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「風の中の子供」清水宏 / 1937年 / 松竹大船
今年も、東京・有楽町で開かれる映画祭「TOKYO FILMeX」の季節が近くなってきた。「新・作家主義国際映画祭」をテーマに毎年開催され、今回が四度目である(11月22日〜30日)。
アジアの注目すべき新作映画を積極的にとりあげるのが特色だが、若手監督の作品をコンペティション部門で評価する一方、ここを通過点として世界的にも評価された監督の新作は招待作品として日本で先陣をきって公開する、という二つの歯車が、開催4回目ながらすでに機能している。そのおかげで、今回は韓国のキム・ギドクやイランのアボルファズル・ジャリリらの新作が上映されるので楽しみだ。
この映画祭の、個性的ながらひとりよがりでなく、上映作をみれば世界レベルのすぐれた映画の現在がわかるという仕立ては、川喜多記念映画文化財団から各国映画祭での仕事をへてこの映画祭のディレクターとなった林加奈子、制作現場の仕事にも通じるプログラムディレクター・市山尚三の両名の、評論家の見かたとはまた角度の違う映画選びのセンスによる。林さんの映画祭に関する考えと運営の方法論については昨年ここで書いたので繰り返さないが、今夏のロカルノ映画祭でお二人と話す機会があり、やはり彼らの選択眼を信じつつ、興味深く上映作をみたいとあらためて思っているところだ。
さて、くわしい予定などは公式ホームページなどをご覧いただくとして(1)、この映画祭に関連するところで、すこし別の話を書いてみようと思う。
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今回の「TOKYO FILMeX」で「特集上映」部門のひとつにフィーチャーされたのは、あの幻の巨匠(でもないか)・清水宏だ。生誕100年記念とのことだが、同じ生誕100年でも小津安二郎でないところが渋い。
上映作は10本。う〜んどれも必見なのだ。清水の代表作とはいえないかもしれないが、私の好きな『簪』や『歌女おぼえ書』がニュープリントでみられるのは嬉しいし、上映の機会が少ない戦後の新東宝作品も一見の価値がある。
清水宏といえば、およそ作品からは想像できないデブっとした体躯も印象的だが、脚本があってないような思いつきの演出、暴君的な現場での態度、俳優であれスタッフであれ能力を発揮できない者への残酷な接し方などで、じつに毀誉褒貶激しくいまにその人がらを伝えられている。しかし、ことに戦前の松竹作品に共通の、静かな風景の中で淡々と描かれる、スネに傷もつエトランゼたちの人生哀歌にはいまも心をうたれる。小津安二郎とは違う屋外ロケや移動カメラを多用した撮影も興味深い。
その清水が戦後砕身したのが、旅のさきざきから連れ帰った戦災孤児たちと生活をともにし、養い(清水自身には子どもがいない)、その子らを主人公にした<蜂の巣の子供たちシリーズ>と呼ぶべき一連の映画を撮影することであった。
すでに戦前の『風の中の子供』(1937年)や『子供の四季』(1939年)で、子どもを主人公にした映画作りで定評があり、実在の非行児童更生施設からエピソードを得て『みかへりの塔』(1941年)を撮っていたことも伏線となってはいようが、注意しなければならないのは、たんに清水が子ども好きだからという理由でそうしたわけではなく、まして映画制作のためにそうしたわけでもない、ということだ。
「私は、慈善家でもなんでもない。なんども言うように、ただ気まぐれでやっているにすぎない。(略)ここで誤解のないようにことわっておくが、私は、自分の映画を撮るために、かれらを拾ってきたのではない。」(2)
そう清水はいっている。そして、この子どもたちを自ら教育し善導するようなことはほとんど行っていない。浮浪児だったために遅れた勉強については近所の学校の先生に補習を頼んだが、それ以外は放任である。
清水が<蜂の巣>の子どもたちと朝餉の膳を囲むスナップ写真がある。白いシャツとパンツ姿で飯をかき込む子どもにまじって、奥の方で浴衣がけで飯椀を手にする変な太ったオッサン、それが清水である。同じ膳につくスタッフの姿も見える中、清水の姿は孤児たちの父親というよりは、むしろ子どもたちの一員であるかのように見える。
嘘のある大人の演技にはない「空気を吸っている」ような子どもたちの動き。清水はそれが気にいったという。子どもたちの好き勝手な動きに合わせ、どんどん話をふくらませていく。さきに述べた感覚まかせの演出スタイルにも、演技の経験のない子どものほうがむしろ合っていたのだろう。しかも彼らの仲間として日々を過ごしている清水には、いかにカメラを回し、いかに話を組み立てればよいかも充分わかっていたに違いない。
そこから誕生した蜂の巣の子どもたちシリーズで、とくに興味深いのが3作目の『大仏さまと子供たち』(1952年)である(3)。東大寺や興福寺など奈良の寺院を舞台に、戦災孤児たちがさまざまな屈折を抱えながらたくましく生きる姿が描かれている。

「蜂の巣の子供たち」清水宏 /1948年 / 蜂の巣映画部
主人公は豊太と源治の浮浪児仲間。彼らは寺院の「私設観光ガイド」で日銭を稼ぐ。説明文は寺の小僧になった元の孤児仲間に習ったものだ。豊太は毎日、近隣の家々から流れる帰還者の尋ね人放送に耳をすませている。源治は古道具屋にある小さな仏像に親の姿を重ね合わせいつも眺めている。訪れる観光客は、戦争で果たせなかった新婚旅行の帰還兵、アメリカから来た二世の娘、源治の欲しがった仏像に亡くした子どもの姿をみる未亡人。誰の身の上にも戦後がまだ生々しく影を落とす、そんな人間模様を見守る奈良の仏たち。大仏さまの掌の上で眠りたいという豊太の夢はかなうだろうか……。
というようにストーリーは単純だが、清水の撮影は見事だ。映画が始まり、豊太が観光客を案内して説明を暗唱するシーンから、たちまち引き込まれてしまう。まるで映画の中の日常に加わるかのような気持ちでその声に耳を傾けたくなる。当時の評者たちはシナリオの構成や大人の描きかたに苦言を呈したというのだが、どうしてだろう。劇映画としては生々しすぎる、ということだろうか。
圧巻なのは、仏像の撮影である。清水は「どんなに巧い俳優も仏像にはかなわない、人間の演技は助監督に任せてもよいが、仏像の撮影は自分でなければ」といったそうだが、実際、仏像が映されるシーンでは、それまでの物語を脇へ放り出してしまうかのように、カメラがゆっくりと動きながら仏たちをとらえた映像が延々と流されるのだ。仏像や寺院の記録映画としてさえみることができるほどなのだ。
実は清水が子ども以上に興味を持っていたのが、仏像であった。敗戦前後の数年間、映画があまり撮れなかった時期の清水は、奈良や和歌山で仏像を見て歩いていたという。なぜ仏像に興味を持ったのかはわからないが(4)、この映画で仏像が映るシーンには、仏像を撮ることに対する執拗とさえいえる関心がうかがえる。
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子どもと仏像――それは、『筑豊のこどもたち』そして「古寺巡礼」で土門拳を土門拳たらしめた、重要な被写体でもある。
ザラ紙刷りの百円写真集という造本で、炭鉱合理化で閉山した筑豊の炭住に貧しく暮らす子どもたちの姿を、炭塵の感触までも伝えるかのような『筑豊のこどもたち』。それは写真の内容においてのみならず、メディアとしての訴求力においても(10万部以上売れ劇映画化もされた)、日本のドキュメンタリー写真における金字塔といっていい。また「古寺巡礼」は、写真家個人で同じ仏像寺社を撮り尽くせる者は絶無であろう量の充実もさることながら、明確な文化論と審美眼で構成された第一級のフォトルポルタージュ(土門自ら筆をとったテキストの豊富さ!)だという点でも不朽の傑作である。
しかしこの2つのシリーズを、私は素朴な感動だけで見ることがいまだにできないでいる。
『筑豊のこどもたち』より前から土門は、子ども写真のすぐれた撮り手として知られた。もともと子ども好きで有名で撮影に近所の子どもを連れ歩くので、子どもたちが家を出たまま戻らないと町内が騒ぎになったことがあったほどだ。が、戦後間もなく次女を事故で亡くしてしまう。そのショックの大きさは想像にあまりあるし、だからいっそう子どもの撮影に情熱を傾けたのだ、という想像も許されるだろう。
が、土門は初の写真集になるはずだった「江東のこどもたち」を、1950年代半ばの社会状況ではあまりに小市民的だと刊行を中止してしまう。「現実をより正しい方向へ振り向けようという抵抗の精神の写真的な発現」を主張したのがその数年前で、『筑豊のこどもたち』の刊行はその数年後。『筑豊のこどもたち』が有名なそのリアリズム写真論に欠けていた実作を得るためのものであることは間違いない。
たしかに『筑豊のこどもたち』は「現実をより正しい方向へ振り向けようという抵抗の精神」に充ちている。選ばれた場所とテーマももちろんだが、付されたキャプションのひとつひとつが、そのことを物語る。
しかし私には、出稼ぎで親たちが不在で、子どもが貧しさと寂しさの中に取り残されている、という告発よりも、大人の姿がないボタ山や炭住を自在に走り回り遊ぶ、子どもたちの王国、というようなイメージが見えてきて仕方がない。
当時、撮影メモとプリントを土門に渡されて構成いっさいを任されたのはデザイナーの亀倉雄作だが、そのことに気づいていたはずだ。なぜなら『筑豊のこどもたち』には、意外に子どもの写真が多くない。この写真集は、表紙の写真のしみるような表情が印象的で、閉山で父は失業し母は出稼ぎで不在という不幸を背負ってもいた「るみえちゃん」の存在がなければ、形にすることが困難だったのではないかと思える。逆にいえば、それがあったからこそ『筑豊のこどもたち』は完成したのだ。土門はニュースカメラマンではないが、ある程度はニュース性を持った写真でなければ社会性のある「リアリズム写真」だとはいいにくい。そのためには短期間で撮りあげ発表することも必然の要請である。『筑豊のこどもたち』の撮影期間は約2週間。うだうだ撮っていてもいい写真は撮れない、とはプロカメラマンの世界ではよくいわれることだが、子どもたちと同じ場所や同じ時間を「うだうだ」共有したことをそのまま投げ出すだけでは、写真集は作れない、ということでもある。
だが、本当にそうなのだろうか。絵になる子どもという被写体がなければ成立しえなかったと思われる傑作から、じつは意図的にそぎ落とされている「うだうだ」の時間。社会奉仕のためでなく、まして自分の映画のためにでもなく、浮浪児たちと浴衣がけで朝飯をかっ込む清水宏が、その子どもたちを撮った映画をみて、劇映画なのに厳しいリアリティをもって伝わってくる時代の重さと苦さを感じたあとでは、土門拳にとってなぜ「江東のこどもたち」でなく『筑豊のこどもたち』でなければならなかったのかということが、小市民性がどうだというようなことをはるかに超えた、重大な問題として認識されてくる。
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清水宏が『大仏さまと子供たち』で、話の進行を放り出したかのように延々と撮り続ける仏像――そのほとんどが東大寺にある、静謐なリアリティが特徴の天平仏であり、土門拳が好んで撮影した荒々しい作りの弘仁仏とは違っている。が、両者のタッチは面白いほど似ている。だからこそ私は清水の映画ですぐに土門の「古寺巡礼」を思い出したのである。
これは基本的には照明方法が似ているせいだろう。暗い堂の中の仏像を照らすのに土門は、シャッターを開いて写真電球を発光させることの繰り返しで光量を確保している。いっぽう清水は、アイランプを使っている(ライト持ちには出演の子どもたちもかりだされたそうだ)。どちらも、現在のように充分な光量が一発でうまく回るボックスタイプの面光源で照らすのと違い、手間もかかれば影のつきかたの調整も面倒だ。しかし、その面倒な影を複雑な陰影としていっそ残せば、仏像たちの姿は影に縁どられた神秘性を放ってもみえる。撮影作業をあまり情緒的に描写するのはよくないが、点光源でコツコツとフィルム上に刻んでいくことで「光の鑿」といわれた土門の撮りかたといい、子どもたちひとりひとりの手から発される光に包まれてカメラを回した清水といい、たんなるブツ撮りではすまない一種の儀式的なフェティシズムがあり、それが彼らの撮った仏像に生き生きとした輝きを与えてもいるのである。
なのに土門の「古寺巡礼」の場合、私はなぜ、美しさへの感動だけでみることができないできたのだろうか。
土門がたびたび主張している日本文化の独自性に文化ナショナリズム的な、つまり国粋的な色彩が強いために、土門が日本の美を撮った写真を受け入れがたいとする考えはすでにある。私も土門のいう、日本へ流入してきた文化が「日本列島という防波堤に遮られて、波瀾と曲折を繰り返しながらも、結局、この列島に沈静」(5)したというところまではともかく「醇化発酵させて、いわば上澄みとして」(5)の独自性を現出させたのだという主張にはとまどう。ただ、私の違和感はそのような言葉によるものだけではない。
「ぼくのカメラによる古寺巡礼は、昭和十五年五月に始まる」(5)
という土門は、こう書いている。
「最初にぼくの心をとらえたのは、弘仁時代の一木造の仏像だった。飛鳥、白鳳、天平と長い間、中国仏教文化の影響下にあった日本仏教文化が、漸く日本的なものを志向して自己変革を企てはじめた。いわば過渡期的ともいえる時代の仏像である。内部に鬱積するものを自然に流露させるに至らず、まるで怒っているみたいに苦渋な表情をたたえた弘仁彫刻は、それはそのまま、当時、戦争政策の進行とともに、戦争協力以外のすべての道を閉ざされた日本知識階級の表情とも受けとれた」(5)
戦時中に古寺・仏像や文楽に出会い、それらを見つめた土門はどうやら、当時の国策プロパガンダが高揚したよりも<ほんとうの日本>を発見してしまったらしい。土門には国威発揚のための写真メディアが力不足に思えたぶん、仏像や人形に逃避していると評されながら<ほんとうの写真>の力で<ほんとうの日本>のありかたを示そう、示せるはずだ、という意欲は強く持続していたはずだ。戦後土門が行った、写真の新たな芸術宣言とされるあのリアリズム写真運動(6)は、その意味で当初からむしろ社会運動そのものであった。だからこそ、運動には関心のないアマチュア写真家たちを鼓舞していたときよりも、そのお祭り騒ぎが終わって土門個人の<運動>となったとき、リアリズム写真論ははじめて『ヒロシマ』なり『筑豊のこどもたち』なり「古寺巡礼」シリーズなりに、写真として結実しえたのである。
そして土門拳の写真が、運動の視覚化という軌跡をそれ以降も描き続けていたとするならば、私は土門の写真家活動の出発点にあったいくつかの屈折について、考えずにはいられない。
もともと土門は画家志望であった。貧しさの中で画家の道をあきらめ、職を転々とした後、写真館の修業に入ったわけだが、仕事は下働きで、客を撮影することなどもちろんできなかった。仕事の合間に自分の写真を撮りたいと興味を持っても、カメラは親戚から無理に借り出した、素人が手軽に撮影するには不向きな大型のカメラだったのだ。土門に写真館の仕事を見つけてきたのは、自殺を考えるほど苦悩の日々を過ごしていた20代前半の土門に「絵が好きなら写真はどうか」とすすめた母である。なぜ、自殺を考えたのか。1932年、農民組合運動に興味を持ち、全農全国会議という左翼活動色の強い団体に書記見習いとして参加したが、検挙されて拷問を受け、たちまち転向した。その結果「暗澹たる絶望的な日々が続い」ていたのだった。
ちょうどこの時期は「いわばそれに先行するおよそ十年間の歴史の収斂過程であり、同じ意味で、それまでの社会主義運動が一つのサイクルを完了する時期であった」(7)。日本共産党の中枢にあった佐野学・鍋山貞親の転向声明が1933年、まさに<転向の時代>であり、「『不安』『頽廃』『転向』『喪失』が普遍的などすぐろさで人間性を蝕み始めた時期であった」(7)のだ。
「昭和初年にはジャーナリズムを風靡し、天下の青少年を傘下にした[社会主義]運動も昭和七八年ごろ青年の生活が最悪の失業状態を経験したとき、この青年のヒュマニズムに立った運動はじつに極端に頽廃化し、デスパレートとなり」(8)――ここで日本浪漫派を持ち出すのは牽強付会かもしれないが、橋川文三のいう、日本浪漫派の成立は「むしろ大正・昭和初年にかけての時代的状況に基盤を有するものであること、また、プロレタリア的インテリゲンチャの挫折感を媒介としながらも、もっと広汎な我国中間層の一般的失望・抑圧感覚に対応するものとして、その過程の全構造に関連しつつ形成されたものであるという観点を呈示したい」(7)という文脈に従えば、あながち的はずれな持ち出しかたでもなかろう。
土門の「古寺巡礼」は、戦時中から始まった息の長いライフワークだ。このテーマを選んだ理由はいくつかあるが、土門がもっとも早くから影響されていたのは和辻哲郎の『古寺巡礼』であり、中学生の頃に読み始めたらしい。かような名著と同じタイトルをわざわざ選んだことからしても、賛否いずれにせよ相当な影響を受け、あらためて自分自身の「古寺巡礼」を生み出そうと意気込んでのことだとはすぐに想像がつく。が、和辻の著書を読み返してみると、やや強引に日本の独自性に話を持っていこうとする運びが土門の発想と似ていると感じるほかは、むしろ地味で落ちついた寺院仏像訪問記であり、土門がこの本に熱狂的に影響されたり感情的に反発したとは到底思えず、さして読み返すこともせずにいた。
が、私はまったくうかつであった。
現在、岩波文庫で読める『古寺巡礼』は、和辻がかなり手を加えた戦後の改訂版で、土門が中学時代から青年期にかけて読んでいたのは大正八年刊の版である。このあたりの事情はいまの文庫版にも「改版序」として収録されているから、私の怠慢による勘違いだ。
改訂版における手直しの事情に細かくふれている余裕はないが、和辻によれば基本的には元のを「削る」方向での手直しである。そして文庫版の谷川徹三の解説にも、手直し前後の本文の一例があげられている。
ここでは、和辻が削った部分をあげておこう。
たとえば薬師寺の聖観音像を見たときの一文で、初版にあり改訂版で削られた部分はこうだ。
「全身を走る身ぶるい。心臓の異様な動悸。自分の息の出入がひどく不自然に感ぜられるような、妙に透徹した心持。すべてが無限の多様を蔵した単純のような、激しい流動を包んだ凝固のような、――とにかく云い現わせない感動であった。」
なんのことはない。「炎となって燃える」土門拳、「写真の鬼」の土門拳が、そのままそこにいるではないか。
画家の夢をあきらめ、倉庫係、三味線の内弟子、書生などを転々とし、左翼運動に挫折の果てに進んだ写真でようやく自己実現の端緒を見出していく20歳代前半の土門のうちに、すでにかようなロマンの叫びが響きわたっていたのなら、写真を撮ることで<ほんとうの日本>を見つけようとした土門の冷徹で峻厳な画面には、すでに感情の嵐が吹き荒れていたことになる。青年の<ヒュマニズム>が<デスパレート>の退廃に覆われたとき、<ほんとう>探しの行動は政治的な左右を問わずすべからく<デスパレート>に彩られた情緒的な美しさを追わずにはいないだろう。日本浪漫派が猖獗をきわめる昭和十年代、土門拳もまた、「いわば政治から疎外された革命感情の『美』へ向っての後退・噴出であり……デスパレートな飛躍」(7)を遂げんとしていたのだ。
ここで私が強調しておきたいのは、つぎのようなことである。日本浪漫派の難解な超ナショナリズムの言説は、そのツールが言語、というよりも文体自体であったがための難解さでもあり、だからこそ「いかれる」か「わからない」かの、ある幻影的な徒花たりえた、と逆説的にいうこともできるだろう。だが、土門のツールは写真、それも近代写真であった。近代写真とは何か。土門の考えに即していうならばつまり、写ったものはすべからく「リアル」であり、事物から叙情や情緒をはぎとり、事物の真実性そのものに依拠しようとする表現形態をいうのである。しかし、そのような了解を表現者と観覧者が事前にいささか楽天的に交わしてしまえる写真というツールによって表現されることで、<ほんとう>が持ついびつさ――とくにこの言葉が<日本>と結びつくとき、しばしば歪みがひどくなることはいうまでもないが――は、故意にか無意識にか、見落とされがちになる。カメラでしか捉ええない事物の真の姿、というような論理と見かけでもって写真が「『美』へ向っ」たとき、その社会的・政治的な旗幟がいかなるものであれ、あるいはそんなものはないと言われようと、私たち観覧者のとるべき態度は「『いかれる』のだけはよそう」でしかない。それ以外ないだろう。しかし私が怖れるのは、この文脈でいま私たちの周囲にある写真を見回したとき、そもそも私は写真など熱意を持って見る必要がどこにあるのだろうか、ということなのである。この問題はもはや、土門拳の青年期の<デスパレート>がその後の写真活動にもたらしたもの、などという指摘の周辺にとどまらないことはいうまでもないが、幸いにしてというべきか、私はこの問題に正面衝突するような写真にはこのところめったに出くわさない(もちろん広告やキャンペーンのための写真は別として)ように思う。だが、この問題を意識して写真が制作されているという話などついぞ聞いたことがないし、日本だの美だのというキーワードは、大多数の写真でほとんど何の検証もなくキャッチフレーズに使われているはずだ。むろん私は、そのような写真が業界的に高く評価されているような場合をいちいちモグラ叩きのようにケナして歩くつもりはないが、そうもしなければ代案も出せない私というのは、すでに写真をみることをある意味で<やめて>しまっているのかもしれないのだ……。
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さて、それにしても清水宏、なのである。
彼の映画をめぐる言葉で知られているのが「実写映画精神」というものだが、私はこのことを映像のリアリズムの問題、あるいは劇映画という存在と関連させて細かく調べたり考えたりはまだしていない。それから、上原謙が演じる乗合バスの運転手が主人公の『有りがたうさん』(1936年)で、バスが通り過ぎていくその背景にまさに<実写>のごとく現れて消える朝鮮人労働者の姿であるとか、そのシーンと関連して必ず思い出す、国策文化振興の一環で撮られたまさに植民地ドキュメントであるはずの『京城』(1940年)における、国威発揚という目的を無視するかのようにただ、走る車から延々と撮られた驚くべきまったくの<通過者>の視線など、みたときから気になっているがその意味を知らない映像が多々ある。ましてそのタッチにおいて、まるで土門拳の写真を動かしているかのように見える瞬間さえある『大仏さまと子供たち』。映像がもたらすものの意味とは、結局は撮影者の情緒に支配されてしまうだけのものなのだろうか……ここでは貴重な上映の機会を紹介しようとした肝心の清水宏の映画から、ずいぶん<写真のほうへ話がそれて>しまったが、私にはまだ多くを語る資格はない。今後機会があればさらに調べてみたいと思っている。
(1)http://www.filmex.net
(2)『婦人』(1948年6月号)――『映画読本 清水宏』(フィルムアート社/2000年)から引用、清水宏のエピソードなど、すべてこれを参考にした。
(3)蜂の巣映画。残念ながら「TOKYO FILMeX」では上映されない。シリーズで上映予定なのは第一作の『蜂の巣の子供たち』(蜂の巣映画・1948年)である。
(4)清水は1943年、その横暴と乱脈な女性関係を非難され松竹大船を追放される。形の上では松竹京都所属となるが、翌1944年は暮れのオムニバス作品『必勝歌』参加までは仏像を訪ね歩いてすごす。敗戦後まもなく松竹を辞し、映画界を去ったと噂された。その前後に浮浪児を集めている。
(5)『古寺巡礼 第一集』(美術出版社/1963年)
(6)1950年にアマチュア向けカメラ雑誌の読者コンテスト写真選評の場で始まる。当初は戦後の写真文化昂揚のためアマチュアを叱咤激励する芸術宣言だったが、1953年頃から「現実をより正しい方向へ振り向けよう」という表現が目立つようになる。土門によればそれは「本当はぼくはそのときに、社会主義リアリズムといいたかったんです」(『フォトアート』1965年12月号)という、政治的に左翼指向のものだった。いずれにせよ趣味で写真コンテストに応募するようなアマチュア読者たちが「ひいて」しまうのは当然で、長続きせず退潮の一歩をたどることになる。
(7)橋川文三『日本浪漫派批判序説』(講談社文芸文庫)
(8)保田與重郎『近代の終焉』…(7)から引用
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