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「何の変哲もない記念写真が<特別な感慨>となって私に迫るのは、三十年という歳月と、それ以上に『氏名不詳』の四文字の故である」
九十九枚の「氏名不詳家族」――桑原甲子雄が撮影した「昭和十八年、出征軍人留守家族記念写真」から失われたそれぞれの家族の名前を、再びその写真へ還そうということから、ルポライター児玉隆也の著作『一銭五厘たちの横丁』は始められている。(1)
桑原がその写真を撮ったのは、戦地の兵士たちに銃後の家族の姿を届けるため、在郷軍人会に案内されてのことだったという。桑原ほか五〇人の地元のアマチュア写真家が動員され――このあたりは、アマチュア向け写真雑誌まで整理統合し翼賛宣伝体制に組み込んだ時代をまさに彷彿とさせるが−−東京下谷区(いまの台東区)で、出征兵士を持つ家族を、ひと家族ワンカットずつ撮っていったものだ。もちろん撮影された時点ではどれがどの家族の写真で、どこの誰に送るかということははっきりしていたはずだ。しかし児玉隆也にこの写真の存在が紹介されたとき、戦後わずか三〇年の時間は、ネガ袋に書かれた撮影年と場所のわずかなメモ以外、写真の読み解きの手がかりとなる情報を完全に奪ってしまっていた。明らかに父と思われる人がおらず、兄の姿がなく、あるいは息子が不在の、奇妙な家族写真。それらはプリントされて戦地へ送られ、写真には写っていない父や兄、あるいは息子その人の手にとられ、欠けた絆をつなぐ視線と交わることで役割を終えたのだ(実際に何人の許に届いたのかは不明だが)。
児玉は「この中に昭和十八年の私」を見た。そして「焼夷弾の雨の中で、ままならぬ我が身をおろおろと運び出そうとする妻子に、いいからおれを放っておいて逃げろと骨の浮き出た腕で死の床から合図し、終戦の一と月前に死んだ私の父」を見た。写真への直説的な感情移入と、なぞ解きへのジャーナリスティックな関心。立花隆の「田中角栄研究―その金脈と人脈」と同時に雑誌掲載され、権力の暗部を暴くルポルタージュの二大傑作といわれた「淋しき越山会の女王」とほぼ並行して、「天皇から一番遠くに住んだ人びとの、一つの昭和史を聞きとる」作業が始まった。
九十九枚の写真の家族を特定する作業は決して楽ではなかった。実際の取材は七三年秋から翌秋まで約一年行われているが、写っている家族がどこの誰と判明したのは、写真全体の三分の一ほどである。現在の台東区三ノ輪あたりで撮ったものだから、七〇年代なら下町人情でつながった地域ネットワークもまだまだ機能していたのでは、と思ってしまうが、なんの、わずか戦後三〇年にしてすでに隣人関係は希薄になり、撮影後の空襲で地域全体が焼失していたり、当時のことを覚えている年配の人たちの多くが亡くなっていたりで、「地を這う」とか「一点突破・全面展開」などといわれた児玉の取材力をもってしても、家族の特定は容易なことではなかったのだ。
しかし、写真に写っている家族が思ったほど見つからなかったことは、決して失敗ではなかった。見つけることのできた家族、あるいはその縁者たちが語る記憶が、この著作に収められた「不詳」とだけ書かれた多くの家族写真の、つかみどころのない空白を補って余りあるからだ。かつて写真が撮られたのと同じ場所で三〇年を生きつづけたわずかな人びとの存在こそが、児玉が嘆息する「神隠しとしか思えぬ気味悪さ」で消えてしまった人たちの不在の重みを、一身に代弁しているのだ。そしてこのルポを読むとき、もっとも物質的な重量をもって読者の意識に堆積するのは、じつは「不詳」のまま羅列されているだけの、無名の人びとの記念写真なのである。撮るときに言葉をかける余裕もなく、そのため撮影者の記憶にも残らなかった、ひと家族ワンカットのすれ違い。しかし、そのような機械に近い目で撮影された写真こそがしばしば強い訴求力を持つことは、わたしが指摘するまでもないことだろう。
しかし、率直にいっておかねばならないこともある。
わたし自身はこれらの写真に、「昭和十八年の私」を見ることはできなかった。戦後三〇年にこれらの写真を見た児玉は三十八歳、昭和十八年には六歳の自分を写真に重ね合わせることから、写真へのまなざしが深まっている。わたしの場合そのような写真は、昭和三十年代初めのものが古さの限度。三〇年という時間が、ひとつの里程標として浮かび上がる。
むろん、そのような直説的な共感を切り離して写真を見ることもできることはいうまでもない。戦後六〇年の写真にいまのわたしを重ねることで、ロラン・バルトのように写真の棘を発見できることもあるだろう。「昭和十八年、出征軍人留守家族」の写真を、現代の目で編み直すことはもちろん可能だ。
とはいえ、写真に写った家族では二世代が移りゆこうとし、背景となった東京下町の光景も跡形もなく消えてしまっている戦後六〇年。「ふたたびこの種の『記念写真』を国家が要請する時代が来ぬことを願うのみである」という児玉の言葉が、このようなテーマをメディアで扱う場合の例によって例の如くの常套句としてしか響いてこないことに、わたし自身は小さないらだちを感じる。
また児玉は、取材の大半で二人のデータ取材者を頼み、自分の追加取材と合わせて本文を「私」という一人称でまとめている。雑誌記事では一般的なアンカー式で、出版社系週刊誌の編集者出身である児玉には当然の作業だっただろうが、この著作での「写真」と「私」との関係は、どうも噛み合わせがよくない。予定調和といってしまうと明らかにいい過ぎだが、あくまでもリニアなストーリーのために材料を集め調理して配膳するメディアの方法が、わたしのもう一つの小さないらだちの、明らかな原因だと感じる。
もっとも、そのことでこの著作の意味がそがれるわけでは決してない。それよりも、これが児玉が三十八歳で上梓した作品であることを考えると、児玉の書き手としての抜きんでた能力もさることながら、戦後三〇年と六〇年という時間の間の途方もない差――たった三〇年の違いなのに、なぜいま、同じ国の人びとの無視できないほど多数が、その国が再び戦争をする可能性のある選択を平然と口にするようになってきているのか−−をしみじみと感じざるを得ない。
ちなみに児玉は三十八歳で、つまりこの本を出版した年に――いまのわたしよりはるかに若くして――亡くなっている。そして、そのことを岩波文庫版の解説で鶴見俊輔がこう書いている。
「さがしあてた人とさがしあてなかった人びと。全体が今では神隠しにあった。努力をつづけた著者そのものが神隠しにあっている」
そしてこの作品が、
「周囲をヴァニシング・ポイント(消尽点)にかこまれる私たちの現在を、島のようにうかび上がらせる」
とも。
まさしくそのとおりだ。ただ、このほど、フィリピンのミンダナオ島に旧日本兵が生きている<らしい>というニュースが報じられたとき、わたしたちは気づかされたはずだ。「消尽点」とは、わたしたち自身が、わたしたちの都合で覆いかくしているにすぎない、歴史の継続線なのだと。
元日本兵がいる<らしい>という情報は、旧戦地では当たり前のように現れては消える噂だという。今回のニュースも、ただの噂だった、というのが事実かもしれない。しかし、元日本兵はいなかった<らしい>という結論と、わたしたちの周囲から旧日本兵が「消尽」されるということとは、まったく別のことである。なぜ旧戦地で、旧日本兵が生きているらしいという噂がいまだに生じるか。それは、そこ、つまり日本の外に、「一銭五厘たち」から生まれた「横丁」がすでに数多くあり、それが現在も世代を重ねつつあるからだ。この事実をわたしたちの都合で「消尽」することなど、決してできはしない。
日本の首相が靖国神社の参拝に固執することが、なぜアジア各国の感情を害するか。それは旧戦地で不在の存在を続ける「一銭五厘たち」を一方的に「軍神」とすることで、「横丁」の歴史を切断することにほかならないからだ。それは、「一銭五厘たちの横丁」を、不在の継続性において引き受けつづけてくれているアジア諸国に対する、もっとも重大な侮辱である。
あえていま問題になっている中国との外交技術という局面に限って考えても、相手に楽勝でアドバンテージをとられる(こちらが手放しで不利になる)とわかっているのに、靖国参拝になぜ執着するのか、という単純な疑問もあるが、これまたわたしがいうまでもない簡単な解答がある。つまり、日本が中国と勝手に仲良くなることに不満な国があり、その国のいいなりになるのが、戦後日本の首相であるための「仁義」であったということだ。
忘れてはならないのは、その国を一度は「鬼畜」と教えられ、家族写真から姿を消して命を日本に捧げたのが「一銭五厘たち」であったという歴史的事実である。現首相の態度に対し、近年の首相経験者の中でももっとも靖国参拝に積極的だった男が「こういう状況になって、一番寂しい思いをしているのは、靖国の英霊ではないか」と発言したという皮肉(2)。ここまで絶望的におかしくなってしまった国に、どこの誰が愛国心という「仁義」など持てるというのだろうか。
(1)晶文社/一九七五年・岩波現代文庫/二〇〇〇年――若いかたはご存じでないことも多いかと思うが、「一銭五厘」とは大戦前のはがき料金。転じて、たった一銭五厘で届く令状で命を軍に差し出す出征兵士たちのことをいった。ただし「赤紙」といわれた召集令状は「はがき」ではなく、直接本人あるいは家族に渡されていた。なお児玉隆也その人については『無念は力 伝説のルポライター児玉隆也の38年』(坂上遼/情報センター出版局/二〇〇三年)にくわしい。
(2)http://www.asahi.com/politics/update/0601/010.html
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