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日本の写真ジャーナリズムの先駆者、報道写真エージェントの草創者にして写真編集者の草分け……これらが、名取洋之助を語るとき間違いなく出てくるキャッチフレーズである。
元慶應大学教授の実業家が父、母もまた実業家の娘という家庭の三男坊として生まれ、昭和の初めに早々とドイツに留学した名取。留学といっても、慶應普通部時代に待合から学校に通ったことがあるという名取のこと、一種の高等遊民であったことは間違いなく、おりしも「黄金の20年代」といわれた円熟期ワイマール時代のかもし出しす自由とコスモポリタニズムに彩られた文化のエッセンスを、のびのびと感じとったのだろう。兄に買ってもらったライカで写真を撮るようになり、ミュンヘンの博物館の火事の写真をニュース誌に持ち込んで採用され、当時のドイツ有数の出版社の契約写真家となったが、その写真はドイツ人の妻が撮ったものだった、というのも有名な話だ。
さまざまな事情があって帰国後、ドイツで経験した写真の撮影・編集・配信のプロ集団を日本でも作ろうとし、写真の木村伊兵衛や意匠の原弘らと興したのが「日本工房」であった。企業的な運営を目指す名取と、より同人的な語らいの場でもありたいとする木村や評論家の伊奈信男らとの意見が当初から合わず、いったん解散に近い形をとって新たにスタッフを集め再編、「第二次」日本工房と呼ばれる組織が出版したのが、当時の制作技術の粋を集めた対外宣伝誌『NIPPON』である。
軍需技術がつねにそうであるように、戦時体制下の国策で作られた製品が時代を超える完成度に至った例は少なくないが、『NIPPON』は出版印刷物における典型的な例であり、またそうした事情ゆえに、語られこそすれ見られる機会のほとんどない幻の存在でもあった。
現在『NIPPON』は国書刊行会からすでに復刻が進んでいて、中身がどのようなものであったか、ということは一般のかたでも比較的簡単に見ることができる。名取の生涯や人となり、あるいは彼自身の写真作品についても同様だ。
そうなってくると興味がつのるのは、当時最高の印刷技術を使い、高い完成度を誇ったといわれる『NIPPON』を、国策宣伝戦の一貫として作った、作らざるをえなかった人びとの、丸山真男ふうにいうなら「思想と行動」である。
この点について、日本工房の仕事を研究し意義深い視点をもたらしてくれつつあるのが、福島県立美術館の掘宣雄さん、日本カメラ博物館JCIIライブラリーの白山眞理さんらを中心とする「名取研究會」である。さきごろ東京・千代田区のJCIIで展示に合わせて、東京都写真美術館専門調査員の金子隆一さん、日本カメラ博物館の井口芳夫さん、このホームページでもおなじみの川崎市市民ミュージアムの深川雅文さんをもまじえシンポジウムも開かれた。
シンポジウムの内容は略させていただくが、プリントに起こした名取洋之助や土門拳の写真作品展、そして印刷物になった形での資料展がこの暮れまでJCIIフォトサロンで開かれているので、ぜひご覧になることをおすすめする。けっして規模の大きい展示ではないが、日本工房の仕事について考えるきっかけをつかむにはちょうどいいサイズの展示だと思う。工房の仕事にかかわる写真家たちが、撮影者としてどのような資質を持っていたのかをまずプリントを見ることで考えた上で、彼らの写真がいかなる編集のフィルターを通っていったかを検討してみてほしい。繰り返すが展示の規模が大きくないので、かえってじっくり考えることができると思う。
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展示のうち私がもっとも興味深く見たのは、当時の日本工房のスナップ写真である。何かを説明するために撮った写真ではないから、工房全体のようすがひと目でわかるというものではないが、現像ずみのフィルムを透かして見る土門拳の姿などに、私には一種の感慨があった。日本工房の日々の作業は、編集者である私が昨日今日繰り返している仕事と、本質的にはまったく変わっていないように思えたのである。
一般的な認識として、日本工房あるいは東方社(陸軍参謀本部との関係で対外宣伝誌『FRONT』を制作した)が行ったような写真によるプロパガンダメディア作りは、現在はまったく姿を消した、という見かたがある。たしかに国策プロパガンダ協力の例としてよくあげられる、露骨な切り貼りやブラッシング処理をして写真を使うことや、撮影時の状況を無視しストーリー仕立てに都合のいいように写真を配すること、写真の視覚的威力を重んじた単純で力強い誌面デザインをすることなどは、現代の雑誌などを眺めると影も形もないように思える。しかし、日本工房での毎日の仕事の流れは、私たち現代の現場の編集者が行っていることと基本ではほとんど変わらなかったのでは、という私の印象が正しいとすれば(私はほぼ正しいと思っているが)、名取洋之助流の写真メディア作り、たとえば死後に岩波新書として刊行された『写真の読みかた』で名取が語っているような写真編集の方法論もまた、戦後に精算されたわけでは決してないのである。名取の『写真の読みかた』を知っているいまの現場の編集者は少数だと思うが、一読すれば、そこで語られていることの多くは、編集者ならばほとんど無意識のうちに使っている原則にすぎない(もしくは原則だと知ってわざと<はずし>を行っている)ことに気づくはずである。
切り貼りなどの画面処理や、撮影時の状況を無視した写真の使用などは、パソコンソフトや写真ライブラリーの充実で当時よりソフティスケイトされた方法で、むしろ当たり前に行われている。だとすれば、見た目のスタイルやタッチが変わっただけで、写真とプロパガンダという問題は、戦前と戦後に何の断絶も精算もないまま継続されている、というしかないのだ。
ひとつの逆説として、名取洋之助の仕事は、同時代には先進的すぎたか予算がかかりすぎたのか(2)、商業的にはあまり成功はしなかったという事実がある。名取の夢は実はいま、さまざまな形で技術的には実現されているわけで、あと必要なのは名取のいう「日本もこれだよ、これをやらないと世界は味方してくれんよ」というモチベーションと、そのモチベーションに対して<職人>あるいは<受給者>として技術的に奉仕したスタッフの存在だけなのである。私がひそかに怖れるのは、モチベーションも職人もとっくに揃っているのではないか、ということなのだ。
私は、日本工房が活動した時代といまこの瞬間とに、たとえば経済不況打開の必要だとか対外的なキナくささだとかいった符合があると、安易に叫ぶつもりはまったくない。が、日本工房の仕事を戦争責任だと一言で断罪してしまわない思慮深さを大切にするあまり、工房の仕事をたんにアーカイバルに集成すればよしとする態度はむなしい。また、現代の印刷物は当時と違うから関係ないんだと印象批評だけで決めつけ、違うからと言い訳しながら当時の意匠をパクったりする、その態度もむなしい。この二つの態度の不毛さをせめて確信犯、せめて<ぎりぎりセーフ>にまで持っていけるアクティブなリンクがあれば、それさえあれば……と思うのである。
(1)名取洋之助と日本工房作品展−報道写真の夢− JCII(東京都千代田区一番町・営団地下鉄半蔵門線・半蔵門駅)1F&B1F 12月25日まで
(2)私の想像だが、採算度外視としか思えない凝った仕様と気にいらなければ何度でもやり直すという作業は、夢の編集といえなくもないが、事業規模を考えると(日本工房は決して大きな組織ではない)現場が強いられた負担は軽いものではなかっただろう。10歳上のドイツ人の妻を経営に加えるなど、彼の行動はどこか「浮いていた」ところがあったと思う。学生時代は劣等生だったというが、財界人家庭に生まれ、事業を興しヒトとカネを使うことは当然だと思っていたのではなかろうか。
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