|
前回の書き込みからこの書き込みまでに、半年以上たってしまった。年齢を重ねるごとに過ぎる日々を数えなくなるというが、本当の話だ。
わたしの本業はカメラ雑誌の編集者である。さまざまなカメラの記事や読者コンテストなど、カメラ雑誌ではおなじみの記事を担当しているが、じつはかなり長くやっている。カメラマニアの世界には門外漢で不安なまま仕事を始めたのが昨日のように思えるのだが、ということはカメラの知識にはさほど進歩がないままなのだろう。
かといって、写真のことは何でもわかるのか、と迫られると、これも心許ない。仕事がら最新の写真状況を知っているべきだろうが、仕事をしてきた時間の長さと情報の蓄積量は反比例していると思えて仕方がない。
もちろん写真展はできるだけ見たいし、ポートフォリオを見てほしいという依頼にも応じたい。写真について書いていることへの仁義という側面もある。しかし、写真に関する知識は増えた気配がない。わたしより下の世代、とくに若い写真家の活動については、知らないことの方が多い。
なんともお寒い話なのだが、その一方で、つぎのようにも思う。
写真評論家の飯沢耕太郎さんが雑誌「STUDIO VOICE」の4月号で、こんなことを書いている。
「僕にとって、本当の意味でトラウマ的な衝撃を与えられた写真集は一冊しかない。『ダイアン・アーバス』作品集(1973)である」
わたしの何十倍、いや何百何千倍もの写真を見て(見せられて)それを評価する立場にいる飯沢さんがそう書いているということは、彼にいちどは評価された写真家や彼を信奉する写真家志望の読者にとっては「衝撃」かもしれない。
しかしわたしは、なるほど、と思う。
写真とは本来はそういうものであり、そういうものでしかないもの、なのではないかと。
そこから始まり、そこで終わるものでしかない。
しかし――。
いちど終わったものをいぎたなく愛玩することを惰性というが、終わらせるために始めたなにごとか、というものは、その潔さゆえに、周辺にひしめくあらゆる惰性を粉砕して、意識の「ひだ」の間に彫り込まれる碑文のような強度を持つに至ることがある。たしかにダイアン・アーバスが撮っていた写真のことを、わたしたちは疑いもなくそう位置づけることができる。といっても、わたし自身はアメリカで開かれてきたダイアンの回顧展「REVELATIONS」を見ておらず、
そのカタログを去年ざっと眺めただけでしかないが。
ここまでにいったことをわたしが強く感じたのは、このところ続けて見ている吉田喜重の映画においてのことである。
一九六八年以降の吉田喜重が、映画という場で何を行ってきたか。そのことはきわめて簡潔に要約することができる。
ひとつは映像の自律、ひとつは物語の拒絶、そしていまひとつは映画そのものの葬送である。
具体的に一作を例にとって解説するまでもなく、この三つがリンクしていることは、言葉の上でも容易に推測できるだろうが、重要なのは、つぎのような点である。――ちなみに小津安二郎について書かれた現代の評論のほぼすべてが、ビデオやDVDできわめて短期間に作品を連続して見ることで書かれているが、その行為には小津の映画を見る上ではかなり重大な見落とし=感じ落としが生じやすい。逆に吉田喜重の映画の場合は、たて続けに見なければ見落としが生じる。ことに六〇年代後半以降の映画は、最新作の「鏡の女たち」(2002年)に至るまで、一気に見たほうがいい。まさに、一点一点を作品といい、また写真展や写真集という集合体形式をも作品という、写真を見るときと同じように。
で、三つの要約についてだが、細かい解説は別の機会にゆずるとして、吉田監督の映画がまことに興味深いのは、監督自身がたびたび、物語を拒否し映画による映画殺しを試みてきたことを語っていながら、映画を連鎖的に見ると、それらは単体においてつねに「ただひとつの映画」であり、全体において「ただひとつの物語」である、という点である。
風光明媚なヨーロッパ各地を背景に、旅する男女の愛を描くという、娯楽映画に典型的なスタイルをヌーボー・ロマン的に破壊した「さらば夏の光」、通俗的メロドラマ形式によるメロドラマ批評であったはずの「秋津温泉」、映画女優という存在を軸に映画というハリボテの娯楽を葬送せんとした「告白的女優論」、エミリ・ブロンテの作品を日本史劇に翻案し、スタイルとしての時代劇批評を行ったはずの「嵐が丘」……どの映画もジャンルという典型を使って、そこに向けられた「拒否」の批評性に満たされていながら、それらが拒否しようとするジャンルにおいて唯一の「傑作」といえてしまうという奇妙な素晴らしさ、いや、怖ろしさがあるのだ。カルトな仕上がりの映画をモノのたとえでそう言うのではない。「秋津温泉」など、その見ばえは典型的なメロドラマとして文句なく第一級なのだ。でありながら、この映画が最初から最後まで映し出すのは、わたしたちの恥部のひとつである戦後精神構造の問題なのである。いま中国人に歴史認識が足りないといわれて、そのいわれようにとまどうなら、まずこの映画を見たらいい。わたしはそういいきることさえできる。「嵐が丘」もまったくそうで、映画の作りが時代劇として見てもトップクラスの完成度なのだ(時代活劇の頂点をきわめた黒澤明が同時代に撮っている『乱』と見比べるといい)。しかし、この映画が映し出し続けるのは、わたしたちが宿命的にかかえる恥部のひとつ、愛と性の抑圧の問題なのである。
ならば、写真家が写真を拒否する、写真を葬送する、と称して撮影をしたならば、どうなるのか。むろん私たちはその試みのいくつかをすでに知っている。そして、そんなことがそれなりに達成できるのは一種の健康なパロディとしての場合だけであって、もしマジでそんなことをしたとしたら、写真家は自らを葬送せざるを得なくなる。それが写真の宿命であることも、わかっている。
いうまでもなく、劇映画と写真を単純に並べて語ってはならないし、わたしもそのつもりはない。話がそれるようだが、吉田監督の場合、つねに最重要な出演者でたいへん有名な女優であり、ときに制作者であり、そして監督夫人でもある岡田茉莉子の存在はきわめて大きい。おそらく大島渚における小山明子についてもほぼ同じだ(篠田正浩における岩下志摩というのもあるが……)。脱線ついでにいうならば、写真家にとっての岡田茉莉子のような存在を想像するのは、かなりむずかしいのではないか。吉田喜重と岡田茉莉子の映画作品における関係は、もちろん芸術家夫妻のコラボレーションだというべきだろうが、この場合、岡田茉莉子という人は完全なる虚構として映画の中に存在し続けているということを見逃してはならないだろう(吉田喜重は「妻」を映画に撮っているわけではない。当然ながら)。しかも、岡田は典型的なジャンル映画においても文句なく主役を張れる優秀な職業女優であったことは重要だ。
もちろん写真の場合も、アルフレッド・スティーグリッツとジョージア・オキーフであるとか、エドワード・ウェストンとティナ・モドッティだとかの(妻じゃないけど)、コラボレーショナルな関係は知られている。しかし、わたしにはどうも、写真作品となった「妻」というのは、素直に受け入れにくいところがある。だいたい、写真家である自分の妻、という「まんま」のリアリティにおいて撮っていながら、それをコラボーレーションだと言われても、という気がしてしまうのだ。
いったい「妻」という概念が、写真に写るのだろうか?
そもそも「妻」とは、写真でよく見るような形式で「夫」の近辺に存在しているものなのか?
だいたい「妻」とは、写真のジャンルなのか?
今回は話が限りなく脱線していきそうだ。お許しを。
で、ここまでの文脈にぜんぜん合わないじゃないか、と怒鳴りつけるのはお待ちいただきたいが、荒木経惟の撮った「妻」、これは、写真における<妻というジャンル>に属させるにはどこか違ってわたしには見える。妻を撮ることは愛情の表現であり、妻のもっともよい表情を撮ってきたというようなことを写真家自身が繰り返し語っていることは有名で、そのおかげで、妻の死顔を撮ったことについて論争めいたものが起きもしたのだが、その当時のわたしは、妻の死顔を撮って発表することが愛情の証か暴露趣味かというようないくつかの議論とは全然関係ない感想を持っていた。つまり、それはまるで、写真というジャンルを拒否する<映画>の一部のように見えたのだ。荒木経惟という写真家は、べつに「妻」を撮ろうとしているのではなく、じつは自分をめぐる長い長い映画を撮っているのではないか。それも、ことの始まりからいきなり終わりへ向けて……わたしには、そんなふうに思えたし、その考えはいまもあまり変わっていない。
実際、撮られた「妻」自身が書き残してもいるが、名作といわれるようになった自分のポートレートの大半が不機嫌なときのショットで、当の「妻」自身は好きではなかった、というエピソードもすでによく知られている。まんまのリアリティなどどこにもない「妻の写真」……そこにあるのは、万引きを黙認するようなひそやかな共犯関係だろう。虚構としての写真つまり、劇映画としての写真に暗示されたその関係こそが「夫の近辺に存在しているもの」、もうすこし正確にいえば、そのように存在することによって夫を存在させるもの、すなわち「妻」というありようなのだ、とわたしは思ってみたりする。
そしてそのことを、自分の撮っている「妻」は荒木経惟が撮った「妻」とは違うものだと明確に語っている小林のりおの、「デジタル・キッチン」に登場する「妻」にもわたしは感じる。彼は奥さんが「可愛いから撮っているわけじゃないし」といい「被写体としては女房もコップも同じなんです。女房やコップの向こう側にある何かを撮っているわけで」という。(1)たしかに、撮影者自身が語る撮影の動機はおおいに違っている。
とはいえ、小林のいう「コップ」をはじめとして、とくにキッチンにある食事や口にふれる食器の類、つまり日用品といってもチリトリや洗濯機とは違う親密な距離感のモノたちと同じ距離にいて、なおかつ撮影者にきわめて近い位置にある、そして、顔が見えるような見えないような、注文をつけたような、自然なような、不思議なポーズでパソコンの画面につぎつぎと現れては消える、そんな「妻」を見続けるときわたしは(これはわたしにとって劇映画の記憶にたいへんよく似ている)、夫からみた妻でない、妻のありよう、というものを見続けているわたし自身に気づかされることがある。
最初の話題からえらくそれてしまったが、ともかく、妻の写真といわれて私が思いつくのは、こういうことなのだ、という話である。
と書きながら、わたしは木村伊兵衛が撮った夫人の写真を思い出してもいる。週刊誌の「妻を語る」という企画で、夫人を語り、また撮るようにも依頼されてのもので、かっぽう着姿で和室で机に向かい、窓からの光を呼び込んだ手元で伏し目がちにスポッティングの筆を動かす久子夫人を撮ったものだ。障子がやや画面を遮っている。(2)
目線が来ていないことといい、画面をあえて障子で切った構成といい、やや引いた位置からの撮影といい、木村伊兵衛らしいと言えそうなのだが、この写真がまた一筋縄ではいかない。一般に下町情緒や庶民生活の記録と紹介される木村伊兵衛の写真が、じつのところ全然そういう意味を持っていない、むしろ一種の劇映画に近いのではないか、ということに、わたしはこの「妻を語る」の写真を見たときに気づいた。というより、うすうすそう思っていたことを確信した、といってもいい。
このことについては、べつの機会に書くことにしよう。
で、木村伊兵衛といえば、この半年の間に、木村伊兵衛の最初の著書とされる『小型カメラ写真術』を読んだのは記憶に残っている。初版は一九三六年だが、朝日ソノラマのクラシックカメラ選書に復刻収録(二〇〇二年)されているので、元本と体裁は違うものの入手が比較的楽なのはありがたい。
わたしは木村伊兵衛の写真について何度か書いているが、じつはこの本はロクに読んでいなかった。カメラ記事の編集者として昔のカメラを載せることもあるので、読んでおこうと思ったわけで、これは本業がわたしにもたらした多少の進歩といえるかもしれない。
この本が書かれた一九三〇年代は、映画用の35ミリフィルムを流用する「小型カメラ」が、35ミリ判レンズ交換式レンジファインダーカメラとしてほぼ完成をみた時代である。あらかじめパトローネに入った35ミリフィルムを使うカメラがもっとも普通のフィルム式カメラとなったことはいうまでもないが、当時は先端技術を盛り込んだ実験的な撮影装置であり、実用に耐えるには、まだいくつかの技術革新を待つところがあった。
小型カメラの利点は携行性のよさによる速写力だ。シャッターチャンスという言葉はまさに小型カメラの実用化あってのものだといえる。といっても、ただカメラを小型化し高速度なシャッターが切れるようにすればよいだけではない。コマのサイズが小さく、引き伸ばしての鑑賞が必須だから、フィルムの高感度化と微粒子化も必要だし、処理薬剤や印画紙もそれに応じたスペックの製品が必要だ。
当時の映画界では、動画をよりスムーズにすべくコマ送り速度のアップが図られた。当然、露出がきり詰められるため、映画用フィルムの性能が向上せしめられ、その恩恵が「小型カメラ」を潤わせたのだという。興味深いのは、木村が「小型カメラ」への要請そのものもまた、映画の進歩がきっかけだと考えている点だ。「ただ映画芸術のみが写真芸術に影響を与えたのであると見ることは杜撰に過ぎ、早計ではある」と断りながらも、木村はこう述べている。
「写真科学が技術的に絶えず映画工業に刺戟されてその優性に誘引されて来たと同様に、或いは更にそれ以前から、既に写真芸術の動向にも映画芸術の反映が見られたこともまた否定できない事実である」(3)
映画の動画がよりリアルに見えるようになったから、写真の静止画にも速写によるリアルな瞬間描写が必要になった、というのは「早計」に思える。しかし、「絵画とは異なった『空間性と時間性』という写真の持つ独自の世界のあることを理解していた」(4)という写真家の発想であり、花柳界の賑わい盛んな東京の下町に育ち、小学生時代から寄席通いもし、最大の楽しみのひとつが映画だったという粋人の発想でもあるというふたつの側面を考えると、木村の考え方はたいへん面白い。そういえば、浅草六区の映画街で実際にどんな映画を見たのかというようなことを木村はほとんど語り残していないようだ。かりに木村が映画からとても大きな影響を受けて写真の撮影を行っていたのだとすれば(映画のスチル撮影をしたことがある)、どの映画からどのように影響されたかということは、写真研究者はもちろん映画の専門家にとっても、魅力的なテーマのひとつだと思われる。
さて『小型カメラ写真術』だが、木村は、かように小型カメラ時代の到来を語ったのち、同時代のライカ、コンタックスなど最新の35ミリ判カメラの解説に移る。さらにフィルムの使い方、フィルターの使い方、微粒子現像法をへて、ようやく最後に「撮影」という項目が現れる。ところが、この「撮影」という章でも、作画精神はもちろん構図の作り方さえほとんど語られない。さまざまな撮影条件でいかに適正露出を得るかということが延々とつづられるのだ。
この本に一貫しているのは、思想や情緒にふれず、ただ「いいネガを作る」(この言葉も死語になりそうだが)ための徹底した「ハウツー」なのだ。後年「写真はあるところ以上は、人間がやらないで、機械がやる」(5)と語って、写真界に有名な<メカニズム論争>の火ダネをまくことになる木村らしい初著作だともいえる。
とはいえ、当時のライカやコンタックスは庶民には手の届かない高級品だ。一般大衆が写真を趣味にできるのは戦後のことだし、プロカメラマンもまだ数えるほどしかいない時代だ。この本を「ハウツー本」だとするなら、読者はきわめて限られた数の職業写真家と、たいへん贅沢な趣味を持てた旦那衆ということになる。類書はもちろん、海外製品には正確な日本語の取扱説明書もほとんどなかったであろう時代ゆえ、微細にわたる使用法や薬剤処方の説明のほとんどは木村自身が丹念に実験した成果に間違いなく、それを惜しげもなく公開するサービス精神には感心してしまうが、結果の可否はあくまで木村の感覚的な判断によっているわけで、下町風俗を先進のカメラで撮るという行為を「データ」として共有した読者層はきわめて富裕なひとびとだった、ということを考え合わせると、この本には一種の倒錯めいた奇怪さも感じられなくはない。すくなくともいま一般のカメラファンが購入するハウツー本とはかなり違った存在であったことは間違いないだろう。
ところが、この本にはさらに奇怪な、いや、素直に素晴らしいといいたくもなる、ここまで述べてきたこととも本の記述ともまるで関係のない魅力がある。
それは、この本に多数収録されている、木村伊兵衛による作例写真の数々である。
その驚くべき新鮮さ!
どれも七〇年近く前の写真だから、古びはもちろんまとわりついている。にもかかわらず、少しも古く見えない。よく昔の写真をみて懐旧にひたるというようなことがあるが、それがない。あたかもいま撮ろうとのぞいたファインダーの中に動いているかのように、『小型カメラ写真術』の作例写真は、飽きることなく見続けていくことができる。
いうまでもなく、そんな木村伊兵衛の写真の「よさ」を、写真ならではのリアリティのゆえんである、と簡単にかたづけてしまわないように注意しなければならない。であるならば、なんの「ゆえん」なのか――このことを、いかにもカメラ雑誌ふうのわけ知り顔な粗雑な言葉を並べて説明した気にならないようにすること、それがカメラ雑誌を毎月作ることが本業でもある目下のわたしの、最大の課題なのである。
というわけで、写真のことよりもわたし自身のことを書きなぐってしまったが、さきごろ木村伊兵衛写真賞の授賞式に関係者として何度目かの出席をして、長らくカメラ雑誌を作ってきたわたし自身と写真との関係(もちろんカメラそのものとも)について、つくづく考えてしまったのだ。考えれば考えるほど、忸怩たる思いがわいてくる。
じつに多くの見知らぬかたが、直接にわたし宛に写真展への案内状をくださる。とくにここ数年、ますます増えた気がする。作品を誌面で紹介する選定をわたしがしているわけではないので、たまたま会場にいた写真家に熱心に売り込まれた場合など返事に困ることもあるが、直接に案内をいただいた場合は時間の許す限り見に行くようにしている。そういう案内には例外なく「ぜひ」という言葉が書き添えてあるが、残念ながら行けないことも多い。他意はまったくないのだが……(近くのギャラリーの芳名帳にはわたしの名前が書かれていたのに、そばで開いていた自分の写真展に来なかった、と怒られたことがある。昔のことだが)。
いっぽう、会って写真を見てほしいと連絡をくださるかたも多くなっている。わたしの話を聞ければよいということならば、できる限り応じているつもりだが、いくら誠意をもってと思っても、出てくる言葉が心許ないものでは結局は仕方がないな、とも感じる。
写真を語ることは本当にむずかしいのだ。私にとって、いまだに……。
(1)『アサヒカメラ』二〇〇五年五月号
(2)『週刊朝日』一九五三年一二月六日号
(3)『小型カメラ写真術』(二〇〇二年・朝日ソノラマ)
(4)『木村伊兵衛読本』(一九五六年・研光社)
(5)『アルス写真年鑑』(一九五三年版・アルス)
|