というわけで「なな」というものが存在することになろう。そして日本語で「なな」と呼ばれていると考えられるものが。
呼ばれているものでも、考えられるものでもなく、呼ばれていると考えられるもの、などというくどくどしい言葉遣いをしなくてはならないのは何故だろう。斯く斯くと呼ばれているものは、通例、そうと考えられるものであり、また、斯く斯くと考えられるものはそうと呼ばれているのではないか。それとも、やはり、仕来(しきた)る通り、のこる三つの組み合わせを召喚すべきだろうか。「なな」と呼ばれていると考えられるものが存在することになるというのであれば、呼ばれていると考えられないもの、呼ばれていないと考えられるもの、そして呼ばれていないと考えられないものたちについても、まずは等しく存在と非存在とを考察すべきだろうか。いやむしろ、倒れ込むことの性急さから/性急さのうちに身をそらし、まずは始めの問いに沿うてみよう。何故ほかならぬ「呼ばれていると考えられるもの」が存在することになると言われなければならないのか。
J・デリダにおいてであれば――というのも冒頭に読まれるのは彼の構文を借用したものであるから――、その理由の一端はあきらかである。「呼ばれているもの」とは、とある名(!)を付けられているものであり、「考えられるもの」とは、実際にはどうであるかにかかわらずそうと見なされているものである。そうしたものたちと、(実際にはどうであるかにかかわらず)とある名を付けられていると見なされるものとのあいだには、必ず隔たりがある。更には、(実際にはどうであるかにかかわらず)とある名を付けられていると見なされるものと、(実際にはどうであるかにかかわらず)そうと見なされないものとの間に隔たりがある。デリダは「パピエ-マシン」と言った。文字通りに引くならば「フランス語でパピエ-マシンと呼ばれていると考えられるもの」(『パピエ・マシン』中山元訳)が存在することになると言ったのだ。彼は、パピエ(=紙)すなわち身分証明書のマシーン(=機構)と書き、パピエを欠く〔sans〕=サン・パピエ(身分証明書を持たぬもの)のことを、「私たちの誰もがいま存在する場所で、すでに〈サンパピエ〉であること」(前掲)を問うた。では翻って、冒頭で「なな」と言ったとき、はたしてわれわれは何を問うていたのだろうか。「なな」を欠く=サン・ナナ? それならトーに決まっている。
清輝翁に『七』と題する小品がある。そこには、ベルリンの下宿の七号室に越して来た隣人が「七」に示す不可解な執着、彼が「七」への偏愛によって命を落とすまでの顛末、そしてなにより「七」という数字の不思議が描かれている。曰く、不動明王の像が頭に持つ、七つの智恵の部門をあらわす七つの瘤。マルタ島にある石器時代の寺院の、石に刻まれた(!)七人の女像。地下への降り口に七つの階段を持つ寺院があり、七つの部屋からなる寺院もある。アルカディア人は第七曜日を
"Sabatuv"(サパトフ)と称し、これを「安息日」(=Sabbath)とした。 エジプト人もバビロニア人も地獄の蛇には七つの頸と七つの頭を持たせ、女神イシュタアルはその地獄へと七つの門を通りて下る。欧州各地にあるトロヤアブルグといわれる迷宮(!)は、そのほとんどが七つの壁か、七つの廻り道から出来ている。地球の軸は、ほぼ七年の周期で章動(!)する……。
花田の書かなかったことをいくつか書こう。まずは「七」をナ・ナと分節しよう。ナとは、すでにはるかに見たように「名」であり禁止の「な」でもある。だが、この二つの「名」「な」から「なな」が発したのでは無論ない。管啓次郎『コヨーテ読書』に読まれるように「最初に単音節の単語が生まれ、使用され、ついで時代を経て二音節の単語が発明されたのではなく、『二音節』(ないしはそれ以上の複数の音節)の可能性にめざめることではじめて、単音節の発声も単語として自立できるように」(「Fogo,
agua, vida(火、水、生)」)なるのだし、そも「なな」は満州・ツングース方言 nada (七)の借用転音なのだから。それこそ
nada =無、ゼロ、トーに決まっているわけだ。「七」は仮借(かしゃ)による字で――仮借とは音を借りること、適当な文字のないときに同音の文字をもって代用することである――「切断した骨の形。これに刀を加えると切(き)るとなる」(白川静)。「七」が文字通り「ナ・ナ」と切断され二分(にぶん)された如く、「seven」を「s
- even」と切断(section)し二分(even)するならば、そこには二つの平面が現れることが即座に知れよう。この二つの平面とはなにか。
「芸術の意味を理解している人は少ない。表象行為においては(絵画であれ文章であれ)、対象物は同一の『平面』に並べられ、その『平面』は物質的に構成される。表象の平面は実在し、それはわれわれの経験しうる『現実』の一部であると同時に、『現実』そのものの提喩として突出している(『物自体』の世界に触れえない人間の生きるいわゆる『現実』はそれ自体『表象』たらざるをえず、その上で絵画なり文章なりといった二次的『表象』行為が意識的に行われる)。この表象行為のからくりを見きわめることが『悟り』だ。つまりいわゆる『物』があってそれを『描く』という操作から、いわゆる『物』さえもが元来ただ『描かれたもの』にすぎないという機構の理解へと表象の階梯を降りてゆく」(管、前掲中「二つのエピグラフ」)。管はもちろん道元の話をしている――にもかかわらず/がゆえにこそ、突然ここで問うてみたい。写真は「表象行為」と「呼ばれていると考えられる」ものだろうか。それとも呼ばれていると考えられないもの、呼ばれていないと考えられるもの、呼ばれていないと考えられないものなのか。サン・パピエとは写真を欠くことの謂でもあろうが、それはイメージを欠くことにつながるのか。あるいはこうだ。写真の「平面」は「表象の平面」として「実在」するが、さればイメージのそれも「表象の平面」として「実在」するとはいえないだろうか。いわゆる「物」があってそれを「撮る」というイメージング操作から、いわゆる「物」さえもが元来ただ「描かれたもの」にすぎないというイメージング・マシーンの理解への……、いや、違う。もう一方の階梯を遡らねばなるまい。
「ほんとうは『通常の視覚』というものも、フロイトが『意識』について指摘したように、あくまで『記述的』な用語にすぎないのだ。『知覚の行為そのものは、なぜあるものが知覚され、あるものはされないかについては、いかなる情報も与えない』(『自我とエス』)。なぜあるものが見え、別のものは見えないのか、視覚そのものはその情報を与えない」(宇野邦一『反歴史論』「無意識・映画・存在論」)。――七つの名(な)。どうもいささか急ぎすぎたようだ。ここから遥かに振り返り、あるいは思いもかけず還ることにしよう。何処へ? それこそトーに決まっている。
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