
「赦しの代価」マンスール・ワデ監督/01年/セネガル
「アフリカ映画」をご覧になったことがあるだろうか。
10月5日から20日まで東京都写真美術館で、アフリカ映画の古典的作品から最新の作品までが上映される「東京アフリカ映画祭2002」が開催される。(1)
この映画祭は、今回が第6回目の開催となる。ただ84年の第1回以降、4〜5年に1回というペースだったため、やや認知度は低かったかもしれない。私も本格的に見るのは今回が初めてである。
今回は前回の00年を機にビエンナーレ形式にスピードアップしての開催である。前回25本だった上映作品も、長短編あわせて約40本を上映予定と、作品数もいちだんと多くなっている。このため作品テーマによる集中上映や、アフリカ系の人たちの多いカリブ地域の映画を初めて「アフリカン・カリビアン・ムービーズ」という特集ブロックで上映するなど、見やすい企画内容になっているようだ。アフリカからゲストを招いたレクチャーなどの予定も立てているという。これまで映画など制作されたことがなかったと思われる国の作品も上映するそうなので、興味がある。
私はといえば、アフリカ大陸に現在何カ国あるかも知らないほどで、国ごとの事情もさまざまに異なるなか、映画というメディアがどのような存在であるのかということも含めて皆目見当がつかなかったのだが、映画祭実行委員会の事務局長・白石顕二さんにお話をうかがうなどして、アフリカと映画について、おおざっぱなところを知ることができた。
アフリカでは、映画そのものは各地が植民地化された当時から持ち込まれ上映されていた。が、当時の欧米で撮られた映画に登場するアフリカは、もちろん冒険活劇などの舞台としてでしかなく、アフリカ人は〈残酷な原住民〉か〈忠義な下僕〉として現れるに過ぎなかったことはいうまでもない。
アフリカ人の手で撮られた映画が登場するには、60年代のアフリカ諸国独立の動きを待たねばならない。パリの高等映画学院で学んだセネガルのポラン・スマヌ・ヴィエラ監督を筆頭として、フランスやベルギーなど旧宗主国で映画製作を学んだ映画人たちが生まれるようになり、アフリカ人による映画製作数はそれ以降飛躍的に増えるのである。
この構造は現代に至るまで続いている。いま、アフリカ映画の中軸となっているのが、フランス語圏の西アフリカ諸国(セネガル、マリなど。北部のアルジェリアやモロッコなどマグレブ地域も映画製作ではこの系列に入る)であり、それに拮抗するのが南アフリカ共和国をトップとする南部アフリカ地域だそうだ。
フランス語圏では、ミッテラン時代のフランス政府の文化政策ともあいまって、アフリカ人製作者とフランス人現場スタッフの共同作業で映画が作られるシステムが完成しており、製作計画から配給までを含めたプロダクションシステムがとられている(これはフランスの映画関係者への仕事の供給源にもなっており、逆にフランス側がフランス語圏諸国の映画制作を独占する仕組みとなっている)。
また南アフリカ共和国では、白人支配下で多くの映画や撮影技術が持ち込まれていたために、映画のインフラストラクチャーが豊かで、もともと技術的水準も高かったのだという。人種隔離政策が廃された90年代半ば以降、外国で映画を学んでいたアフリカ人も帰国して自国で製作を行うようになり、新人監督も自国から巣立つようになってきた。ハリウッド映画の興行をとりしきるエンタテインメント大企業も出現し、アフリカ映画への波及効果も期待されている、という状況のようだ(ただしその他の英語圏諸国、ナイジェリア、ガーナなどでは映画がなかなか撮れない状態だという)。(2)
むろん、アフリカの映画人たちの本音を待つまでもなく、この構造に問題がないとはいえないだろう。旧宗主国に学び、その資本と技術の手助けを受けながら、いかに母国ないしはアフリカ独自の映画史をうみ出していくか。タダでは撮れないのが映画である。35ミリフィルムの劇映画を1本作るだけで、たちまち大変なおカネが飛んでいってしまう。だからといって、初めから多数の配給先を期待して母語でない英語のセリフで自国の伝統や歴史を撮ったりすれば、結果としてその作品はどれも〈観光案内映画〉になってしまう危険が大きい。
ただ、今回わずかな数ではあるが作品の一部に目を通した印象では、どの作品からもいい意味での「タフネス」がぐいぐい伝わってきた。映画における表現の自由の制限が、中東諸国や中国に比べるとさほど厳しくない、ということも追い風になっているのだろう。むろん、製作者のモチベーションのあまりに素朴な発露は、ときに幼稚だというそしりをまぬがれないだろうが、厳しい製作事情の中でも映画を撮り続けたいという意志が韜晦に走らないアピールとなって現れている映像作品は、爽快だとさえ感じられる。その一方で映画に描かれるテーマも、「アフリカの」文化や民族や伝統ナショナリズムであるとか、不平等や弾圧という社会体制の矛盾を描こうとするものばかりではなく、私たちがアフリカという場所をまったく知らずして見たとしても、決して〈観光案内映画〉ではない、日常感覚として刺激されるテーマも数多く撮られているのだ。
このようなアフリカ映画の同時代を追うには、少なくともかような多様性を一堂に会して俯瞰できる機会が必要だろう。幸いにしてブルキナファソ共和国の首都ワガドゥグで奇数年ごとに開催される「ワガドゥグ全アフリカ映画祭」(通称フェスパコ)が69年の初回以来、15回の歴史をもって継続している。約1か月の期間中に数千人が訪れるこの映画祭、小国ブルキナファソにとっては格好の観光イベントでもあり、大国が仕切らないということで、アフリカの「多様性」がこの映画祭にさほどの摩擦もなく集まることができた、という事情もあるようだ。この映画祭での公開作品数150本前後というのは多いようにも思えるが、短編やテレビ番組も含められていて、一国の自国制作長編映画が年に1〜2本という実状を考えると、決して多い数ではない。逆にいえば「東京アフリカ映画祭」では、期間中に相当な割合のアフリカ映画に接することができる、というわけだ。そこで、私が見ることができた作品を簡単に紹介してみようと思う。どれもまったくテーマや作風の違うものだ。いちど見はじめると、違う国、違うテーマのものを見たいと、どんどんはまり込んでしまうのが、アフリカ映画の「呪術的魅力」といったら、いい過ぎだろうか。
「モブツ −ザイールの王−」
MOBUTU KING OF ZAIRE
チェリー・ミッシェル監督/ベルギー/99年

60年の独立以降、大国間の冷戦の「実戦地」として翻弄されたコンゴ民主共和国(ザイール)を舞台に、CIAに支援されて独立初代首相の殺害後30年間同国を支配したモブツ(30〜97)の巧妙かつ残忍な権力維持システムを明るみに出すドキュメンタリー。旧宗主国のベルギーや、先代ブッシュ米大統領への追従ぶりや、反政府学生運動が起こるやいなや大学そのものを破壊し全学生を強制的に軍隊へ入隊させる(!)などの行動が、ニュースフィルムの丹念な発掘と編集で再現される。空の雲の間からモブツが現れるという画像をテレビで流し続けるというプロパガンダを行った結果、国民の間にモブツを本当の神だと信じる世代が生まれたことにも驚かされる。90年代後半以降、内戦が続くコンゴではこのような作品の制作はとうてい無理だろう。ベルギーのドキュメンタリーフィルムである。なお、モブツに暗殺されたとされる初代コンゴ大統領、ルムンバを描いた劇映画「ルムンバ」(ラウル・ペック監督/ハイチ/00年)が上映されるほか、「コンゴ現代史」特集と銘うってその他の作品も上映される。
「あなたのために私は歌う」
I'LL SING FOR YOU
ジャック・サラシン監督/フランス・マリ/01年
棚から埃だらけのハッセルブラッドを取り出し、チリを払うマリの老写真家。彼が撮っていたのは60年代のマリでもっとも人気のあったミュージシャンだった。アメリカ映画「暴力教室」から流れる「ロック・アラウンド・ザ・クロック」に熱狂したマリの若者たちの気分をエレキギターでつかんだその男は、なぜ消えていったのか……当初はバーでのポップスの演奏を認めるが、だんだん禁じるようになっていく政府の意図は……伝説のミュージシャンの記憶と歌声を追う、静かなドキュメントフィルム。
「暴君アダンガマン」
ADANGGAMAN
ロジャー・ニョアン・ムバラ監督/コートジボアール/00年
17世紀末の西アフリカが舞台の史劇映画。「平和と静穏のために」族長の父に結婚相手を決められたオッセイは、自由のために村を逃げ出す。しかしそのすきに奴隷仲介業者の暴君アダンガマンの部隊に村は襲われてしまう。奪われた母のかわりに奴隷になると申し出るオッセイを見つめる、部隊の女戦士ナカ。自由に生きることを求める、オッセイのその後の運命は……。
「ママ・アフリカ」シリーズ
MAMA AFRICA
イングリッド・シンクレアほか/ジンバブエ/01年
ジンバブエのプロデューサーの制作により、六人のアフリカ人女性監督が撮った短編映画(各26分)を集めた作品。夫と妻、母と子、現代アフリカ各国の点景が、ときにはユーモラスに、ときには暗膽と描き出される。とくに現代アフリカの都市で荒れる子どもたちの姿を描いた作品群には目を奪われた。ナミビアのコギャルの遊興と失楽(!)を描いた「ウノの世界」、バスケットボールのプロ選手にスカウトされるためには靴がなく、シューズ欲しさにギャングたちに取り込まれていく少年を描いたナイジェリアの「停止時間」、麻薬がらみの事件を起こして五年間服役したのち、実家へ戻ってきた若い母親の苦悩を描いた南アフリカの「ラヤの世界」など。