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三島 靖 MISHIMA Yasushi

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22:南半球の春「III」−−瞑想のひまもない!

2003.10.02



 シドニー郊外で朝の散歩をしていると、床磨き剤のニオイがそこらじゅうから漂ってくる。週末を含めた私の短い秋の休暇が、春を迎えるシドニーでは大掃除の時期にあたったんだなと思っていたら、それがユーカリの香りなのであった。週末といえば、私の散歩コースから間もないボンダイ・ビーチでは、春ともなれば海に面したカフェで新聞を読むひとたちの姿が想像される。気の早い若者はもう泳ぎに出ているのかもしれない。
 きょうの朝刊(朝日新聞/03年9月26日)を、私も出勤前に読んだ。ただし通勤電車の中で。
 一面にはカラー写真がある。「メディアも標的」と題されたロイター通信社配信の写真だ。米NBCテレビが借り切っていたバグダッドのホテルで爆弾テロがあり、米兵が現場に到着したときの写真だという。自動小銃を持った兵士がトラックから飛び降りる瞬間の写真。瞬間といってなんの瞬間だかよくわからないが、こういう「瞬間的な」写真をいい写真というのだろうね。私もその昔、雑誌の誌面に使う写真を選ぶ仕事をしていたとき、写真に写っている人物の、手が上がっているからいい写真だの、足がどうなっているからいい写真だの、どっちを向いているからいい写真だの、とずいぶん教わった。もちろん全部忘れてしまったが。
「メディアも標的」という写真が付されているきょうの一面トップの記事は「自衛隊 年内イラク派遣 ――政府方針 米要請に応え転換」というものだ。記事の中に挿入された形のこの写真は正確には三面にある記事「米TV取材拠点爆発」につくものである。もちろんその断り書きもある。
 シドニーのだだっ広い部屋で読んでいたスーザン・ソンタグの『他者の苦痛へのまなざし』が、また思い出された。報道写真はキャプション(写真説明)ひとつで、まったく正反対の読みかたがされうる。写真には事実に即した正確なキャプションがついていなければならない――教科書調の当たり前さが不気味なほどの論理だ。写真というものはキャプションをつけたその時点で事実から切り離されたイコンとなる、とか、そもそも事実とは写真に撮りうるのか、とか、そんな議論の余地がないソンタグの主張――正すべき惨禍という事実は間違いなく存在する。体験した自分がそれを保証する。わずかにでも早くその状況を快方に向かわせるために、信頼するに足る事実の映像は、力を発揮するはずである……実際「メディアも標的」の写真にはなんの問題もない。撮影者・通信社が嘘を書いたのなら別だが、キャプションは状況の端的な説明になっているし、その写真が本来どの記事につくかも記してある。よしんば意図的に別の記事と組み合わされたからとて<報道関係者もテロに合うほど危険なところへ自衛隊が行くんだよ>という新聞紙面なのだ。ひねくれた見かたをするのは気がひける。
 が、「自衛隊 年内イラク派遣 ――政府方針 米要請に応え転換」というニュースがもたらしたほとんど絶望に近い怒りは、見れば見るほど実は奇妙に緊張感の薄い写真が、紙面のその場所にあるということのみで放つ瞬間的な目くらましの閃光によって、早くも私の記憶からうすれつつある。いや、もっと正確にいえば私はこれに似たことの積み重ねで毎日を生きていて、それで普通の市民だという顔をしているようなのだ。これはいったい、どういうことなのだろう。あのボードリヤールのことを、歯ブラシとエビアンでも持って実際に湾岸戦争に行ってみたらいい、と言ったエドワード・サイードが亡くなったニュースが同じ新聞にあったのは、何かの符合なのだろうか。
 私は季節が逆の場所にいて、すでに過ごした春と夏を追いかけている気分になっていた。もちろん新聞も読んでいなかった。だからというわけではないが、昔からわからないことのひとつが、きょうもまた突然に思い出されたのである。
 どうして新聞の第一面には、写真があるのだろう。それは、なければならないものなのか?

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