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三島 靖 MISHIMA Yasushi

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28:「姉がデジカメにはまっちゃってね」
――写真ではなくふたたび絵画の時代なのだ、というデイヴィッド・ホックニー

2004.3.16


「姉は私よりちょっと年上で、地域保健婦の仕事をもう引退してるんだけど、このところデジカメとパソコンにいかれちゃってね」
 ――イギリス出身のアーティスト、デイヴィッド・ホックニーが、さる3月4日付のガーディアン紙のインタビューでそう語っている。
「姉にとってみれば、パソコンでいじっている画像が真実かどうかなんて、どうでもいいんだね。ただ絵を作っているだけなんだ」
 80年代には写真を使ったコラージュ作品を積極的に制作したことでも知られるホックニーだが、写真に対する愛情はとっくにさめてしまった、という。そしてその最大の理由は、デジタル処理で画像操作がとても簡単にできるようになったせいだというのだ。
 彼は、いわゆるアートとしての写真は退屈でつまらない、といいきる一方で、デジタル技術で容易に写真を改変できる現代では、カメラの前の事物が「そこにあった」ものとして写るという<正確性>あるいは<真実性>(veracity)が、写真から失われてしまった、ともいう。2003年3月のロサンジェルス・タイムズ紙の合成写真掲載事件(イラク戦争の報道写真において、カメラマンがよりドラマチックなシーンにしようと別々の二つの画像をパソコンソフトで切り貼り合成、それを第一面に掲載してしまった)を例にとり、なぜ合成写真を作ったカメラマンが解雇されなければならなかったか、ホックニーはつぎのように語る。
「なぜならそのカメラマンは、写真を『私がそこにいて、これは私の目の前で起きた』ことの証として使用しなかったからだ。新聞写真はそういうものでなければならないからね」
 しかし紙面に載った合成写真を多くの読者が真実だと信じた以上は、ある瞬間を撮ったことを領収書のように保証する不可変のドキュメントが写真なのだ、という前提はもはや無意味だといえる。となれば、視線のハードコピーであるポラロイドをコラージュしたホックニーの作品もそれ本来の意味を失ってしまう。デジタルで画像操作が簡単にでき、誰もがホックニーのお姉さんのように写真の真実性など省みもしなくなれば、写真の真実性に対する批評的な行為など、ほとんど徒労にすぎなくなる、というわけだ。
「もはや写真はカルティエ=ブレッソンが作ったようには制作されていない。カルティエ=ブレッソンは真実性のある写真を作る巨匠だが、彼のような写真家が今後現れることはないだろう。写真はいまや、そんな方法でなくてもいくらでも作れるのだから」
 ただ、ホックニーがあれほど熱中した写真から離れたのは、写真にパーソナルなデジタル技術が導入される前のことで、別の理由もあるようだ。それはそれで興味深いのだが、その話題は機会を改めることとし、ガーディアン紙の記事に話を戻そう。
 ちなみにホックニーはこのインタビューで、写真の真実性が軽くなってしまったことを嘆いているのではない。「彼はデジタル技術が、決して嘘をつかない一つ目の怪物である写真による支配を終わらせることを喜んでいる」のだと記者は伝えている。
「世界が写真に写っている通りだとは、私自身は実は一度も考えたことがない。多くの人は写真が世界を映す鏡だと思っているが、それは世界を見るささやかなひとつの方法にすぎない。あらゆる宗教は社会をコントロールすることに関わっている。教会が社会をコントロールする力を持っていたときには、教会は画家たちに一見レンズを使ったかのように見える絵を<描かせて>いた。そして、教会がそのような絵の注文をしなくなるにつれ、その権力は徐々に衰退した。社会をコントロールする力はいまではメディアにあり、メディアが依存しているのは写真なんだ」
 そしてホックニーは、デジタル技術によって写真から真実性が失われたのなら、絵画が真実を伝える役割を果たしてはなぜいけないのか、ともいう。むしろ絵画の方が真実を伝える機能にすぐれているのではなかろうか、というのだ。たとえばゴヤが1814年に描いた「1808年5月3日の虐殺」(1)は、ゴヤ自身がその事件の目撃者であろうとなかろうと、戦争の真実を伝えているではないか。また、ピカソが1951年に描いた「朝鮮の虐殺」(2)も、写真による戦禍のシーンが、意味を持ったつながりでなく瞬時の映像として目の前を通り過ぎていくだけの現代のメディアよりも、ピカソ自身の戦争に対する深い理解が伝わってくるではないか、と。
「どんな写真もビデオも、子どもに歩くことを教える家族を描いたレンブラントの素描のあの優しさをとらえることはできない。芸術作品を作るためには手が必要だ。そして目と心もね。多くの人たちが(レンブラントの素描のように)優しい瞬間をビデオに撮っていると思うが、ビデオはすべてを演技にしてしまう。フェリーニも言っているだろ、カメラの前にあるものはすべてが演技なんだ、ってね」

 これに対し、3月10日付のガーディアン紙にジョール・スターンフェルドの反論が載った。ニューカラー・フォトのバイブルのひとつでもある『アメリカン・プロスペクツ』が復刻出版され、いま日本の洋書店でも懐かしく見かけるスターンフェルドだが、ガーディアン紙が協賛している写真賞の受賞者であることが同紙に取材される縁となったようだ。
 スターンフェルドは、ホックニーの議論は単純すぎる、という。まず写真を撮る場合、撮る者にとって無限の選択肢がある。世界をフレーミングするという意味において写真はそもそも(単純に事実を反映したものではなく)作られたものなのだ、とスターンフェルドは定義する。ホックニーの議論は、どんなノンフィクション本もすべて真実だといっているようなものだ、というのである。
「アンドレアス・グルスキのように、実際にデジタル画像操作した写真を作品にしている人たちも反論するはずだ。たとえばアンセル・アダムズはモノクロを撮るのにカラーフィルターを(コントラスト強調のために)使っていたし、プリントを完成させるまでに長時間の暗室作業で覆い焼きや焼き込みをしていた。それもまた『操作』ではないかとね。ホックニーはカルティエ=ブレッソンを称賛しているらしいけれども、カルティエ=ブレッソンはむしろ覆い焼きや焼き込みをやり過ぎることで有名だったほどなんだがね」
 そして、スターンフェルドはこのように結論する。
「個々の写真はそれ自体では何も説明しない。そのことが写真を、素晴らしく、また、さまざまな問題をはらんだメディアにしているんだ。写真家の仕事とは、写真に、写真家が語るべきことを語らせるようにすることなんだ。写真はある種の本当っぽさを持っているから真実として流通するようになったけども、同時にそれはつい納得してしまう嘘でもあったわけだ」
 ホックニーが口火を切った形の議論が同紙上で続くかどうかは不明だが、スターンフェルドいうところの写真の「操作」、とくに印画紙プリント作業とパソコンでの画像データ操作の両方を経験されたかたならどなたも、英文記事からの私の紹介が拙いのはともかく、議論の収まりの悪さを感じたのではないだろうか。これに限らず、「デジタル写真(新しい写真)」と「非デジタル写真(伝統的写真)」の二分法をめぐって行われる議論はすんなりと腑に落ちたためしがない。<どちらも同じことをいっているのにケンカになっている>という、あれである。
 ことは「デジタル」と「非デジタル」を比較して語られる「程度の問題」ではないのだ。もちろん、いくつかの局面で両者の「程度」は明らかに違う。ホックニーの言うとおり、写真画像の高度な改変作業がデスクトップ化されたことは、もっとも大きな「程度」の違いだろう。しかし、程度の違いは本質の違いを説明しない。では「デジタル」と「非デジタル」に本質の違いがあるとするなら、それはいったい何なのだろうか。
 スターンフェルドの指摘を待つまでもなく、ホックニーの発言にはナイーブすぎる面がある。画像が操作されている可能性があるから真実性の低い現代の戦争写真よりも、描き手が誠意あるメッセージを込めたと思われる絵画のほうがよい、とするなら、現像の失敗で生じたイメージだといわれる(結果として画像操作が効果的に行われたともいえる)ロバート・キャパのノルマンディ上陸作戦の写真は、どう考えればいいのだろう。キャパが(自身の最初の意図でなかったにせよ)画像操作を行った偽りの戦争写真だから「ダメ」なのか。キャパが戦争を深く理解して描いた「絵画」といえるから「いい」のか。あるいは……。
 しかし、このようにこの議論をみてくると、ホックニーのデジタル技術批判が指しているのも、スターンフェルドの反論が指しているのも、写真そのものよりも制作者のアティテュードであることは明らかだ。だとすれば、いまごろなんでそんな古くさいことを持ち出すんだ、という気は確かにする。その一方で、この「古くさいこと」にケリをつけておかなければ、いつまでも<同じことをいっているのにケンカに>なるのではないか、とも思えてくる。いかなる形式であれ、戦争写真や絵画がたとえ1枚もなくとも、私たちは戦争などせずにいられたはずである。問題は、戦争写真や絵画が溢れつくしているこの世界に、戦争もまた溢れかえっている、という逆説を、<同じことをいっているのにケンカ>している者たちはまったく解くことができないというところにある。


(1) http://www.goyatobeijing.org/goya.html(参考)
(2) http://www.goyatobeijing.org/picasso.html(参考)
*執筆にあたり、長谷川弘基氏にお世話になった。記して感謝する。

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