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写真集『carnation』(1)の撮影者、関美比古は、当時新聞などでも伝えられたように、01年3月にポーランド北東部で乗ったバスとトラックの衝突事故にあって亡くなっている。70年生まれなので30歳での早世である。私は一面識もなく、またこのタイトルの作品シリーズを98年には始めていたそうだが、その頃に彼の作品と意識して見た記憶もない。
事故にあった旅もやはり「carnation」シリーズに紙枚を加えるべく向かった撮影旅行だったとのことで、製作途上での死を惜しむ人たちによって会が作られ、死後1年の刊行をめざして写真集が作られることになった。目標どおりそれが完成し、本人とはとくに縁がなかったが趣意に賛同する気持ちでごくわずかな額を届けた私のもとにも丁寧に送られてきたのが、写真集『carnation』である。
彼の写真を初めてそれと意識して見たのは、01年5月に東京・新宿のギャラリーで開かれた写真展「carnation」でだったと思う。記憶に間違いがなければ、会場には写真集刊行の会を作る旨を知らせる告知とともに、彼が過去に行った写真展の案内ハガキが何種類か置かれていて、それを持ち帰ってあらためて見たはずだ。
いずれにせよ、それらの写真の撮影者が非凡な画面構成力を持っていることは、一見で見てとれた。「いい写真」を撮る人だ、ということだ。かなり暗めの画面の調子も、私には心地よかった。
モノクロプリントの場合、私は暗い画面が好きだ。夜になっても闇の手触りが分からないほどどこもかしこも煌々と照らされた都会に暮らしていると、暗さへの憧憬が培われるような気がする。モノクロプリントを製作する写真家の多くはこの「暗さ」の度合いについて、きわめて鋭敏な感覚を持っているものと思われるが、その細やかな感覚を駆使した表現への透徹した意思と、その結実に向けたすがすがしいような配慮が感じられるモノクロプリントを見るのが、私は好きなのである。話がそれたついでに言うなら、たんに暗めに焼いたプリントが好きだというのではない。私は、プリントの暗さについての嗜好を意識するようになってからは、ただ「暗くて見えない」だけのモノクロプリント、あるいはただ「意図的に暗くした」だけのように思えるモノクロプリントは、むしろ退けるようになってきた(2)。
さて「carnation」についてだが、私が最初にえた印象は、完成した写真集をあらためて見た上でも変わらなかった。写真集の印刷濃度に亡くなった関の了解があるはずはないから、暗さについてはここでは述べないが、事物を写真にして見せる力、すなわち目の前にあることを瞬時にフレームに収めるしなやかな敏捷さと、発表するコマを選ぶ場合の、フレーム化された世界に対する写真としての価値づけを見抜く判断力には、やはり人並み以上のものがあると認めざるを得ない。旅立ちの行動力も含め、通俗的な表現だが惜しい人材をなくしたとしかいいようがないだろう。
ただ、この写真集を手にしてしばらくの間は、私にとってこの写真集の意味は、それ以上のものでも以下のものでもなかった。収められた写真は、世評を得やすい、したがって私にとっては不快なことの多い「流行」の着衣をまとってもいなければ、若さにまかせた騒々しいだけの自己主張とも無縁である。それもまた、私にとっては好ましいのだが、それだけでは何かが、しかも何かとても重要なことが「欠けている」。それがどこかもどかしい……そんな気分のまま、この写真集は私の記憶から消えていこうとしていた。
しかし、たまたま目にした関美比古のたったひとことで、彼の写真に何かが「欠けている」ということ自体が、この写真の意味のすべてであることが了解された。しかも、そのことが、ひろく写真を撮ることの価値の端緒のひとつでもあるのだという確信を持って、私はこの写真集を深く記憶の書棚に保存することにしたのである。
「"carnation"というのは『愛の拒絶』という意味です」(3)
私は、初めて見る写真の場合、撮影者の来歴や撮影状況、機材などを気にすることは少ない。被写体が何かということもさほど気にしない。もちろん追って調べることはあるが、多くの場合調べたことは装飾音として以上の働きはしない。調べるからこそ写真をめぐる文章も書けるわけだが、必要なのは写真そのものを見ることであってその写真について語ることではない。
ただ、「carnation」について関がたったひとことだけ残した、花の名前(おそらくは)をめぐる拒絶によって私は、死者の言葉に拒絶されるという二重の否定にあったのだ。そのことは私に、しばらく忘れていた写真への「旅」を思い出させたのである。
残念ながら私の手もとには、写真家自身によるただの一文以外に「carnation」のタネ明かしにつながる情報はない。もしそれがあるのなら知りたいと思う。そしてここでは、写真家の「拒絶」に導かれた私の旅に、しばらくお付き合いいただければ嬉しい。
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関美比古の言葉に出会った瞬間、私が思い出したのは映画『市民ケーン』に登場する有名な言葉、「ばらの蕾(つぼみ)"Rose
Bud"である。
オーソン・ウェルズ25歳での監督作『市民ケーン』(41年)は、実在の新聞王ウィリアム・ランドルフ・ハーストをモデルに、ウェルズ自身演じる大実業家チャールズ・フォスター・ケーンが死にあたって残した最後の言葉「ばらの蕾」の謎を追うことで、幼時に母親の愛情から引き離され、他者に対する拒絶の人生を送った孤独な富豪の過去を回顧するという筋立てになっている。映画では「ばらの蕾」の意味は最後まではっきりとは明らかにされないが、最後にケーンの家財道具が処分されてしまう場面で、彼が幼い頃に使っていた遊び道具の「そり」に、その文字が刻まれていたことが暗示される。そのことに気づいたとき私たちは、幼時の心地よい思い出の象徴としての「ばらの蕾」ただひとつの映像に、そこまでに映し出された膨大な量の映像、すなわちケーンの生涯の記憶が一瞬にして集約されてしまうのを知る。
この映画で映画史上初めて採用されたとされるパンフォーカスによって、ひと目では見渡せないほど画面の隅々にまで記録されたケーンの生涯を(当時の技術では照明など実際の撮影にも相当な労苦が費やされたという)、映画の終わりの一瞬の映像にねじ込んでしまう手腕といい、それを少しも不自然に感じさせない娯楽性のある一編の人物伝映画として完成させた余裕といい、ひとりの人間の生涯を25歳にして描ききった技量といい、ウェルズの冴えにはあらためて脱帽するしかないが、ここで私が注目したいのは、パンフォーカスでスクリーン上に現れる出来事(の映像)が鮮明であればあるほど、じつは新聞王ケーンの脳裏ではもっとも鮮明かつ重大な映像である「ばらの蕾」の欠如が明白になっていく、ということだ。つまり「ばらの蕾」は不在であることによって存在する映像である、といいかえてもいいだろう。
私が気にとめているのは、さほど難解なことではない。不在の存在を求める者が、たまたま写真家であったとき、どんな写真を撮るのだろうか、ということである。どこで、何のために……。
関美比古は、小学三年生から六年生までの間、父親の勤務の関係でモスクワで暮らしたという。そして、モスクワで写真を撮り始めた(日本人学校の写真クラブで)のだそうだ。であるならば、帰国し日本で大学を卒業した後にロシアや旧東欧を旅して撮影した関の写真に旅行者が撮影した風物以上の意味があったのはもちろんのことだが(4)、たんに彼が幼時を過ごした場所とその周辺を再訪した記録以上の意味があったことにも注意しなければならないだろう。
写真集に付された冊子の中に印象的な記述がある。関の弟である雅美氏が書いていることだが、近年いっしょにモスクワ旅行に出かけたとき、兄弟の間に感情的な行き違いが生じた、という一文である。 弟の雅美氏は「学生時代のモスクワ留学、その後の定期的訪問からも、劇的に変化するモスクワの町並みを好意的かつ肯定的に捉える事を当然と感じていたのに対し、」兄の美比古のほうは「昔のモスクワの町、人、雰囲気へのこだわり、新しいものへの拒絶を露にしていたのではないかと思う」というのだ。
その旅行自体、91年のソ連解体時の写真を手がかりに、変貌したモスクワを撮影する仕事をかねていたという。目的も方法もきっちり割り切れるその仕事撮影に関がフラストレーションを感じていたのだとすれば、それは関にとっての「ばらの蕾」すなわち「carnation」の不在に向かって、明確な現在の映像の記録をむなしく積み上げて行っている、その、不在の存在を求める写真家としてのありようについてのことではなかったかと想像されるのである。
関自身その立場にはほとんど興味を持っていなかったらしい新聞社の契約カメラマンの仕事を受けていたのは、中心となった仕事が、阪神大震災の取材をきっかけにした、以後の定点観測撮影だったからにほかなるまい。事実、わずかな期間で新聞社との契約を終えた関は、以後六年にわたって定点観測撮影は続けていたのだ。想像の翼を広げるにも限度はあるだろうが、被災地の定点観測撮影を継続した関の動機が、変化の記録、正確にいうなら変化の結果である現在につなげる写真を撮ろうという「定点観測」そのものにではなく、じつはその定点における「震災前」の不在、あるべきものがどこまでいっても見当たらないという永遠の拒絶に向かってレンズを向けるしかないという気持ちにあったのではないか、という推測は許されるだろう。そしてそこに、写真に出会った子ども時代のモスクワの不在、現在につながる現代史では必ずしも笑顔で肯定することはできない旧ソ連時代のモスクワの不在への遠いまなざしがあったのではないかということは、子ども時代を過ごした阪神地方のさまざまな記憶の痕跡が残った場所が震災で根こそぎ「不在」となった私には、ほとんど痛みに近い共感をもって推測することができる。
関が「世界の謎をかいま見る」「呪文」だという「carnation」(3)という言葉。それが「愛の拒絶」だというのだから、単純に母親か恋人との間に何かあったのではないか、という想像もありうるだろう(5)。が、事実はどうあれ、この花が、関にとって最大の不在の存在であった旧ソ連邦モスクワ、いまはその色を失った緋色の都市にあるさまを想像してみようと私は思う。たまたま、関と同じころモスクワに住んだことのある日本人にそのさまを説明してもらうことができた。
当時、寒いモスクワには花があまりなく、じつはこのカーネーションが数少ない花として、さまざまな贈答の場面で登場したのだそうだ。もちろん高価だったので、たった一輪がやりとりされることも多かったという。
手にした一輪きりのカーネーションを気持ちの証とした人々のいる場所、それが関の記憶にあった不在の都市すなわち「昔のモスクワの町」なのだと言うのは情緒的にすぎるだろう。しかし、決して撮ることのできない不在の存在に向かっていることを了解しつつ、最新型のプロ仕様の一眼レフを持って「意識的な写真行為」(3)として「見ること」に立ち向かったこの冷静な写真家の脳裏に去来していたのが、もし鮮やかな一輪の「花」だったのだとしたら、死後に残された写真を見る私は迷わず言うことができる。「美しい」と。
(1)2002年3月30日刊(ガレリアQ)/購入の問い合わせは版元のガレリアQ(03-5269-5230)へ。刊行に合わせ写真展が開催される(4月7日まで東京・新宿のガレリアQと
東京・四谷のプレイスMにて)。
(2)むろんモノクロプリントの濃度や細部の再現度を、正しいか正しくないかでいうの
は おかしい。当然だが。
(3)「日本カメラ」98年5月号。
(4)関はロシア語を解した。多くの日本人写真家が理解しないであろう視野の中の文字
情 報を理解して撮影していたことの違いは、かなり大きい。
(5)カーネーションの花言葉は「純粋な愛、愛の信頼」などだが、これは赤い花の場合
で、花色によっては「拒絶」が花言葉になる。余談だが、『市民ケーン』の舞台裏を描 いた近年の劇映画『ザ・ディレクター』(ベンジャミン・ロス監督・99年)では「Rose
Bud」とは新聞王ハーストが愛人の秘部につけた愛称だったとしている。
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