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三島 靖 MISHIMA Yasushi

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20:南半球の春 [I]
   ―― スーザン・ソンタグ『他者の苦痛へのまなざし』

2003.9.25


 スーザン・ソンタグの「最新の写真論」である『他者の苦痛へのまなざし』が刊行されている(みすず書房)。
 ことし2月に原著が出て、7月早々に邦訳が出た。さきごろ私も読み終えた。
『写真論』の冒頭で、あのプラトンの洞窟の比喩の巧妙なパラフレーズで、お手並み拝見を決め込む読者には門前払いをくらわせたソンタグは、さらに行動的な現実主義者となり、他者の苦痛を惨禍から離れた場所で映像によって眺め、同情を口にする“良心的”な読者をさえ厳しく批判する。そこでは、かつて包囲されたサラエボに滞在した経験がものをいっていることはいうまでもないが、奇妙なことにかつて『写真論』で行った、写真に撮られることによって現実は現実となると同時に、繰り返し写真を見せられることによってその現実性はしだいに弱まっていく、という主張には、現実の惨禍を現場で体感し映像による啓蒙の限界を再確認したであろう後にもかかわらず、微妙に修正を加えている。
 本書でソンタグは、戦争写真のおもな歴史をていねいにたどり、時代とともに進歩するカメラやメディアの機能的な面から、それぞれの時代における典型的な戦争映像の特徴と内実について検討を加えている。そこから導き出される、惨禍を伝えるドキュメント写真のかかえる問題と限界の指摘はきわめて論理的で、一定の説得力を持っている。たとえばソンタグは本書で、セバスチャン・サルガドの『EXILES』に対して、その仕事が世界的な偉業であればあるほど、そこで示される苦しみがあまりに巨大だというイメージを与えてしまい、地域的な政治介入による解決策など無意味だという一種のニヒリズムをもたらすのではないか、という批判を行っているが、この論理には確かに一理ある。写真を見て、同情するだけではだめなのだ。同情は、写真を見ている者がその無罪を主張する心の動きに過ぎない。苦痛の映像を見て心がかき乱されたならば、それを“行動”に移し変えなければならないのだ。
 ところがこのように、緊急の行動力をもっとも重んじて、写真を見て心理的に反応するだけの行為に鋭く明確な批判を行っておきながら、なぜかソンタグは当の写真を微温的に擁護するのだ。その態度はソンタグらしからぬ明証性を欠いた情緒的なもので、そのために本書はその短さと簡潔さにもかかわらず、かなり読みにくい。たとえば、すでに世界の悲惨さを撮ったと称する写真は膨大な蓄積となっているが、それらは現実に対する完全な言及ではないものの、悪の存在を記憶させ、道徳的欠陥を存在させにくくする一定の効能はある、というのだ。
 ソンタグが主張しているのは、まさに原著タイトルがいう「REGARDING PAIN OF OTHERS」――他者の苦痛へのたんなる「まなざし」への批判である。つまりソンタグが書いているように、悲惨さの上に自分が存在しているからこそ悲惨さにたいして「まなざし」が持てるにすぎないのだ、という特権を認識した上で“行動”につながるような「REGARDING」、すなわち「うけとめ」の視線が必要だ、ということであろう。
 であるなら、たとえ惨禍の現場に立ち会っていてもそれを眺めるだけでは、遠く離れた場所で映像によってそれを眺めるのと同じことだとまでいっていながら、写真を見ることもひとつのきっかけにはなる、というのはどういうことだろう。
 しかも、その文脈をうけた最終章でソンタグは、さまざまな映像が人びとを戦争反対に導きうるかどうかということを考えたとき、1点の写真映像としてもっともすぐれているのは、ジェフ・ウォールの「死せる兵士たちの対話」だというのである。もちろんそれは戦争報道写真ではない。どちらかといえば絵画、本文中にも出てくるゴヤの版画に近いものだ。しかもソンタグがこの作品に見い出した価値は、ゴヤの版画のように「かつて、それがあった」を、写真にはできない総合的な「描き」によって伝える機能にあるのではない。「悪の存在を記憶させ、道徳的欠陥を存在させにくくする」というよりも、戦争の惨禍というものがいかなるものなのかは、それを映像で見る者にはまったく理解できないことを実感させる点において価値がある、そうソンタグは主張しているとしか思えない。ウォールの作品の中で、身体を吹き飛ばされて死んでいるにもかかわらずそのことにまったく無関心に歓談している兵士たちの姿が、惨禍とは、現場でそれを実感し、その救済のために行動しようとする者にしか理解できないことを見る者に暗示している、ということだ。
 本書でソンタグが写真や映像に対して述べるひとつひとつの論理は、平明で反論の余地がなく思える。だが、それらの連鎖がひとつの「写真論」に結ばれる気配がない。そういっていい過ぎでなければ、どこか“周回遅れ”の論理を並べた上に一種の循環論に陥っている印象すらある。
 ただ、このことはソンタグひとりの罪ではないだろう。惨禍の写真が世界から惨禍をなくすことができるか。この命題は本書を待つまでもなく必ず循環論に陥り、陥っている間に“周回遅れ”になってしまうという宿命を持っているからだ。
 だとすればソンタグがあの『写真論』に続いて本書で示そうとした明晰さは、たとえ限定的であれ痛みを伴いこそすれ、状況に「緩解」をもたらす、strong medicine(新薬)を発見することだったに違いない。私たちは知っている。ユーゴ紛争をその現場で体験したソンタグが求めた「新薬」とは、ソンタグいうところの“戦争のルールを守った暴力”すなわちNATOによるセルビア空爆であったことを。本書でソンタグは書いている。人間がなんとか生きていくためには、人間はこのように怖ろしいことをするのだという記憶も大切だが、あまりにも強い不正の記憶は際限ない報復につながってしまう。和睦のためには記憶はある程度は限定的である必要があると。ならば、状況を緩解させるための第三者による限定的な「戦争」は、はたして禍根を残さないのだろうか。
 「まなざし」の周辺を低回するだけの私たちに、このような批判をなげかける資格はないのかもしれない。私は、戦争の惨禍を理解するために戦争写真などいっさい必要ないと書いたことがある。戦場とは、人が人を殺している場所である。人には二種類ある。人を殺した人間と、人を殺していない人間である。そのどちらになるか決めるときに、写真の力を借りたという話を、私は聞かない。
 しかし、もちろん写真などいらないからそのかわり薬をくれ、といわれたら、いまの私に即効性のある薬の持ち合わせがないこともまた、事実なのである。

*注

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