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三島 靖 MISHIMA Yasushi

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20:南半球の春 [I]
  
―― スーザン・ソンタグ『他者の苦痛へのまなざし』|*注|

2003.9.20

 余計なお世話かもしれないが、本書を読みながら私が作った要約を付しておく。全体は以下の九章からなっている。


|…1|
 まずソンタグは、ヴァージニア・ウルフの戦争の「見かた」をたどることから始める。
 ウルフはエッセイ『三ギニー』で、「ロンドンのある高名な弁護士」を相手に、「ある栄光、必然、満足」を戦いに見出す男とそうでない女の間には戦争の「見かた」に根本的な違いがあることを示し、「戦争の映像を眺めることによって、この『対話の難しさ』を考えましょう」と提案しているという。 『三ギニー』執筆時に起きていたスペイン戦争の写真をもとにウルフは、映像の伝える「恐怖と嫌悪」に対しては、戦争におけるジェンダーの問題にかかわらず、あらゆる者が等しくそれをくい止めなければならないと感じるはずだ、というのだ。
 そこでソンタグは、エルンスト・フリードリヒの写真集や、アベル・ガンスの映画をも例に引き(「お前たちの目をこの恐怖で満たすのだ! 戦争を食い止めるにはそれしかない!」)、戦争をめぐる映像がもたらす「恐怖と嫌悪」がいかなる力を持つか検討する。
 ソンタグの結論は明瞭だ。「恐怖と嫌悪」はむしろ「敵にたいする憎悪をかきたてるのに役立つ」場合がある。戦争をなくすことができるなどとは、たとえ平和主義者でも信じてはいない。いま可能なのは、とくに非人道的な特定の戦争を避ける試みでしかない。だとすれば、誰もが等しく「恐怖と嫌悪」を感じる戦争写真などあってはならない、戦争写真とは、つねに「誰が」「誰に」「何をしているか」という明確なメッセージとともに見られなければならないのだ。


|…2|
 そこでソンタグは、映像(とくに職業的フォトジャーナリストによってもたらされる写真)によって、どこかで起きている惨禍の苦しみを、その外側にいてどう認識すべきなのか検討する。機械による記録であるという客観性を持ちながら同時に個人的証言である写真、言い換えれば現実の一瞬の忠実なコピーであると同時にその現実についての解釈である写真。さらには、現実の証言であるという明証性においてはアマチュアとプロの熟練度差がほとんどなく、むしろ洗練されない表現のほうが本物らしい(ソンタグは二〇〇一年九月末にマンハッタンで開催された『市民が見つめた9・11写真展』を例にとる)という写真――この、ナイーブさへの評価においてあらゆる伝達表現(たとえば文学)よりもその衝撃性において鋭敏な写真――を認識するにあたり、ソンタグが強調するのは、写真に付された文字説明の正確さが必要だ、ということだ。
 ソンタグはさまざまな報道写真における文脈の変化を例にあげている。
「写真家の意図が写真の意味を決定するのではなく、写真にはそれ自体のキャリアがあって、その写真を利用する多様な共同体の気まぐれや忠誠心に翻弄されるのである」*
*原文は以下のとおり。  

The photographer's intentions do not determine the meaning of the photograph, which will have its own career, blown by the whims and loyalties of the diverse communities that have use for it.
 したがって「写真にはそれ自体のキャリア」とは、先験的に写真に存在する何かではなく、写真が使われる結果生じる「経歴」のことである。

|…3|
 ここでソンタグは、苦しみをめぐる図像の系譜をたどる。かつて苦しみを図像で見るという行為は、裸体の図像を見たいという欲望と同じか、でなければ、苦しみを正視できず拒否する、ということでしかなかった。
 かようなイメージの歴史の中で「見る者を目覚めさせ、衝撃を与え、傷つけることを意図」して悲しみの感情の転換点をもたらしたのはゴヤの銅版画連作「戦争の惨禍」である。それはもちろんT作られた”ものだ。が、戦争の惨禍が“起こったのだ”と主張するひとつの「総合」である、とソンタグはいうのである。
 さらにソンタグはフェントンやベアト、ブレイディから、ローゼンソールの硫黄島の星条旗までの戦争写真の系譜をもたどりながら、それらがすべて、原則として本物ではない(演出による)ことを思い起こさせる。ただし、ベトナム戦争以降、ドラマチックな報道写真を見たいという欲望のために、逆に演出する慣習は消えつつあるのではないか、という。


| …4|
 したがって「死の瞬間を捉え、それをいつまでも記憶にとどめさせること」ができるというカメラの機能それ自体によって、死の瞬間をめぐる戦争写真はもっとも注目される。たとえばエディ・アダムズのベトナムの兵士が撃たれて処刑される瞬間の写真。
 しかし、写真は「その恐ろしい鮮明さ」のために二重の問題を抱え込む。ひとつは、よりリアリティを求める要求によってやはり演出が行われがちになる、という問題。もうひとつは惨禍に巻き込まれた被写体やその関係者の人権擁護のための、自己規制を含めた検閲の問題である(誰も、自分の家族が殺されている瞬間を繰り返し見たくはない)。とりわけ後者は、結果として悲惨さを伝えようとする報道写真が“遠い場所のもの”、つまり低開発国の人びとを見世物にし続けるという「慣習」を継承してしまうことにつながった、とソンタグは批判する。


| …5|
 悲劇の映像が“美しい”ことについて、また「スペクタクル」である、ということについて、ソンタグは考える。
 ことにセバスチャン・サルガドの「EXILES」について、ソンタグは一定の批判を加える。つまり、無名の人々の悲劇をあまりにも巨大に表現することによって、その悲劇における現実的な政治性を抽象化し、同情をも抽象化してしまう問題があるというのだ。
 たしかに映像のスペクタクル的要素は、西欧史の多くの部分で“苦しみ”を人びとに理解させてきた。したがって現代の報道写真の傑作の多くにキリスト教宗教画的な構成が見出されるのも不自然ではない。しかし現代では、宗教画そのものから何かを読み出せる者じたいが少なくなっている。悲劇の映像のスペクタクル化のよしあしを議論するまでもなく、そのことには有効性がなくなりつつあるのだ。


|…6|
 ここでソンタグは「残忍な行為や犯罪を記録した写真を見る」側の動機を考えてみる必要がある、という。
 そこには理性と欲望の葛藤、正義の義務と性的窃視欲の混在がある。その一方で写真がもたらす他者の苦しみを多くの人びとは拒否しようとする。「同情は不安定な感情で、行為に移し変えられないかぎり、萎れてしまう」。同情を感じることは、実はそれを感じる者の無罪を主張することであり、それだけでは無責任である。同情すべき他者の苦しみの上にわれわれの特権があるかもしれないという「洞察こそが課題であり、心をかき乱す苦痛の映像はそのための導火線にすぎない」


|…7|
 事実は写真に撮られることによって現実となる、さらに繰り返し見られることによって、次第に現実性を失っていく、というおなじみの『写真論』でかつて自分が展開した論を、ここでソンタグは再検討する。
 今回ソンタグは、現実に反応する能力の低下をいう前に、現実に反応する感度を擁護したいと述べる。たとえば写真によって弱められてしまう、という議論の外側に、「現実」はあくまでも存在している、という。むろんこれに対してはボードリヤール的なシミュレーションによって現実の不在をいう議論があることはいうまでもない。しかしソンタグはそのような「現実の死」に対して激しく警鐘を鳴らすのである。悲惨さの上にいるから享受できる特権を駆使できる知識人に、危険から離れて悲惨さに対する誠実さを冷笑する資格はない、というのである。


|…8|
 したがって、すでに存在している映像の膨大な蓄積は、決して無力ではない。たとえそれが、現実への完全な言及ではなくとも、悪の存在を記憶させ、道徳的欠陥を存在させにくくする一定の機能はあるはずだ。ただし、記憶が明瞭すぎると、たとえば世界の主な歴史的紛争がそうであるように、平和をもたらしにくくなる(強すぎる惨禍の記憶は際限のない報復につながる)ことも事実だが。
「映像は、距離を置いた地点から苦しみを眺める方法であるという理由で非難を受けてきた」。しかし、すぐそばで眺めたとしても、眺めるという以上は同じことだ。
「写真が提供する抽象化された現実には道徳的に是認できないものがある。人間は他者の苦しみを、距離を置いた地点から生々しさをそぎ落としたかたちで経験する権利はなく、従来賞賛されてきた、視覚の持つすばらしい性質にたいしてあまりに大きな人間的(ないし道徳的)代価――世界の中の攻撃や侵略から一歩退き、そのために観察をして選択したものにのみ注意を向けることが可能だという――を支払っている。しかしこれは知性そのものの機能を言い換えているに過ぎない。
 一歩退いて考えることはなんら間違っていない。何人かの賢者のことばをパラフレーズするならば、『誰かを殴るという行為はその行為について考えることと両立しない』」*
*原文は以下の通り。

 It is felt that there is something morally wrong with the abstract of reality offered by photography; that one has no right to experience the suffering of others at a distance, denuded of its raw power; that we pay too high a human (or moral) price for those hitherto admired qualities of vision -- the standing back from the aggressiveness of the world which frees us for observation and for elective attention. But this is only to describe the
function of the mind itself.
 There's nothing wrong with standing back and thinking. To paraphrase several sages: "Nobody can think and hit someone at the same time."

   この文でソンタグは「〜のように感じられる」とわざわざ言っている。したがって最初の一文は「写真が提供する抽象化された現実には道徳的な問題があるように感じられる(が、それは問題ではない)」ということになる。
 また後半は、あえて私が訳すとするなら、
「実際の世界の危険さから一歩ひいていられるので、興味のあることだけを選んで注意を向けられ、観察者でいられる、という、いまのところは認められているものの見え方の特性に、人間的・道徳的価値を置きすぎているとも思われる。しかし、これは知性の機能そのものの説明にほかならない。
 したがって、一歩退いて、そして考える、ということには何の問題もない。賢者たちの言葉をもじっていうならば、“誰も考えながら同時に他者を打つことはできない。”のだから」
 なお「訳者あとがき」ではこの部分の最後の一文について、
『「誰かを殴るという行為はその行為について考えることと両立しない」(――九頁)は、「他者の苦痛を救おうとする行為は、他者の苦痛を撮る行為と両立しない」とも言い換えられるだろう。』
 と書かれている。
 ソンタグの場合、私の要約も当然そうなっているが、前章で次章の伏線をはりながら持論を展開する、という書き方をとっている。であるならば、この一文は最終章の、写真を見るための「瞑想的空間」や、ジェフ・ウォールの作品の前に立たされて、観覧者のまなざしさえ求められていない惨禍の絵画的映像について、どういう態度をとるべきか、という問題にもつながる一文だろう。すくなくともここでソンタグが言っていることは、「見る」「考える」「行動する」という問題の関係性についてであって、「撮る」行為についてではない。
 念のためだが、私の英語力などしれたもので、英語に自信があれば最初から原著を読む。邦訳のアラ探しをするつもりではまったくない。

|…9|
 ならば、苦しみを象徴する写真が、現実感覚を深めるために力を発揮するためには、個人が写真と向かい合う「瞑想的空間」が必要なのではないか、というのがソンタグの主張である。美術館や広告や雑誌など、「写真が広範囲に流布されている」なかで「畏敬を持って眺め、それを十二分に受けとめる環境が保証されていない」ことが、写真の重みと深刻さを失わせてしまうのだ。
 そこでソンタグは最後に、映像ないし一群の映像が、人を戦争反対に導きうるかどうか、検討する。
 1点の写真映像としてもっともすぐれているのは、ジェフ・ウォールの「死せる兵士たちの対話」(92年)だと、ソンタグはいう。
 いうまでもなくウォールの「写真」は、スタジオやオープンセットで作った状況を撮影したものだ。この作品も86年冬のアフガニスタンで、偵察中に待ち伏せ攻撃を受けたソ連兵が、殺された「あとの幻影」である。兵士たちはたがいに語らい、なごやかな雰囲気だが、みな傷つき血にまみれて「死んで」いる。略奪に襲いかかるアフガニスタン兵の姿にも気づかないまま。侵略的行為の“代償”として皆殺しにされた兵士たちは、自分たち以外の何にも関心を示していない。「彼らがわれわれのまなざしを求める必要がどこにあろう」。
 戦争がどれほど恐ろしいものか、ということは、なんらかの形でその渦中にあった者以外には、決してわからないのである。

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