「オマケ」の話をしよう。
仕事柄、ときどきカメラ店を覗いて歩かねばならない。おもに量販店のカメラ売り場 でどんなカメラが人気で売れているのか眺めてくることが多いが、たまに中古カメラ店
も見る。
最近、とある中古カメラ店のニコンカメラのショーケースに「非売品」と書かれた小 さな小さなニコンFが展示されているのを見つけた。このウェブサイトをご覧になるか
たにはご存じのむきも多いかと思うが、「タイムスリップグリコ」というキャラメルについているオマケのひとつで、この秋頃から出回っているものである
(1)。「グリコのオマケ」といえばほとんど国民的認識といってもよかろうが、「タイムスリップ」というのは江崎グリコがやや大人向けの企画商品として、昔のクルマや電化製品など懐かしい
商品の精巧なミニチュアをオマケにつけているものである。精巧といったが、このオマ ケのニコンFのつくりもまことに巧妙で、あのパラボラアンテナ型のコンパクトフラッシュガンもちゃんと装着できるようになっている。
話がそれるが、このおわん型に反射板を広げて使うフラッシュは、カメラそのものよりも私の子どもの頃の記憶に強く残っている。いまではレンズ付きフィルムにさえ繰り返し発光するストロボが内蔵されているから想像しにくいだろうが、パラボラ型のフラッシュガンの場合、ワンカット発光させるたびに電球を取り替えたのである。シャッタ
ーをカチャッ、フラッシュがピカッ、フラッシュガンの押しボタンを押すと使用済み電球がポンと飛び出す、そういう手順だ。飛び出した電球が、うっかりさわるとヤケドす
るほど熱いというのを知った当時の私は叫びたくなったものだ。「うわっ、カメラの中で写真が焼けとる!」。
まったく悠長な話だが、写真を撮ることというのは、かつてはそのような非連続性のうちにあったのだ。その面倒な手順で速写できることは当時のプロの重要な専売特許だったろうが、速写という技は非連続性という撮影の仕組みそのものを変えはしない。これはシャッターを押すだけで高速連続撮影が可能になっている現在
(2)でも基本的には変わらないから、逆にいえば出てきた写真についてよく使われる「並び」だとか「つながり」だとかというような編集上の議論は、実はほとんどポーズだけ(写真にはもともとなんのストーリー性も連続性もない)だということでもある。
さてオマケのニコンFだが、近年、精巧な動物のミニチュアが入った「チョコエッ グ」というお菓子が爆発的なヒットを記録して、それまで博覧会のジオラマなどを作っていた製作担当の模型会社が一躍脚光を浴び(ちなみにクラシックグリコのオマケもこ
の会社の制作だ)、以後さまざまなオマケつきお菓子が登場しているのである。こうなると主眼はいかにウケるミニチュアを売るかということになってくる。ミニチュアにお
菓子を「オマケ」するという発想をすれば、おもちゃ店でなくコンビニエンスストアの食品売り場で販売できる。かつてお菓子のオマケを楽しんだ勤め帰りのサラリーマン世
代をバッチリ狙えるわけだ。ここでは本体とオマケの地位が逆転している。事実、ネットオークションなどでオマケのミニチュアニコンFはすでに千円前後で売買されているが、本体のキャラメル(定価二百円)がオークションされているという話はどこにもない。
オマケと本体の逆転は、この話題に限ったことではない。出版の世界、とくに雑誌の分野では、付録でパンパンに太り、紐をかけて書店にならんでいた70年代の少年少女誌は私の記憶にはまだ新しい。別刷りの付録をはさみ込んで紐かけをするのは書店の仕事
なので、学年誌という子ども雑誌分野の退潮とともに、売り場の作業が面倒な付録つき雑誌も多くはなくなっていったようだ。ところが最近また、付録つき雑誌が目立つよう
になっている。それも露骨にオマケの魅力で本体を買わせようというものが多い。女性はご存じだろうが、その昔、総合女性誌の新年号にはさみこまれていた「家計簿」に代わったのはブランドのポーチや香水のサンプルである。しかも雑誌本体よりオマケのほうが大きい場合もある。雑誌のほうが「オマケ」なのだ、といってもいい。
それはそれとして、昨今カメラ雑誌を編集していてもっとも複雑な気分になるのは、写真を使った「オマケ」を作る仕事をしているときである。このところは携わる機会がないが、たとえば新年号の付録用に写真カレンダーを制作する、というような作業である。
誤解のないようにいっておくが、それをクズ仕事だとか、そこで使う写真がクズだと いたいのではない。逆に、進んでオマケに本体をくってしまわせるような、一種の小型写真集のような位置づけを試みた例を見たこともあるし、オマケが客寄せになって雑誌
が1部でもよけいに売れるならありがたいというのがいまの私の気持ちなのであって、 それに偽りはない。もっとも、そんな断り書きめいたことまで書かずにはいられないと
ころがとっくに病んでいる、といわれればそれまでだが。
雑誌そのものの誌面に載せようがオマケにつけようが、写真は写真である。写真の非連続性というようなことをいっておきながら、その置き場所に優劣をつけるのもおかしいだろう。それはいいのだ。私が「オマケの仕事」に感じる複雑な気分は、もう少しメタフォリカルなものだ。
つまり写真は、はたしてただ写真としての写真であったことがあるのだろうか。とく に他者の視線が写真に注がれることが前提になったとき、写真は本当に「ただの写真」としてその場に置かれているのだろうか。
写真は、絵画の「オマケ」であり、物語の「オマケ」であり、概念の「オマケ」であり、主体性の「オマケ」であり、そしていまや「オマケ」の「オマケ」になりつつあるのではないか。
このような雑駁な疑問の投げ出しかたに反論があることは承知している。しかし、写真がこれまでにしばしば「写真に帰れ」というようなことを叫ばざるを得なかったのは、どこかオマケっぽいありようのなかで生きてきた写真のもの悲しさの表明でもあるかのように、私には思えてくるのだ。
「オマケの人生」という表現がある。絶望的状況を乗り切って枯淡の境地にいる男が、 再び生死を賭す行為に出るようなハードボイルドな設定で使われたりする、いささか情緒的なあれだが、いまの私としては、いつか韜晦でない恬淡とした心情で「オマケの写真」という言葉を使ってみたい、そういう写真をガッついた他者の視線とやらの中に差し出してみたい、そんな気持ちなのだ。
中古カメラ店のショーケースの中で、歴史的名機とされる「本物」のニコンFと並んだ「オマケ」のニコンF。私の目には両者の違いが、だんだんわからなくなってくるのである。