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さる10月10日〜16日、2年に一度の山形国際ドキュメンタリー映画祭が開催された。今回が8回目だという。
ドキュメンタリー映画といっても、一般に想像されるコテコテの社会派ものがすべてではない。むしろそういった既成観念では分類できない作品も積極的にとりあげていくのがこの映画祭の特徴でもある。これまでのように国際コンペティション部門にラインナップされた、15作品(世界から応募された900本を超える作品から選ばれている)をはじめ、今回は10のテーマでさまざまな映像作品を上映する沖縄特集などが注目されるところだった。
前回もそうだったのだが、週末までに仕事を慌ただしく片づけ、休日の午後に疲れを引きずったまま山形到着、そして週明け朝には東京へ引き返すような日程では、さほどの本数を見ることはできない。だから私にはこの映画祭そのものについて報告する資格はない。ただ、今回この映画祭で私は、とんでもないものを見てしまった。それがあまりにとんでもないので、とても文字になんかできないなとは思いながらも、お伝えしなくてはいられない気分なのである。
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はじめに、高嶺剛の『サシングヮー』について。高嶺は1948年石垣市生まれ。京都へ出て絵画を学び(当時の沖縄からは国費留学生として)、8ミリ映画に入った人だが、劇映画『ウンタマギルー』(89年)の監督といえば、ご存じのかたも多いだろう。以後も沖縄の風土と人間に徹底してこだわりながら、ドキュメンタリーとドラマが混然となった作品を撮り続けている人である。
今回の沖縄特集で、高嶺作品の特集上映があったわけだが、私は『サシングヮー』と『オキナワン ドリーム ショー』を見た。古い蔵を使ったパブ&イベントスペースで上映が行われ、映画祭の特別イベントに招かれていた島唄の大城美佐子が後者に合わせて歌って聴かせるということだったので、ちょっとおトクかなと思ったのである。申し訳ないが。
その島唄のライブ演奏と、70年代初頭の沖縄の街角を延々と映写する『オキナワン ドリーム ショー』のドキュメント映像の合体もなかなかだったのだが、これについては別の機会にゆずるとして、ここでは『サシングヮー』の話をしよう。
こちらは73年の作で、高嶺の最初の映像作品だ。8ミリで約20分の、セリフもストーリーもない実験的映像である。
テーマは家族写真へのオマージュだ。彼の父親と思われる人物の古い写真を中心に、さまざまな人々の写真(彼の家族や子ども時代の彼自身だろう)が、ゆるやかにオーバーラップし、現れては消え、重なり合っては通り過ぎる。写真はモノクロだが、それぞれが鮮やかなひとつの色で着色されていて、人々の姿の重なりは、ときに色の重なりとなってスクリーン一面に広がりもする。いく昔も前の記念写真らしい少し緊張した表情で「気をつけ」している人たち。繰り返し現れる彼らがスクリーンから何事かを語りかけてくるような気もし、地縛霊に出くわしたかのような不気味さも感じさせる。
むろん、写真に着色するとか映像をオーバーラップさせるとかいうテクニックそのものは、さして新しくはない。写真を習ったかたなら、美術でやることだと悪い例にされたことが多かろうから逆によくご存じだろうし、70年代初めという時代を考えれば、サイケデリック・カルチャーを彩ったさまざまな映像を例にとるまでもなく、当時の実験映像に手を染めた者の多くが試みた方法だろう(ならば<キメて>鑑賞するのもひとつの見かたということになろうか)。私も、テクニックが斬新かどうかで何かを感じたわけではない。
実は、その夜の小規模な上映会(会場は満員だったが)で映写機を回したのは、『ウンタマギルー』ですでに国際的な評価を受けている高嶺剛その人であった。2台の8ミリ映写機を調整しながらスクリーン上に映像を作り出し、カセットテープのBGMをかけ換える。操作のタイミングがもはや自分にしかわからない作品だ、と高嶺は会場の笑いをさそったりもしていたのだが、いまふうに<DJ>と表現するよりは<辻映画師>とでもいいたくなる、どこか奇妙な一種の映画パフォーマンスなのである。街角で自動オルガンを回す男が奏でる音楽のように、寄る辺ない寂しさとともに映画師の家族たちが、映画師自身の手によって、スクリーンに現れては消える。どこまでいっても「わたし」をめぐる「わたし」の記憶でしかない「わたし」の写真たち。しかし、かんじんの「わたし」はどこにもない。写真を装置という、そういういい方があったものだが、それは撮影の方法論においてではなく、むしろこのような辻投影師としての写真の見せかたのありようをさすのだろうと私は考えた。ここにいる「わたし」を見てください、そういう写真を私はまったく見たいとは思わないが、「わたし」のない「わたし」の写真、それがいつまでもうら寂しく並ぶ街角があるとしたならば、私はきっとたびたび足をとめるに違いない。ちなみにこの映画のタイトル『サシングヮー』は、『写真ぐゎー』、すなわち「favorite
tiny photographs」というような意味なのである(1)。
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『サシングヮー』は上映時間約20分の<写真体験>であったのだが、『鉄西区(ティエ シー チュイ)』は、三部構成で全編9時間、午前10時から見はじめて見終えたら夜の9時を過ぎていたという、ほとんど暴力的な長さのドキュメンタリー映画である。時間を感じさせない、どころか事実ムチャクチャ長く感じるのだが、私はこの『鉄西区』には完全にノックアウトされた。
映画の舞台は中国の東北部、瀋陽にある工業地帯、鉄西区である。瀋陽は、かつて日本による占領時代に「奉天」と呼ばれていた都市で、最近では領事館への駆け込みや誘拐事件でその名を記憶されているかたもおられるだろうが、当時の日本による開発によって、中国屈指の重工業都市として発展した経緯を持つ。鉄西区は旧満州鉄道の西側という意味でもあり、ここではかつて日本が建設した大規模な重金属工場が戦後も稼働を続け、90年代前半にはかなりの生産高をあげてもいた。しかし、中国国営企業衰退の趨勢には逆らえず、現代的な操業システムが導入されないままのこの工場は、ろくな教育も受けられず金属中毒に冒されるがままの多数の文革世代労働者たちを宙ぶらりんにして、閉鎖・売却されることになる。
監督の王兵(ワン・ピン)は、90年代の終わりにこの工場に着目し、工場の操業が止まっていく様子、建物が取り壊される様子を丹念に追いかける。これが第一部。第二部では、市内に残った、工場労働者を中心とした人々が住んでいた古い住宅の密集地が再開発によって取り壊されていくさまを撮っている。そして第三部では、そんな鉄西区を走る鉄道を軸に、列車を動かす鉄道関係者、線路の近くに住む人々を追う。三編ともにそれぞれが各々の背景となり伏線となる構造だ。
王兵は、このとてつもなく巨大な現代史の動きをたった一人で撮る(デジタルビデオカメラで一人で撮っている)にあたって、そこに生きている多くの人間たちの日常に深く踏み込み、ひたすら彼らの居場所でカメラを回し続けるという方法をとっている。
たとえば第一部は工場の勤務者休憩室が主な舞台である。フリチンで歩き回る労働者たちがさまざまな会話を交わす。カメラに向かっても問わず語りに本音の話を続ける労働者。ひたすら繰り返される風呂場のシーン。解雇されたら行くあてがない文革世代の労働者たち……第二部では、古い住宅地(占領時代に日本が建てたものらしい)に暮らす17〜18歳の若者たちを中心に、その親たちにカメラが向けられる。親たちはレイオフに合い、しかも当の工場は倒産してしまうわけで、かなり貧しい生活なのだが、若者たちは苦笑してしまうような<お洒落ファッション>である。一人っ子政策が招いた過保護の皮肉であろう。そして移転立ち退きを迫られた人たちの狂想曲がこれまた執拗に映し出される。第三部では、列車を動かす機関士たちと、線路脇に住み石炭をくすねて生活している父子に焦点があてられ、鉄西区の動脈であった鉄路が描写される。
かつて栄えた重工業が斜陽となった場所で生きていく人の生活――このようなことをテーマに据えたドキュメンタリームービーは、多くの場合暑っ苦しいご高説か、被害者意識まる出しのお涙物語になるだろう。見始めてすぐええ加減にせえよと怒鳴りたくなるようなシロモノである。王兵の不思議なのは、これだけ長時間一人きりで撮影し、なおかつ相手の懐に深く入り込む撮り方をしていながら、彼自身の存在はもちろん、彼と被写体との馴染み具合もほとんど感じさせないことだ。まるで開けっぴろげな人々の生活がつぎつぎに画面にあらわれ、問わず語りのやりとりがあてどなく果てるともなく画面の中で続く。しかし、この何の脈絡もなく思えるざわめきは、不思議なことに大きなひとつの流れに浮き沈みしながら私の目の前を過ぎていくようなのである。
王兵は68年生まれ。父親の仕事場だった設計事務所の事務などを10年やったのち、北京で映画を2年ほど学び、信じられないことにこれがデビュー作である。デビュー作がいきなり強烈だった中国人監督といえば、現在もつぎつぎに鮮烈な作品を撮っている劇映画の賈樟柯(ジャジャン・クー)がいるが、映像のタッチが若干似ていなくもない。実は王兵自身、賈樟柯の映像には影響されたそうで、それに限らず、映像には相当な注意を払っているという(2)。
それを聞いて私がなるほどと思うのは、彼のデジタルビデオカメラ(DV)の使い方である。
DVの登場でムービー制作の現場に革命が起きる、ということはよくいわれたが、どんな革命が起きたのか私はあまり知らない。ただ、それまでのシネカメラやプロ向けビデオカメラ、たとえば放送カメラマンがかついだようなカメラに比べ圧倒的にコンパクトで軽く、しかも映像劣化のない編集が可能なのだから、大げさではなく家庭用機材で「誰でも映画が撮れる」ようになったのは事実だ。ただ、それが革命であるかどうかはともかくとして、私はそうなることでの弊害もまた、小型化・自動化・高画質化を究めた写真カメラの場合と同じように起きるだろうと思っていた。
たとえばドキュメント映像を撮る場合、撮る側と撮られる側が、必要以上に慣れ合ってしまう、という問題がある。カメラというじゃまな存在、それがドキュメント撮影の最大の負荷であった。あらゆる撮影者が、カメラや録音機器の存在をなるべく小さくしようと(あるいはその裏返しでわざと機材の存在を強調しようと)してきたのが、ドキュメント映像史の重要な一側面でもあったはずだ。しかし、すべて隠し撮りして許可なく発表するという方法以外、撮られる側の前からカメラを消し去ることが不可能な以上、必要以上に軽いシステムで撮影をすることは逆に必要以上の親しさをその場に生じさせはしないか。たとえば、撮影者と被写体が親密だからといって、縁もゆかりもない人の結婚披露宴の録画を見せられてもさほど面白くはないだろう。何事につけナルシシズムを強引に見せつけられるほど気色悪いことはない。またこのことに限らず、撮りっぱなしにしておいても自在に編集できること、逆に瞬時に撮ったものが消去できること、そうした軽快さの中に失われるものの多さを、私たちはすでに写真の場合において知っているのではないか?
王兵に感心させられるのは、機材が小さいからあらゆる場所に入っていける(第二部ではカメラと一緒に撮影者がいるとは到底思えない古びたせまい室内でのシーンが多い)、かなり暗い場所でもカメラだけで撮影できる(第三部の鉄道編ではその機能が存分に駆使されている)(3)、というようなDVの特徴を存分に生かしながら、決して「ホームビデオ」としての使い方をしていない点だ。
確認していないので断定はできないが、それは、王兵が映画学校に通う前にしばらく写真を学んでいたらしいことと無縁ではないと私は思う。さきに述べたとおり、『鉄西区』は大文字で語る現代史ドキュメントではない。制作者による解説は最低限のテロップが入るだけだ。この映画の中にあらわれる人々の、とんでもなくどうしようもない日常生活とその意見、その積み重ねが<現代史>となって私たちの前にゴロリと転がり出てくるのである。しかし、王兵は絶対に「わたし」の家族たちを撮るように、人々を撮りはしないのだ。
一方で長丁場を飽きさせない見応えのある映像のために、たとえば画面の構図(カメラを置く空間の人やモノの配置)にかなり注意していることは一見してわかるし、室内だけでなく工場などを引きで撮るときの光の回し方などがじつに上手い。さらに一方で、写真ならば通俗的なシャッターチャンスというべきシーンも決して撮り逃さず、さりげなく配している。
繰り返すが、王兵はこれがデビュー作である。巧まずにこれがすべて撮れたのなら天才だが、多かれ少なかれ習い覚えた技術を使ってのことならば、ほかにもっと違ったタイプのとんでもない映像作家が出てくる可能性が中国にはまだあるということだ。ひとり王兵をとってみても、年齢的に必ずしも早くはない学び始めでありながら、評価の可能性も見えないはじめての映像作品の撮影に迷わず五年もしくはそれ以上を捨てられるという意識の持ちようなのだ。ちょっと恐ろしいような気さえする。
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というわけで、映画祭そのものを見渡した報告にはまったくなっていないし、そう言われて無理して見てみたが失望した、ということになるかもしれない。結語としてはあまりに通俗的だが、私のこのような映像との出会いに興味を持たれたかたは、ぜひ再来年、秋の山形を訪ねてみることをお勧めする。
(1)「ぐゎー(小)」は、軽い愛称として付される言葉。「犬」+「ぐゎー」で「いんぐゎー」、「ワンくん」という感じだろうか。「とぅいぐゎー」=「小鳥」「あみぐゎー」=「小雨」だそうだから「写真(さしん)ぐゎー」は? 大切ではあるけれど別にたいしたものではない写真、というこの言葉を知っただけでも、映画を見た価値があったような気がしている。
(2)王兵自身に取材をしたわけではなく、手元に資料もないため、誤りがあるかもしれない。
(3)私が見た10月13日の第三部上映時、上映技術に重大なミスがあった。せっかくの日本初公開の席でこの秀作の表現意図を誤解したまま帰途につかれたかたがないことを祈りたいし、関係者は厳しく非難されなければならない。
(4)10月16日、『鉄西区』はノミネートされた国際コンペティション部門の大賞(ロバート&フランシス・フラハティ賞)を受賞した。なお、上野昂志、佐藤真、樋口祐子の各氏に、参考になるお話をきかせていただいた。記して感謝する。
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