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「一九三五年(昭和十年)ごろから急速にわたしは写真に傾倒しはじめたのであった。写真をはじめた特別の動機というものはなかった。たまたま、現在写真家である濱谷浩君が同じ町内のおさな友達で、彼の撮ってきた千葉県房州を無銭旅行してきた密着写真を見せられ、わたしもまた当時流行のベスト判単玉カメラ(ベス単)で、パチパチやりだしたのだった。」
(1)
桑原甲子雄は、写真を始めた理由をそう書いている。
写真を始めたのは正確には一九三一年のことで、家業の質屋をやりながら、隣に住む濱谷浩とその次兄でのちに写真評論家として活躍する田中雅夫に写真の手ほどきを受けたのだ
(2)。濱谷の方は、父の友人で写真館経営で成功した人からもらったブローニー判のハンドカメラの重量感に感じ入り、「写真少年」になっていたのだという(3)。ときに桑原十七歳、濱谷はふたつ下の十五歳。
冒頭の一九三五年には、濱谷はすでに憧れのライカを手にして銀座を撮りまくり、プロ写真家として草創期のフォトジャーナリズムの世界に入ろうとしていた。しかも濱谷は、それ以前に単発の複葉機で航空撮影するという最先端の撮影現場もこなしており、「視界も気分もひときわ大きくなったような気になっていた」のである。「地図を見ていると、私はここへ行ってみたいとか、ここを写してみたいとかの衝動に駆られることがある」
(3)といい、74年秋のチョモランマ(エベレスト)空撮では「飛んだ、見た、撮った」と、日本で待つ妻に電報を打ったという濱谷の<ひときわ大きな>視界は、駆け出しのこの写真家の前にすでに広がりつつあったのだった。
いっぽう桑原も、濱谷の前年の一九三四年にライカを父親に買ってもらっている。が、以後の桑原の「写真家」としての生きかたは濱谷とはまことに対照的だ。
濱谷がまさに「飛行機」的な視野の広さと高度を持った写真家になったとするなら、桑原は東京下町を一人歩きする「遊歩者(フラヌール)」
(4)の身の丈の視線を変えることのない撮影者になった。間もなくアマチュアカメラ雑誌の常連投稿者としてならすようになり、そのアマチュア精神を逆にかわれて戦後いきなり写真雑誌の編集長に招聘される。以後の桑原のプロとしての仕事はおもに写真編集者・批評家として写真を見る側にあった。一九三〇年代に町歩きをしながらライカで撮った五千枚以上の写真は「どこに発表するというアテもない行為だから、プロ写真家とはいえない。つまり私の写真する人間としての自覚は、ほとんど形成されておらず、ただ東京の町を歩くこと、気の向くまま、足の赴くままにシャッターを切ることが行われたことはたしかだ。」
(4)ということで、六〇年代末から七〇年代初めにかけて「古井戸をのぞくような気持ち」
(1)で整理し発表するまでは「私の関心をまるでひかない存在として、放りっぱなしにしてあった」
(1)という。
しかし、彼がすでに編集の現役から退いている現在、というよりも「古井戸」から発掘した写真が高く評価されるようになった七〇年代以降現在まで、「桑原甲子雄」という名は間違いなく写真家のものとしてある。一九九三年には「ラヴ・ユー・トーキョー
桑原甲子雄・荒木経惟写真展」(東京・世田谷美術館)で、メディアや美術界の表舞台を闊歩していた荒木に互して相当な規模で展示を行ったことは記憶に新しいし、この六月から九月まで東京都写真美術館で開かれた「桑原甲子雄
ライカと東京」も、ひとりの写真家の回顧展にふさわしい規模のものだった。
東京都写真美術館での展示は、三〇年代半ばに撮影されたものと、六〇年代以降に撮ったものの二部構成だった。私はとくに新しい発見を期待して見に行ったわけではなかったが、出口近くに展示されていた1枚の写真を見たとき(すでに見たことがあったかもしれない写真なのだが)、桑原甲子雄の作品として発表されている写真について、これまでばくぜんと抱いていたイメージを捨てて見直さなければならないと感じた。
私は、桑原が若い頃に撮った上野・浅草・下谷を中心とした三〇年代の東京の写真が嫌いではなかった。同時代にライカの使い手として名人といわれた木村伊兵衛の写真と比べると、まるで木村のやや後ろの方からのぞき込むように撮っていたかのようなもどかしい距離感があり、しかしそれが木村の写真に劣るというのではなく、また違った魅力を持っているように感じてきた。
当時の桑原は、二〇歳前後で結核を患うなど身体が弱かったうえ、商家の長男として暗黙のうちに生業を継がねばならず、写真の歴史や芸術的側面に興味を持ちながらも上級学校に進学できずにいた。それが太平洋戦争への道を歩む時代と重なる鬱屈の青春だったからこそ、わずかにひねり出す「写真の時間」に没頭したという。私はその事情に奇妙なほど共感をおぼえるし、撮影地が上野・浅草界隈に集中しているのは、暇を盗んでカメラを向けえたのがそれら「近所」でしかなく、よく小市民的な写真に対する賞賛の言葉として使われる「日常的空間」とは、桑原にとっては「普段のくさぐさのわずらわしさをかかえこんだ憎悪の場所にもなりかねない」
(1)ものであり「だから当時の写真道楽というのは、そうした日常性の脱出のためのいこいとしてあった」
(1)というエピソードも好きだ。そんなわけで、桑原の撮った東京の、ものさびしさ、たんたんとした中に輝くみずみずしさ、それらが、いまはない場所への「郷愁」を呼びさます、というようなことばへの置き換えを、私としてはしっくりこない気持ちもあるまま、桑原の写真に対する好印象として持ち続けてきたのだった。
今回、東京都写真美術館で私の目にとまったのは、「山手線 目黒駅(1989年)」という写真である。
駅のホームから線路側を見て撮ったものだが、山手線の目黒駅はホームが周辺の路面より低く、駅は半地下の感じだ。ホームを上下線が挟む形で線路の向こう側はコンクリートの護岸のようになっており、さまざまな広告の看板が並んでいる。写真は35ミリ判ヨコ位置で、左側四分の一ほどの天地にやや大きく、広告の方を見るともなく見ている女性が前ボケで写っており、ピントはそこから画面中央〜右側へかけて写っている、線路をへだてて向こう側の広告の看板のほうにきている。
私が最初に目をとめたのは、12年前、すなわち私自身がこの駅をふだん乗降に使うようになるはるか以前に撮られた写真が(写真に写っている広告ももちろん現在とは違うにもかかわらず)、私がいまこの駅のホームに立つときの感覚とほぼ重なることだった。書けば細かい話だが、要するに美術館を歩いているときかなたに見えたこの写真を「あれは目黒駅では」と思った、ということだ。もしそのきっかけがなければ私はこの、展覧会場のほぼ最後に置かれた(5)写真もまたほかの写真同様、過去の東京を写した写真に対して正確には意識したことがない「郷愁」を感じたつもりになって眺め去ったことだろう。
しかしそのバルト的体験は、私にその写真の細部を見させずにはおかなかった。
この写真で最初に目にとまるのは、全体に黒の比率が多い画面の中に白くきわだつ、ウェディングドレス姿の女性の広告写真である。画面中央からわずかに右よりに写っていてピントがきている。その広告の真下が「乗車位置」の表示で、画面左の前ボケの人物は、広告を見るともなく眺める風情の女性である。
面白いことに結婚というテーマを (6)軸にしたこの向かい合う<ふたりの女性>の視線は、微妙なところでずれている。これは、ちょうど小津安二郎の<視線の合わない>対話のカットバックが、似たようなテーマで母と娘あるいは父と娘が語り合うシーンで醸し出す強度とまったく同じものを連想させる。その強度とはすなわちフレームの中での対話が、対話者の視線が合わないという逆説において決してフレームの中で完結せず、鑑賞者がそれを見る「現在」において、つねに何度でも「現在」であり続けることで、劇映画というやや情緒的な映像メディアとそこで設定された時代への「郷愁」をはねのけるかのような、映像と鑑賞者との対話をもたらし続ける、あの力のことである
(7)。
この力が別の見えかたで桑原のほかの写真にもさまざまに現れているのだとしたら、単純にいえば、プロ写真家としてははるかに華やかに活躍した隣人の濱谷浩が「飛んだ、見た、撮った」といった写真以上の写真を桑原が散歩しながら撮ったということであり、より複雑に考えるならば、それが果たしてどこまで桑原自身がいうような「『表現』としての様式や凝縮度をかちえないかもしれない」「アマチュアとして」(8)の写真だったのか、ということでもあろう。
私はこの1枚の写真のことばかり考えて写真美術館を出てしまったため、日をあらためてもう一度、見に行った。私は桑原のネガやコンタクトを見たことはなく、発表されている写真のすべてを見たともいえず、発表作が選択された方法も正確には知らない
(9)。したがって「バルト的体験」などといい出した私の考えが「かすりもしない」ことはまたしてもありうるが、この機会に写真美術館に展示された120点だけでも見直しておくことにした。
結論からいえば、私は二つの時代にまたがった写真の多くから、これまで気づかなかったさまざまな物語を読みとることができるようだった。もちろんそれらは写真の中にあらかじめ用意された物語ではなく、また写真全体としてひとつのメッセージを私に読みとらせようとするものでもない。それぞれの写真はあくまで撮影者の孤独な視野の断片にすぎない。しかし、私の語りかけを待っているかのように、私が写真をなぞる視線に応じて、さまざまな記号と情報が立ち上がってくるのである。そのたびに私は、写真と私が「現在」を共有しながら対話しているのを感じたし、その意味では「古い写真はよい」という通俗的な設定を超えた魅力を放つべくして放つ撮影(ないしは選択)が行われたに違いないという確信も持った。そして、桑原の言を待つまでもなく表現というよりは私にとって資料としての平面性が強かった写真は、急に奥行きを深めて見えるようになり、奇妙なことだが教科書的な「モノクロ写真を見る楽しみ」を実感することさえできた。かくして私は、桑原の写真をあらためて堪能したのである。
だが、ここでいっておかなければならないのは、私と桑原の写真のこの幸福な再会は、どこか周到に容易された脚本をなぞっているような気もしてならなかった、ということである。
さきの「目黒駅」の写真から私が読みとったことが、要するに写真に写った記号を使った古典的な印象批評にすぎないことはあらためていうまでもないが、逆にいえばそのような読みが可能な写真とは、いかにそれが無作為に撮影され無作為に抽出されていたとしても、あらかじめ読み手のための記号が適度に配された「奥行き」のある構造物なのだ、といういいかたもできるだろう。私は、桑原が、自称するアマチュアリズムとはかなり違った方法で鑑賞者を意識して撮ったり抽出したりしたのではないか、と疑ったり、そうだった場合に批判しようというのではない。私が問題にしたいのは、桑原の写真のかような「読解性」が、ほぼ「郷愁」という結論のために存在している、ということについてなのだ。
桑原は同じ一九三〇年代撮影の写真について、撮影当時はこのように書いている。
「シャッターを押して写つたというスナップでなしに、被写体と一秒一刻を共に呼吸し乍ら、正に意気の合致した火花の散る時、シヤツターを切る、と云つた様な、口や筆では現はせない様な所が頗る大切な美だと思ふのです」(10)
そして四十年後の発表時には、つぎのように書く。
「不思議なことであるが、今日、私は当時歩き回った下町の光景を、そこで生じた物や人との交流といった生まな形で、深く記憶にとらえられたという思い出をもたない。(略)通
過者の視線というものは、いつも現実を写真の被写体として抽象化してしまうからであろうか」 (1)
同じ写真に対して同じ撮影者が示したふたつの態度に微妙なずれを生じさせたものは何だろうか。それは、時間の経過、記憶の欠落、そして郷愁の発生である。もちろんこの三つは「古い写真のよさ」を発揮させる要因でもあるが、桑原の場合は、さまざまな局面での回避的な行動によって、この三つの要素が安定的に写真に作用し続けたといっていい。このことは、撮影者がその名を放棄し、まったく無名の写真を無作為に撮影したとして、単純にその写真が古びれば「よく」なるわけではないことをも意味する。
桑原は、ちょうど日本の写真が大きく近代化される時代に居合わせてその影響も存分に受けながら、その「晴れがましさ」 (11)には「あとじさり」し「それとはまったくうらはらな」「写真を撮る行為の孤独な日常性」に沈潜した。この「あとじさりするといった性向」は桑原を関西で盛んになっていた芸術写真運動に深入りさせなかった。またプロ写真家ならしめず、国策プロパガンダ向けの写真を生業とすることもなかった
(12)。戦前戦中を写真に関わって過ごし戦後の写真界にも名を残した人びとの中で、桑原ほど戦前戦中の意識のありかたを誠実かつ詳細に公にしている人は少ないと思うが、写真を扱うものとして保田與重郎に心酔したなどとはなかなか書けないはずだ。しかし日本浪漫派への傾倒は、結として軍国宣伝写真へと邁進してしまったモダニストたちからの回避的行動であったと書かれてしまうと
(13)、それもまた桑原の一九三〇年代の活動の一種の誠意として読めてしまうから困ってしまうとしかいいようがない。
幸運なことに、桑原がライカを使ったときの、これもある意味で回避的といえる方法が、その写真の無償の行為としての個性を高めたことも指摘しておくべきだろう。ライカを持った桑原が店のガラスや鏡に写り込んでいる写真を見ると、桑原が自然に構えたカメラの位置はやや高く(上背がある)、わずる範囲にはかなりずれがあるが、この差を見切ってフレーミングできるプロの技術(たとえばかの木村伊兵衛も1個の石鹸を延々と撮り、カメラアングルや照明と写真の関係を身につける練習などを行っている)がなければ、かなりアバウトなフレーミングで撮っていたはずだ
(14)。ライカを同時代のプロのようには使いこなしきらない、という方法が、結果として桑原の写真に<無償の作家性>を刷り込んでいったともいえるだろう。
「たんに無償の行為として、私の二〇代の欲求不満を吐露していったばっかりに、その映像が、こんにちいまだに透明たりえているのかもしれぬ
」(1)
という謙虚な言い回しに、写真家としての確信と喜びも込められていることは間違いがない。
さて、ひとりの孤独な青年が、写真を撮って歩き、はるか後年に無償の作家性とでも呼ぶべきものを手にした。それは喜ぶべきことだろう。これら<無償の写真>には、その撮影者の<透明>さゆえにしか記録されえない、同時代のさまざまな記号(たとえば広告写真そのもの、雑誌の表紙、文字など)が収められている。そしてそれらは、鑑賞者の記憶に応じて写真から「時間の経過」を飛び超えて語りかけてくる。鑑賞者たちは、撮影者がさまざまな回避的「あとじさり」のうちに写真に与えてきた「時間の経過」と「記憶の欠落」をおのおの埋めることで、郷愁という「大いなる帰還」に到達するのである。私もまた、ひとつのフレームでくくられた「宝の地図」から撮影者もおそらく気づかなかった記号の意味を拾い出し読み解こうとする宝探しに熱中したのだった。
しかし。
それはそれで写真のひとつの見かたとしてよしとするとしても、かりに私が一九三〇年代の写真で同じようなことを行って、そのときに「郷愁」ということばを使ったとしたら、それは取り返しのつかない態度だと思う。当の桑原自身が「<郷愁>という概念が、人間の源泉的感情としてあらためて問いなおされなければならない」「たんに回顧の感傷にひたるだけではおさまらない、何物かがひそんでいるのである」(1)と書いているのだ。私は、写真を見る側として長年を過ごした桑原自身はとうに気づいていたと信じているが、東京都写真美術館に展示されたふたつの時代の写真には、時代をへだてていることによる違いは実はまったくない。見た目に感じられる大きな違いは写真を作り上げているさまざまな記号の意匠の違いだけであって、もし写真の上で意匠を入れ替えることができたなら、三〇年代と六〇〜七〇年代という、まったく違った時代の東京なり日本人なりの写真にあるのはたんに「時間の経過」と「記憶の欠落」だけであって、完全にシャッフルしてしまうことが可能だ。それはつまり、この展示ですっぽり欠落している一九四〇年代もまたどこにでも入れ替え可能であろう、ならばここで桑原の写真のスタイルを云々したり、それを軸に「郷愁」などということを安易にいっていていいものか、ということである。写真の話をしているときに余計な言い当てをするな、ということもあるだろうが、ここで執拗に繰り返してきた「時間の経過」と「記憶の欠落」そして「郷愁の発生」ということをいま再び並べてみたとき、私は写真を見る行為そのものが揺らぐのを感じる。
なぜなら当初この一文は、東京都写真美術館での展示期間中、せめて七月頃までに書いてしまうつもりだった。事情があってつい書けずにいたところ、アメリカでテロ事件が起きてしまい、やにわに(もちろん伏線がなかったわけではないが)「戦争」ということばが日本に間近く聞こえてくるようになった。これがなければ私は、桑原の写
真との幸福な再会と郷愁に満ちた宝探しの喜びを素朴に報告して一文を終えたことだろう。だが、いまの私には桑原甲子雄の「無償の写真」がもたらす「郷愁」は、当初のイメージとはまったく別の、ある恐ろしさを持つものとなってしまった。
「オデュッセウスは憔悴すればするほど、ますます忘却する。なぜなら、郷愁は記憶の活動を強めず、想い出を呼び覚まさず、ひたすらその苦しみだけに吸収され、それだけで、みずからの感動だけで、充足するから」
(15)
ニューヨークの世界貿易センタービルに旅客機が突っ込む写真を一面にした事件直後のニューヨーク・タイムズが早くも「復刻」され(!)、さらに相当の部数を売ったという。ここにもまた写真をめぐる、単純化された恐るべき「郷愁」がある。それも私には到底ついていけない速度での。
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