|
寡作ながらすぐれたドキュメンタリー映画を撮ってきた佐藤真が、写真家・牛腸茂雄を題材に映画『SELF AND OTHERS』を完成させ公開している(1)。これが佐藤の三本目の監督作品で、映像作品の編集・構成・映画学校での指導など、その豊富な経験からしていかにも少ないが、それぞれに扱うテーマの異なる三本の作品を通じて、彼はつねに自身がドキュメンタリー映画を撮るという経験そのものによって、ドキュメンタリー映画という形式の意味と問題を、決して声高にではなく、むしろ心地よいユーモアさえ感じられるおだやかなまなざしによって提示してきている。
そこで今回の『SELF AND OTHERS』だが、テレビ番組などから想像されるヒューマン・ドキュメントなりルポルタージュ・フィルムなりを期待してスクリーンに向かうと、はなから肩すかしをくわされる。佐藤は、牛腸茂雄という写真家についての映画を撮るにあたって、通常のドキュメンタリー映像のために使われる方法とはまったく別の方法で撮っているといってもいいからだ。通常のドキュメンタリーで使用される方法とは、たとえば「綿密な取材の成果」などと表現される、文字・写真資料や関係者のコメントなどを映画の時間の流れの中で結論に向かって巧みにプロットとして配していくようなやりかたである。映像を解説する音声、音声を解説する映像……映画を構成する基本要素の足し算・掛け算的な効果によって、観る側の私たちは、ときにその映画に使われる断片的な素材そのものの持つ情報よりも強すぎるほどに強く、その映像作品の作り手が主張せんとする「事実」を体験し、受け入れるのである。
だが映画『SELF AND OTHERS』では、そのような方法による「牛腸茂雄像」なるものはほとんど一度も現れない。牛腸のプロフィールに関しては映画の冒頭であっさりと字幕によって解説され、あとはおもに牛腸が姉に当てた手紙を俳優が朗読していくが、その読みかたはドラマチックな表現を避けた淡々としたつぶやきだ。関係者(おもに牛腸に撮影された人のものである)のコメントも音声素材として使用されるものの、それも彼らのコメントを伝えるためというよりは、撮られた者たちの声で牛腸の写真のための通奏低音を奏で続けようとするかのように、スクリーンに写しだされる木々の葉のざわつきにも似た声と声とがオーバーラップしていってしまうのである。
全編にわたる映像も印象的だ。牛腸の写真作品が映し出される場合は、映画の終わり近くになって写真集『SELF AND OTHERS』の最後に掲載されている写真が画面に登場するときに「寄り」の動きがあることをのぞいて、それぞれの写真がほぼスクリーンサイズで映し出されるだけだ(テレビの美術番組などでは作品に寄っていったりトリミングしたりと、さまざまな<鑑賞する視線の動き>めいたカメラの動きが行われるのが普通だ)。また関係者のコメントがあるからといって関係者そのものの姿が画面に登場することはなく(そういえばこの映画にはそもそも人物が登場しない)、牛腸との「関係」ということで画面に映し出されるのは、写真作品以外には「場所」、すなわち牛腸の遺品がある地元の部屋、東京で住んだ場所、『SELF
AND OTHERS』を撮影したとおぼしき辺りなどである。これも映画の中で仔細な検証が行われることはなく、牛腸の姿が不在のまま、例外なく淡々と映写されていく。
こうした映像の収集は、撮影担当の田村正毅に委ねられている。三里塚のドキュメント映画で知られる小川紳介のプロダクションで撮影スタッフを勤めた経験もある田村は、映画の世界では<何ごとかではないことを撮ろうとする>人として知られているようだ。私が田村の撮影であることを意識して観たいくつかの映画についていえば、ほとんど何も写さない、というより「画面の外」を撮っているのではないかと思われる場合さえあるのが印象的な映画撮影者である(3)。ある有名な映画監督による劇映画の撮影スタッフを頼まれたとき、その監督があれを撮れこれを撮れと命じるのに嫌気がさし、途中でやめて帰ってきてしまったという人でもある(2)。
映画監督にはカメラアングルを自分で決める人とそうでない人がいるが、この作品の場合、佐藤は撮影を田村に完全にまかせているようだ。かくして、一般のドキュメンタリー映画ならば場面転換後の各シーンのイントロのような役割を果たすだけであろう「風景」の映像ばかりが、その場面で車が走る音や風の音を背景として静かにつながれてゆく。しかしそれらは驚くほど豊かに「画面の外」にいる牛腸茂雄という人物への想像力をかきたて続け、冒頭と終わりに画面に映し出される木が風にざわめく揺れと音に誘われて、この映画の時間は毎秒ごとに、牛腸の写真が私たちの目に触れる期待に満ちた「きざし」をいきいきと映し続けてやまない。
佐藤は、牛腸の写真に写っている人物、とくに子どものまなざしの「見ている側のこちら側が見返されているような鋭利」(4)さにひかれて「評伝でも作家論でもない」「『牛腸茂雄の撮った写真の眼差し』を主題に据えた映画」*を撮ろうとしたのだという。
写真を見る側が見返されるような視線とは、何だろうか。
佐藤はそれを「あらゆる意味から自由だからこそ、見る者の心を射ぬくような磁力」*だといい、それは「写された当の本人にも、撮った側の写真家にも帰属しない何ものか」*だという。そして「写真という表現の本源を領海侵犯してしまう」*からと、映画の中でその視線について深追いすることはせず「謎は謎のままでそっくりそのまま観客に提示」*している。この謎は「意図や意味づけといった言葉に依存すると、途端に消え失せてしまうようなか弱い存在でもある」*からだ。したがって制作者の意図的な結論への誘導をいっさい排した<か弱い映画>(映画はひとつながりの時間の流れの中で鑑賞するものである以上、流れを感じにくい映画は一般には弱い印象を与える)によってこそ、この謎の鋭さはみずみずしく伝えられた、というべきだろう。
しかし、被写体にも撮影者にも帰属しないものが写真の中にあるのだ、といわれると、それがいったい何なのか、あえて「かすりもしない」ことを覚悟で考えたくなる。その何かが本当に「言葉に依存すると、途端に消え失せてしまうようなか弱い存在」であるならば「かすりもしない」可能性はかなり大きいが、私もまた牛腸の写真の<見つめ返すまなざし>に、すこし違った意味でとらわれてしまった者として、この<まなざし>について考えてゆきたいと思う。
一九四六年に新潟県加茂市に生まれた牛腸は、三歳で胸椎カリエスを患い、身体に障害を負った。長生きはできないだろうと医師に言われたが、ひとり上京して桑沢デザイン研究所に入学、ここですぐれた写真家・批評家で、教育者としても多くの後進に影響を与えた大辻清司に教わったことで、自身も写真家の道を歩んでいく。『日々』(同級生の関口正夫と共著)、『SELF
AND OTHERS』『見慣れた街の中で』の三冊の写真集を出版し、八三年に三十六歳で亡くなっている。
私はこれまで、牛腸の写真をそれほどよくは見ていなかった。というのも、牛腸の場合はそのプロフィールと写真がややいびつなまま結びつけて語られすぎているように思え、率直に牛腸の写真と向き合うことがなかなかできなかったからだ。身体的ハンディのあった早世の写真家、という表現は、私もその通りのプロフィールを書くわけで、やむをえないとは思うが、彼の写真に特徴的に見られる、中心となっていると思われる被写体からやや引いた感じの構図であるとか、子どもを熱心に撮っていることなどから語られてきたさまざまな写真のディテールに関する印象批評は、不当に彼の身体的特徴や短かった生涯に寄りかかっているように思われたのだ。
被写体が小さく写っていること、強引に迫って撮っていないことを、気持ちのよい距離感だというのはともかく、それが彼の身体的な障害によるものだとか、彼が普通の大人よりかなり小さい人だったので子どもの視線と同じカメラの高さで撮影できたのだというようないいかたには、かりにそれが事実だったとしても、私には違和感がある。
あらためて私が指摘するまでもないことだろうが、主となる被写体が写真のフレーム内に占める大きさ(背景との比率)の印象を、撮影者と被写体の距離感という言葉に単純に置き換えてしまうことはあまりに素朴なリアリズムであり、写真を撮っているかたならば奇妙に感じないはずがないだろう。実際に撮影者が被写体に向かって立っているその「距離感」と、ファインダーの枠内に被写体がどれほど写っているかという感覚は、使うレンズによってもかなりの差があるからだ。それにこの文脈は、『SELF
AND OTHERS』ではなぜ親しい友人をわざわざ「引いて」撮っているのかということの解説にはならない。一方、子どもの目線の高さ、という表現には、普通の大人とは外見の違う牛腸を見ている子どもたちの様子を想像することを避ける方便でもあるかのように単純に、低い位置から子どもを撮ればそれがよい「子ども写真」だと先にいいくるめてしまう、ほとんど幼稚といってもいい態度が露見してしまっている。
奇妙なことに、こうした見かたをいまだに支え続けているのは、もとはグラフィックデザイナー志望で桑沢に入ってきた牛腸が基礎課程で実習した写真が「他の学生に比べるとずば抜けてすぐれていた」(5)ことを早くから見てとり、「彼の写真の才能を見過ごしにするわけにはゆかなかった」(5)という大辻清司その人の言説である。
「健康な肉体への憧憬であり、ことに幼児や少年の活発でのびやかな様子には、寄せる思いがあからさまに見てとれる」(5)
「どちらかといえば否定的な境遇のもとで頑張る孤独な姿への共感と思いやりである」(5) 実作者としてはモダニズムのクールさを透徹したかのような写真を発表している人が、牛腸の写真についてはなぜこのような情緒に流れたのかは私の知るところではないが、かりにそれが大辻と牛腸の長きにわたる師弟関係(卒業後も牛腸はおりあれば大辻を訪ね、その謦咳に接することを尊しとしていたことが、映画『SELF
AND OTHERS』で読み上げられる姉への手紙からもわかる)による、深い理解と共感からだったのなら、なぜ大辻自身が牛腸の写真を「コンポラ」という当時の若手の写真活動の一潮流をやや雑駁に示した言葉のお手本写真のように扱ってしまったのか、という疑問は残る。
いまでは、すでに多くのかたがこの「コンポラ」という言葉に聞きなじみがないものと思う(6)。これは、六〇年代末の日本の若手写真家たちの一部に共通して見られる気配のあった傾向を、六六年にアメリカのジョージ・イーストマン・ハウスで開かれた写真展「コンテンポラリー・フォトグラファーズ」(CONTENPORARY
PHOTOGRAPHERS TOWERD A SOCIAL LANDSCAPE)に選ばれた写真家−−ブルース・ディヴィッドソン、リー・フリードランダー、ギャリー・ウィノグランド、ダニー・ライアン、デュエイン・マイケルス−−の、それぞれに私的な視点による、日常的な眺めを傍観者的な態度で撮った写真の傾向(7)に照らして、「コンテンポラリー」のいかにも日本的な短縮形で「コンポラ」と呼んだというものだ。その定義を初めて活字にしたのはやはり大辻清司のようである。彼が写真雑誌に書いた「主義の時代は遠ざかって」(8)における定義はよく引用されるので、ここでは後になって写真評論家の渡辺勉を通じて述べられたその定義をひいておこう。
「ぼくは、コンポラを大辻清司君が最初に定義したような意味で受取る。簡単にいえば、ヨコ位置で、やや水平線が斜めになって、人物はたいてい画面の横の方にちょっぴり出てくる。動いている人物でもむしろ動かない状態でとらえる。それでちゃんとピントは合っている。素材はきわめて超日常的なもので、決して大きな出来事やアクシデントを対象にしない−−そういうのを、ぼくなんかはコンポラというふうに考えている。」(9)
そしてこの「コンポラ」という言葉は、その前の時代、すなわち50年代のアマチュア写真界を席巻した「リアリズム」の退潮に追い打ちをかけるがごとく、その「定義」とはかなり違った「アレ」「ブレボケ」などと呼ばれた表現方法をとっていた中平卓馬たちの写真までをも含みながら、同時代の写真家たちの作風を示す言葉へと成長していったのである。
実はこの構造は、ほかならぬ「リアリズム」が、ひとつの写真雑誌を舞台に土門拳によって主張されたとき、それが花鳥風月を旨とした戦前からの微温的な「サロン写真」を批判するベクトルを持っていたのと同じである。このような構図は、70年代いっぱいまでは写真という文化のメッセンジャーの役割を担っていた写真雑誌の要請によって作られていった部分も大きかった。当時は写真雑誌各誌がしばしば同時代の写真の傾向を概観する特集を行っており、評論家たちも、さまざまな写真家個々のありように自身も一個人として切り結ぶよりは、状況の総括者・解説者として、写真界における傾向や思潮などをとりまとめることを求められて応じることが多かったようだ。
ただ大辻が「コンポラ」という現象を定義したのには、かような写真雑誌の状況もさることながら、六〇年代末、という時代のことを想像しておく必要があることはいうまでもない。全国の学園で澎湃として巻き起こった解体・解放の闘争を教育者の側から見ていた大辻が、東大でも日大でもない、桑沢デザイン研究所という場所に牛腸茂雄という「時空を超えた空想のオデッセイ」(5)の編み手を見いだしたときの感慨には、ひとかたならぬものがあったことは想像できる(10)。
「横位置が多い」「カメラの機能を最も単純素朴な形で使おうとする」「取り上げる対象が、日常ありふれた何げない事象が多い」(8)……軸となる定義はじつは「コンポラ」とはまったく共通点のない写真表現に見える「アレ」「ブレボケ」にもそのまま当てはまってしまうのに、それでもなお六〇年代末から七〇年代初めにかけて「コンポラ」が「コンポラ」というスタイルとして存在しえた事情を考えるとき、このころの若者といえばつい、機動隊との攻防に「屹立する」安田講堂の映像でイメージしてしまう私たちの想像力の外側に、それを遠くから眺める相当に多くの「傍観者」たち−−しかもなお何らかの形で群れずにはいられない人びと−−の視線があったことを忘れてはならないだろう。「社会的現実に対する写真家その人のまともからの体当たりとしての絶対非演出の絶対スナップ」が「写真家という名の芸術家として、この社会に何ものかをプラスし得る唯一の創作方法」(11)だという言説を静かに拒絶し、なおかつ被写体がある意味ではその言説の方法以上に明確に写されている−−強い傍観者とでもいうべき写真家たちによって撮られた小さい写真の集積の持つ力が、当時あまりにも「わかる」か「わからない」かで議論されることが多くなりすぎた写真状況に一石を投じることができるのではないかという期待値は、それなりに高かったはずである。
さて、私がいいたいのは、その期待を一身に背負うべく写真雑誌に引用されもした牛腸の写真は、ここまで書いてきた「コンポラ」をめぐる同時代の状況とは<まったく>関係ない存在であった、ということである。
雑誌への発表はやめる、と、牛腸は姉への手紙で書いている。自分の写真は雑誌向きではなく、写真集での発表が大切だというのだ。牛腸の考えは明らかである。牛腸が求める写真の発表形態には、雑誌では掲載しきれない相当数の写真点数が必要であり、なおかつ自分ひとりが編集者として決めた写真の選択と配列が、ひとつのシリーズの唯一の最終形でなければならない、ということだろう。かりに牛腸の方針がその通りだったなら、牛腸の『SELF
AND OTHERS』に現れた<まなざし>は、確かに「写された当の本人に」「帰属しない何ものか」であることに変わりはないのだが、それは「撮った側の写真家」である牛腸、正確には自分の撮った写真からこの「何ものか」を選びとり発表しようとする牛腸なしでは、<まなざし>としてさえ存在しえなかった「何ものか」であったということがいえる。それはすなわち、
「30歳−−よくもまあ生きてきたものだ」
「自分の仕事に決着をつけなければならない」(12)
と自らに語り聞かせる牛腸が写真家としてどこまで挑むかという命題からほとんど必然的に現れ選びとられた、写 真がその機能において発する<まなざし>なのだということを私は確信する。
------ [#2]へつづく ------
この章は全編を3回に分けてお届けします。 お楽しみに。
(1)東京・渋谷のユーロスペースにて6月下旬まで公開の予定。
佐藤の監督作品には、新潟水俣病患者のドキュメント『阿賀に生きる』(92年)、
知的障害者のアート活動をみつめる 『まひるのほし』(98年)、 『花子』(01年秋公開予定)がある。
(2)『アサヒカメラ』2001年5月号
(3)近年の劇映画では諏訪敦彦『1/2デュオ』
(4)『日本カメラ』2001年5月号/*印の「」内も同じ
(5)『SELF AND OTHERS』未来社刊の復刻版・1994年
(6)80年代後半から、当時を過ごした写真関係者とも出会う機会があった私自身、彼らからこの言葉を聞いた記憶がない。
(7)彼らの行っている撮影の現場に「私的」「日常」「傍観者」という言葉が必ずしもそぐわないことはいうまでもないが。
(8)『カメラ毎日』1968年6月号
(9)『アサヒカメラ』1972年5月増刊号『現代の写真'72』
(10)牛腸は65年入学〜68年卒業。桑沢デザイン研究所に全共闘運動があったかどうかを私は調べずにこの文脈を書いた。教えてくださるかたがおられたら幸いだ。
(11)『カメラ』1953年10月号の土門拳の発言。
(12)牛腸の手紙から
牛腸茂雄 ごちょう・しげお 1946年新潟県生まれ。幼時の病気で身体に障害を負う。桑沢デザイン研究所で写真を学ぶ。東京造形大学などの非常勤講師をつとめる。78年、日本写真協会新人賞受賞。三冊の写真集、インクブロット作品集『扉をあけると』を残し、83年に36歳で亡くなる。
佐藤真 さとう・まこと 1957年青森県生まれ。東京大学文学部卒。現地で生活をともにしながら撮影した新潟水俣病患者のドキュメンタリー映画『阿賀に生きる』(92)年で高い評価を受ける。近著に『ドキュメンタリー映画の地平−世界を批判的に受けとめるために』(凱風社・上下巻)がある。
|