいえ無責任なことをいったこともある。
 思えば、年齢の違いを意識したことなど一度もない、写真(故人によれば光学映像)の語り手と聞き手の関係であった。したがって、それこそカメラ雑誌に載せるような業績のまとめを書くのは、わたしには非常にむずかしい。そこで、おそらくは面識をえてまもなく、わたしが週刊誌「アサヒグラフ」の92年の春頃の号で書いたものをここに載せて、追悼の一文にしたい。
 いま書き写していると思わず赤面してくるような文体で、まったく若気の至りとはこのことだが、ひょっとすると故人は、この文章のほうがわたしらしいというかもしれない。



中川政昭写真展●PHOTOGRAPHY

世界記録装置としての写真を
根底から批評する孤独な試行

「決定的瞬間」とはカルティエ=ブレッソンの美学だが、そもそも写真はなぜ「瞬間」なのだろう。フィルム感度を高めて速いシャッターを切れるようにし、撮られた映像をできるだけ長期間クリアに保存することが、百五十年にわたって写真技術が進歩する上でのおもな追求目標であったことを考えると、いまさら疑うのはおかしいかもしれない。
 だが、こういうことはできると思う。どうやら、瞬間を記録する道具と認められてしまったとき、写真は世界を簡便にほぼ正しく(このレトリックがクセ者なのだが)反映する装置と誤解されてしまったようなのだ。このとき、歴史に対する批評としての言葉を費やす努力が失われた。それがゆたかな「物語」を編んできたにもかかわらずだ。しかも写真に「正しく写しとられる」世界の主人公である人間ときたら、スーザン・ソンタグ風にいうなら、写真に撮られることを意識した演技者になってしまったのだ。
 中川政昭の「写真」は、そんな形で進歩してしまった写真史に、まったく別のスタート地点を設定しようとしている(『中川政昭写真展』6月3〜26日/東京、ツァイト・フォト・サロン)。
 制作方法だけをとってみれば、彼の作品はその作業の孤独さにおいて、初期の写真家たちの試行錯誤に似ている部分がなくもない。レンズ〜フィルム〜プリントという撮影メカニズムについては、むしろ求めて写真の原点ともいうべき素朴な技術を使う人だから、なおさらだ。しかしその「先祖帰り」は、「世界の記録装置」の原点に戻ろうというものではない。近ごろ、写真の出発点に立つと称して素朴なカメラを使う人がしばしばいるが、彼の場合は違っている。
 たとえば「セラフィータ・セラフィタス」の場合、性が抽象化されたモデルが撮られている。<彼/彼女>はチューブに繋がれてその自律を奪われ、世界の主人公としての存在価値もまた、抽象化されている。さらに大判のフィルムは焼かれ破かれ、縫い合わされプリントされる。こうした撮影・処理のプロセスを聞いていると、そこでは、プリントされ仕上がった像によって性の意味を問うというようなよくある「制作の意図」以前に、もっと素朴で端的な、この人なりの光の通り道の確認がなされているのだとしか思えない。会場にはプリントだけでなくフィルムも展示する予定だというが、その膨れ上がり焦げた抜け殻のようなフィルムを見ていると、やはりこの作業が、光学系というメカニズムを通して、光とはいかに捉えられうるのか、という試みだということが分かってくる。いうまでもなくそれは「見ること」に対するもっとも素朴で強い批評、写真に対する根本的な再検討でもある。
 それにしても、気の遠くなるような長く孤独な作業だ。ここまでやって、それでもなお写真にこだわろうとする−−写真家は本来、見ることについてほかの誰よりもこだわることによって、ほんのときおり、わずかな光を手にするだけなのだ。それを見やすく焼き付けてもらえるとは、観覧者とは、なんと勝手な幸福を享受する者たちなのであろう。


中川政昭HP http://www.asahi-net.or.jp/~ys3m-nkgw/

 

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