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牛腸は、つぎのようなメモを残している。これは未来社版『SELF AND OTHERS』の解説に引用されており、映画『SELF
AND OTHERS』でも実物が映されるが、写真集として出版する部数や価格、大辻清司に序文を依頼することなどの但し書きがあることからして『SELF
AND OTHERS』の制作案であることは間違いない。
PERSON=人々=People
個人の生活史のある断章、
人間へのあくなき執着、
私の家系の(親族、肉親)人々を通して現存する生の回帰、
ある日、ある場所で出会う、第三者(他人)との交叉、
精神病者からの体験、<精神病院> 生命の誕生、
死<死体>
結局実現はしなかったものの、牛腸は後々まで精神病院の患者を撮影したがっていたという。だとすれば、いま私たちが見ることのできる写真集『SELF
AND OTHERS』は、実はまだ最終型ではなかった、ということになる。牛腸がこのメモ通りに撮影を完遂して『SELF AND
OTHERS』を作ったなら、それはいまここにある『SELF AND OTHERS』が補完されたとか、豊かになったとか、奥行きが出た、というものではなく、<まったく別の>ものになっただろう。逆にいえば、写真集『SELF
AND OTHERS』は、本来完成するはずだった『SELF AND OTHERS』の「序説」にすぎなかった、つまり完全版としての『SELF
AND OTHERS』のパイロット版であった、ということである。
さきに示した「とりあえずの結論」で私は、牛腸の残した写真集『SELF AND OTHERS』が、牛腸と彼が撮影で行き会った人びととの関係の瞬間の典型を「時空を超えて」示し続けるものだというように書いた。なぜなら、写
真集に収録された写真の被写体になった人たちと牛腸との関係(被写体が基本的に牛腸と親しい人たちであること)を多かれ少なかれ知ることができた私は、さして検証することもなく彼らの関係を「親しさ」だと考え、その写真の集積である『SELF
AND OTHERS』もまた「親しさ」によって編まれたものなのだと想像した。つまり私は、写真集『SELF AND OTHERS』に示されている(と思われる)「ネクサス(連鎖)」に、幸福なコミュニティとしてのイメージを抱いたのだ。
しかし、牛腸の製作案メモを見ながら『SELF AND OTHERS』をいま一度、最終型への導入編として見直していくとき、つぎのことが明らかになる。すなわち、完全版『SELF
AND OTHERS』に示されたであろう「ネクサス(連鎖)」とは、まさにR・D・レインが分裂病者について考えたその文脈通り、本当の狂気でも本当の異常でもない、社会制度によって疎外されたにすぎない者が行う「特別な恩寵」(16)としての「旅」が出会う、疎外と孤独の<まなざし>の「連鎖」なのである。
「私たちは理解できないのでしょうか。この旅とは私たちが治療をうけるべきものではなくて、それ自体が、正常と呼ばれているところの恐るべき私たちの疎外状態をいやす自然の方法であることを」(16)
牛腸はもちろん、自分がその旅人のひとりであることに気づいていた(おそらくはレインの著書との出会いによって、より確信を持って)。
「今日でも、こういう旅に出る人がおります。しかしおそらくその大部分の人は、『正常な』世界では擁護されることのない場におかれることによって、正常な世界から強引にはじき出されたと感じるのではないでしょうか。彼らは内面的空間と時間との地理において、方向感覚を持っていないのであり、道案内がいなければたちまちのうちに道に迷うのです」(16)
牛腸の場合、写真という科学の地図を持っていた。それ自体が明証性のある旅の記録であり、旅の追体験をする読者の道標にもなりうる写真の使いかたを知っていたために(当初は写真家でなくグラフィックデザイナー志望だったのだ)、牛腸はほとんど確信犯的に「『正常な』世界では擁護されない場におかれ」て疎外を旅する自己を描くサーガを一編の書物にまとめることができたのだ。映画『SELF
AND OTHERS』を作るため牛腸の未発表写真のコンタクトほぼすべてに目を通した佐藤真によれば「その大半は驚くべきことにただの平凡な記念撮影でしかなかった」という(4)。牛腸がそこから注意深く、しかし「平凡な記念撮影」がほとんどであったなら、おそらくは容易に選び出せたであろう<まなざし>。その「形式」への執着というただ一点において、『SELF
AND OTHERS』の牛腸茂雄は写真家として存在している。そしてその「形式」がより透徹されているがゆえに、牛腸の『SELF
AND OTHERS』に現れる「まなざし」とまったく同じ視線が、より巨大な「ネクサス」から投げかけられてくる偉大なる写真集の存在を、私たちはすでに知っている。それはアウグスト・ザンダーの『20世紀の人間たち』("MENSCHEN
DES 20.JAHRHUNDERTS")である。この写真集が暗示したのも同様に、ドイツ国民という「ネクサス(連鎖)」が、決して「ユニティ(統一)」を意味しない、ということであった。『20世紀の人間たち』の被写体となった人びとは「国家/社会主義/ドイツ/労働者/党」を構成するどの主義や概念でも総称できない非統一の「ネクサス」なのだから。
写真集『SELF AND OTHERS』の<まなざし>の集積がかくも強く感じられるのは、これが<完全版>の存在を予感させる力強い<きざし>に満ちているからであろう。牛腸はR・D・レインが正常との境目がないと主張した精神病者の世界にまで踏み入り、また生から死に至る人間すべてを見渡すつもりだったようだ。もしこの縦軸横軸が交錯する旅の往還が写
真という道標として得られたならば、その写真群は間違いなく『SELF AND OTHERS』の最後から二枚目の牛腸のセルフポートレート(ロールシャッハテストをイメージさせる自身のインクブロット作品が背後に写っている)と、三枚目の子ども時代の家族写真の前に収められただろう。そして、かような特別な恩寵としての旅の記録を、人生を賭けてもたらす者としての「自己」の姿が写真集の最後で「他者」の目に輝くこと、それこそが、相当に自意識が強かったと推測される牛腸の最高の喜びだったに違いないのである。
自意識といえば、牛腸は姉への手紙につぎのような主旨のことを書いている。
仕事をちゃんとして、半月でひと月分の生活費をかせぐこと。
どのような写真家が自分にとって一流の写真家であるか。
自分の写真はじっくり見ることで味わいの出てくる写真だということ。
自分の仕事に決着をつけること。
映画『SELF AND OTHERS』で朗読される牛腸から姉への手紙は不思議なことに、ゴッホが弟テオに出し続けた手紙にそっくりだ。映画では省略されていた重要な部分−−金銭的援助の依頼−−を含めればゴッホの手紙と構成まで同じである。
ゴッホも牛腸とは別の意味で「『正常な』世界」からは疎外された存在だったが、書簡集からは「狂気」の片鱗も感じさせない、つねに強く明確な目標と自意識に支えられた原則論者であったことが(それが実現できたかどうかは別の問題ではあるが)読みとれる。牛腸もまた写真という自己表現において、つねにその「形式」という原則を重んじたのだった。
映画を監督した佐藤真によれば、牛腸は自分が生きている痕跡を形に残すことにかなり執着していたことが、遺品からうかがえたという(2)。もちろん牛腸自身、自分の命がそう長くはないことをつねに意識しなければならなかった、ということもあるだろう。映画に使われた音でもっとも記憶に残るもののひとつが牛腸自身の声なのだが、「発声記録」と題された遺品のカセットテープに録音されていたものだというこの声は、ほとんどそれだけで映画全体を支配してしまうほどの鋭い強さがある。
一九八一年一月十一日、午後七時三十分
おはよう
こんにちは
こんばんは
あ・い・う・え・お
あいうえお
明日は天気はどうですか
明日の天気はどうですか
もしもし聞こえますか
どのようにこの声は聞こえてますか
かくも痛ましいまでに性急に自己の存在を他者に残しておきたいと望んだ牛腸が、写真家という自己表現の手段を発見したとき、いかにその写真の撮り口を賞賛されようとも、「よい写真」や「うまい写真」を「撮る」という、拡散的で悠長な手段には、かなり早い段階で見切りをつけたに違いない。牛腸が選んだのは、写真の持つ基本的な「形式」すなわちスタイルを徹底することで、いくつかの<最終型>に集約的に達しえた写真家であろうとすることだったのだ。そのことは、牛腸が残している三冊の写真集を見直せば、疑いもなく理解できる。
最初の写真集『日々』は、桑沢デザイン研究所在校時代の同級生、関口正夫との共著による写真集だ。
35ミリヨコ位置の、静かな日常の断片が並ぶこの写真集は、ある意味では「コンポラ」の見本帖ともいえるものだ。私には、牛腸の写真ではこの写真集に入っているものが存外好ましかったりもするが、この写真集からは「自己」としての牛腸の存在がそれほど濃くは伝わってこない。大辻の解説を読みながら目を通した後で、牛腸の写真の特徴を関口のそれとの比較で語れなくはないが、実のところ両者の写真を一度も見ずにシャッフルした状態で完全に二つに分けろといわれたら、私には分ける自信はない。
もちろん牛腸がそのことに気づかなかったはずはないだろう。そこで牛腸は、ここで私がたどってきたような「形式」がもたらす<まなざし>の強さに注目し、当時、同時代の反体制的なユートピア思想と、やや勢いあまって位置づけられながら読まれたであろうレインを援用しながら『SELF
AND OTHERS』に達した。
そして牛腸がつぎの、そして最後の写真集、『見なれた街の中で』に、彼には似合わなく思える、街路での動きを感じさせるさまざまなスナップを収めたことは、そこでの個々の写真のできがどうだとか写真集としてどうかという議論にほとんど意味がなく思えるほど、選んだ時点であとはそれをいかにつき詰めるかだけに成否のかかった、必然的な「形式」の選択であったことが了解できる。牛腸は『SELF
AND OTHERS』で未完成ながら到達した「写っている」事物の力の発掘を経ることによって、再び「撮り」の最終地点、すなわち牛腸にとって身体的にもっとも困難である撮影方法のひとつに挑んだのである。
ここまでに私は、写真集『SELF AND OTHERS』の最大の特徴である<まなざし>が、たんに写真固有の機能のおかげでおのずと現れた奇蹟なのではなく、同じ写真の固有機能によって必ず得られる平凡な「形式」のうちのひとつに過ぎないことを指摘しながら、なおかつそれが恐るべき深みの「序説」として示されうるという驚きと感動について考えてきた。この考えを、牛腸の残している三冊の写真集のありようにいまいちど重ねてみるとき、私はこういうことができる。三冊でとぎれた彼の捨て身に近い試行がもしその生々しい生への欲望を失うことなくなお続いたとしたら、この、「カメラマン」に欠かせない健康と体力にはほとんど恵まれることのなかった写真家はおそらく、写真というものが行き着きうるあらゆる最終完成型を、ただひとりでつぎつぎと訪ねあてていったであろうと。
さて、写真集『SELF AND OTHERS』がたたえる可能性の深みから生まれた変奏曲のうちから始まった私の旅も、そろそろ終わりに近づいてきた。
振り返ってみるとこの旅は、『SELF AND OTHERS』に別の映像ジャンルから豊かに変奏を響かせた、佐藤真の『SELF
AND OTHERS』をきっかけにしたのではどうもないようだ。それよりも、牛腸の『SELF AND OTHERS』に写真で応じようとした三浦和人が、牛腸のプリントと同時に展示をしたごく最近の写真展「波紋と共鳴−『SELF
AND OTHERS』のゆくえ」(20)に触発されたところが大きい。私がひどく驚かされたのは、この写真展に展示されていた「『SELF
AND OTHERS』の中の人々」と題されてごく近年に撮影された、『SELF AND OTHERS』の被写体となった人々の現在の姿であった。『SELF
AND OTHERS』では、写された場所や部屋の様子に、ある「貧しさ」さえ共通させて、何か重大な使命を担うかのような決然とした視線でこちらを見ている人々は、いかにも小市民的な豊かさに彩られた空間の中で、弛緩した現在を穏やかな表情で生きているのだった。そして私が訪れた展示開始の夜には、写真に写っているまさにその人たちのいく人かも会場を訪れているらしかった。そこでかもし出されていたのはまさに、私が『SELF
AND OTHERS』の最終完成型は決して目指していなかったはずだと確信していた、親しみに結ばれた「ネクサス」だった。写真に写っている人はもちろん、会場にいるほとんどの人と面識のない私は、あらためてそこに展示されていた牛腸の写真の<まなざし>に惑わされながら、暗い疎外感とともにそこを出た。
「自分が否応なしにこういった旅にすでに出かけていると気づいたとき、人々はこれを特別な恩寵として感謝を捧げた時代があったのです」(16)
思えばそのとき、私は「旅」を始めていたようである。
この章は全編を3回に分けてお届けしました。
(2)『アサヒカメラ』2001年5月号
(16)『経験の政治学』みすず書房・1973年
(17)"THE WING OF MADNESS The Life and Work of R. D. Laing" Daniel
Burston, Harvard University Press.
(18)レインは60年代に起きた「反精神医学」運動の旗手とされた。この間にティモシー・リアリーのような人たちとも交友があったことは注目しておくべきだろう。しかし彼の試みは訴求力を弱めていき、非拘束治療から手を引いてアジアでの個人的な精神修養に向かうようになる。87年には患者の訴えにより、レインはイギリスでの治療資格を失う。
(19)『自己と他者』/みすず書房・1975年 (20)2001年5月、東京/スタジオエビス
牛腸茂雄 ごちょう・しげお 1946年新潟県生まれ。幼時の病気で身体に障害を負う。桑沢デザイン研究所で写真を学ぶ。東京造形大学などの非常勤講師をつとめる。78年、日本写真協会新人賞受賞。三冊の写真集、インクブロット作品集『扉をあけると』を残し、83年に36歳で亡くなる。
佐藤真 さとう・まこと 1957年青森県生まれ。東京大学文学部卒。現地で生活をともにしながら撮影した新潟水俣病患者のドキュメンタリー映画『阿賀に生きる』(92)年で高い評価を受ける。近著に『ドキュメンタリー映画の地平−世界を批判的に受けとめるために』(凱風社・上下巻)がある。
三浦和人 みうら・かずと 桑沢デザイン研究所で牛腸茂雄の同級生。『SELF AND OTHERS』の被写体のその後を訪ねて撮影した「『SELF
AND OTHERS』の中の人々・1998」シリーズがある。また、牛腸茂雄が生き続けていたら撮ったであろう作品を意識した写真集『会話』(モール・1998年)がある。
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