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松本清張「天才画の女」新潮文庫/表紙の絵はサム・フランシス
マジメな「読書日記」ばかりが夏の宿題でもなかろう。いまどき「音楽日記」だって夏の宿題として認めていいのではないか――といいたかったのだが、いくら夏の音楽日記だからってディスコ&ファンクばかりでどうする(笑)、という問題もあり、ならばとこの夏の「読書日記」も提出しておくことにした。
といっても、こちらにはジャンルもテーマもない。学校に通うついでに、大学の書籍売り場や学生街の古書店などで買ったものを、ナナメ読みした程度だ(なにせ学校が忙しくてそれどころでは……)。
読んだ本の名を書くだけでは愛想がないので、読書メモも添えておくが、これもあくまでナナメなもの、である――という「ブログ」的な書き方は嫌いだ、と書いたばかりではあるが……。
『フォトジャーナリスト13人の眼』編:日本ビジュアル・ジャーナリスト協会・二〇〇五年・集英社新書
日本ビジュアル・ジャーナリスト協会とは、二〇〇二年に発足したフリーのフォト、ビデオジャーナリスト集団。広河隆一、桃井和馬、豊田直巳、佐藤文則、綿井健陽の各氏ら、二〇〇五年六月現在で11人が参加。この本は二〇〇四年に信濃毎日新聞で連載された記事をまとめたもの。寄稿者それぞれが、追いかけているテーマを写真と文で報告している。
わたしはこの本を、かなり悩みながら読んだ。
最近わたしは、写真は<世界>にどう関わるのか、という問題を無視して写真を見ることがなかなかできなくなっている。この本に寄稿している人たちはいうまでもなく、この問題のもっとも厳しい局面に正面から取り組んでいるのだが、いくら探しても、はっとするような喚起がない。まえがきで辺見庸が「遠音(とおね)」をとらえることの可能性を賞揚してはいるが……。
『グリーンバーグ批評選集』編訳:藤枝晃雄・二〇〇五年・勁草書房
本書に収録された論文の数編が、一〇年ほど前、ある批評誌のモダニズム特集に翻訳掲載されたのを読んだことがある以外に、まったく読んだことがないわたし。
ある程度まとまった邦訳書になったのはこれが初めてなら、意外かつ遅すぎた感じだが、いうまでもなく美術、とくに現代美術を語る場合に、日本では、しばしば言及(あるいはパクリ)されながら、おそらくもっとも読まれたことの少ない文章ではなかろうか。それとも、読んでいなかったのはわたしだけなのかな……。
『敗戦日記』高見順・二〇〇五年・中公文庫
作家・高見順は日記魔だった。「魔」は失礼だが、小学校六年生から五十六歳で亡くなるまでに原稿用紙一万四千枚、日記以外の全著作の三分の一の量を書きつづったというのだから恐れ入る。
この本は、敗戦の年に報道班員として中国から帰国して後、十二月までの一年分の日記である。未読だったのは不徳のいたすところ。
高見はいわゆる「鎌倉文士」として、所用で出向くとき以外は、一九四五年の東京の混乱からはわずかに離れた場所にいたわけだが、見聞して書きつけた市井のディテールの驚くべきリアリティはどうだろう。作家としての観察力ゆえのことなのか(だとすれば戦時報道班員としての仕事も読む必要がある)、それとも「わずかに離れた」視線を持てたがゆえに記録しえたものなのか。いずれにせよ、もし日本がふたたび戦争に加わったなら、わたしたち大衆は高見が書き残した六〇年前の人びととまったく同じ、悲惨かつ卑劣な行動を繰り返すに違いないという予感が、悪寒とともに襲ってくる。
『「挫折」の昭和史』山口昌男・二〇〇五年・岩波現代文庫
昭和文化史を築いた知的ネットワークの「裏方」たちのつながりを辿り、「或る種の『挫折』を共有していた人達」が持った主題について考察した、一九九五年の刊行当時かなり話題になった本。甘粕正彦〜満映〜岡田桑三のラインから東方社〜名取洋之助が登場しているということを、未読のわたしは知らなかったので一読。
『あの戦争は何だったのか』保阪正康・二〇〇五年・新潮新書
著者の積業を簡潔に集約し、太平洋戦争の本質をあらためて考える案内役をはたしてくれる本。読んでみていうならば、もしこの本のタイトルに興味をひかれたかたは、同じ著者による『昭和陸軍の研究』(一九九九年・朝日新聞社)を(上下巻の大部だが)、まずお読みになることをすすめる。
『写真を<読む>視点』小林美香・二〇〇五年・青弓社
『私の写真術 コンポラ写真ってなに?』新倉孝雄・二〇〇五年・青弓社
『カルチュラル・スタディーズ』編:吉見俊哉・二〇〇一年・講談社選書メチエ
この夏、通った大学の「生協」で同時に購入。
このうち『写真を<読む>視点』は、写真を「読む」ための視点を提供するため、いくつかのテーマを設定し、「写真がどのように見えるのか、またなぜそう見えるのかということを、写真の技術・表現・用法の歴史に照らし合わせながら考えること」を「一貫した目的」としている本だ。
ひろく写真作品を渉猟し、目配りがきき、かつ冗長でない記述。反面、各項で「おわりに」と題された結論が、どれも、分量もさることながらいかにもくい足りない。
なぜ「写真を見る」でなく「写真を読む」なのか――この本のタイトルにひかれたかたは、まず『絵とは何か』『ふたたび絵とは何か』『みたび絵とは何か』(坂崎乙郎/河出文庫・品切)を一読されることをおすすめする。わたしは、ずいぶん前に亡くなったこのいっぷう変わった大学の先生から教わった「絵を読む」ことから、いまだに影響を受け続けていると思う。
「真贋の森」松本清張――『黒地の絵』一九六五年・新潮文庫 所収
『天才画の女』松本清張・一九八二年・新潮文庫
美術館に関する勉強をしたせいでもないが休日には、大家の筆になる美術ミステリーを選んだ。前者は、正論を言いすぎて業界を干された日本美術学者が伝統美術界への復讐を企てて贋作日本画家を育成する話。後者は、日本の洋画壇に突如登場し一躍売れっ子となった若手女流画家をめぐる戦後史の闇。松本清張らしいネチっこく暑苦しい筆致で読み応えあり。美術の好きなかたには一読をおすすめする。ほかにも清張ミステリーには美術界の裏面や画家を扱った作品があり、「小説日本芸術譚」という伝記的歴史小説もある。
「カズイスチカ」森鴎外――『山椒太夫・高瀬舟』一九六八年・新潮文庫 所収
『眼中の人』小島政二郎・一九九五年・岩波文庫
「カズイスチカ」とはラテン語で「臨床記録」のこと。俊秀の若い医学士が、田舎開業医の父の診療所を手伝う日々を記録した短い一篇。夏目漱石もそうなのだが、鴎外も、読み直すたびに描写のあざやかな映像性にうたれる。これを、鴎外の医師としての観察眼の鋭さ、と簡単にすませるわけにはいかない。
『眼中の人』は、後年、人気大衆作家となった著者が、小説仕立てで若年時代の文学交流を描き、大正文学の背景を浮き彫りにする。芥川龍之介や菊池寛と親しく交わりながらも、つねに彼らの後塵を拝さざるを得ない苦悩がつづられる。関東大震災の描写は一読の価値。当時せいぜい三〇歳前後のはずの芥川の博学才人ぶりには、わたしもメゲる(笑)。
『南仏モンペリエ、午睡(シエスタ)の夢』水江正吾・一九九四年・河出書房新社
勤務する会社を四十五歳で早期退職し、南フランスの小都市に移り住んだ人が一〇年前当時、書いたエッセイ。出版されたとき一度読んだが、この夏、大学近くの古書店で見つけてまた読んだ。というのも、この人はわたしの勤務する社の先輩。
一面識もない人だし、当時わたしは三〇歳代前半で、読んでも遠い話だった。いま、わたし自身この人が会社を出た年齢間近なわけで、再読。
しかし、なぜか同じように遠い話だった。わたしの社が出していた出版メディアに勤務した彼が、それなりに自己評価できる功績を残し、会社勤務に悔いがないようなふうに書かれているせいだろう。
わたしの場合、悔いがあるとかないとかの問題ではなく、何事にも自信をもって自分にケジメをつけることがまったくできないのだ。昔もいまも……。
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