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last up date 2005.3.4.

6. ── (h)another 


 手はじめに別の話、もうひとつの視覚方言〔eye dialect〕の話をしよう、あるいはもうひとつ〔another〕という視覚方言についての話を。目を閉じては読むことができず、とはいえ目を閉じて読むほかないこの視覚方言=視覚なまりなるものは、ここで窓をなしているわけだが、してみれば、窓があるのは目を閉じているからであり、目を開いてこそ窓のないことに気付くのだ。しかしその逆も成り立つ。窓があるのは目を開いているからであり、目を閉じてこそ窓のないことに気付くのだ。まだある。窓がないのは目を閉じているからであり、目を開いてこそ窓のあることに気付くのだとも、窓がないのは目を開いているからであり、目を閉じてこそ窓のあることに気付くのだとも。いや、別の話をするのであった、もうひとつの話やら、視覚方言の話やら、もうひとつの視覚方言の話やら、もうひとつという視覚方言の話やら、いずれにしても窓の話ではなくて。あるいは少なくとも窓のない話ではなくて。――ここで、話はモナドをメグると考えることは如何にも早計に過ぎよう。さしあたって今のところは、窓のないモナド〔windowless monad〕を想起するのではなく、モナドのない窓〔monadless window〕に想到すれば足る。けだし窓は扉ではなくて。

 例えば "window" は、wind 〔風〕+ -ow 〔目〕をその語源とし、風の出入りする穴を原義とする。おお懐かしき語源、その原義。古英語(!)において、窓は eage (= eye)+ thyrel (= hole)からなる eagthyrel と書かれ(語頭の e には横棒が冠され)、目のように開いた穴となる。古高独語(!)では augatora、すなわち auga (= Auge/eye)+ tora (= Tor/gate)で目の門をなす。まだある。「まど」は目・戸(ま・と)、あるいは目・門(ま・と)であるが、戸は片開きの扉、門は両開きの扉の形である。けだし窓は扉ではなくて――あるいは「窓」には扉はなくて――、それは空に枠をなす穴=天窓の字である。風が出入りする。

 いや、別の話をするのであった、少なくとも窓のない話ではなくて――窓のない話ではなくて?――。されば端(はな)からの企図どおり、もうひとつの視覚方言〔eye dialect〕の話をしよう。よもや誤解するものはあるまいと思うが、"dialect" 〔方言〕とは、標準的ではない、野卑な、あるいはごく限定された言葉遣いの謂(いい)ではなく、言語学的には idiolect (個人言語=一個人のある一時期における発話の総体)との対比で用いられる、言語集団の言葉を指す中立的な用語〔term〕である。いわゆる「標準語」も dialect の一つであり、ひとつの言語(language)は――もし数えられるならば――複数の方言(dialect)の総和である――もし数えられるならば――。dialect は dia-〔横切って〕+ lect〔話す〕=話を交わすことであり、dialogue 〔dia- 横切って+ logue 話す=対話する〕と同根であるのだが、奇妙なことに idiom 〔イディオム〕とほぼ同義にも用いられ、その場合にはある集団に特有の言い回しを指す。問うまでもなく idiom は、idioma 〔私有財産、私有地〕から生まれ(語中の o には横棒が冠され)、個々の語義からは総体の意味が類推できない語句、表現、あるいは言表の体系をいう。

 どうやら dialect は eye を置き去りにして、すなわち eye は後置されて。されば重ねて端(はな)からの企図どおり、もうひとつ〔another〕という視覚方言の話をしよう。よく知られているように、何かを「もうひとつの」と言い、「別の」と言いうるには、すなわち "another" と言うためには、それが数えられなければならない。窓が一つ、窓が二つ、窓が三つ……、もうひとつの窓、別の窓、別の窓とは別の窓……。もちろん、数えられるとは、単に客体が可算的であるのみならず、主体がその計数を遂行可能であることをも要請する。Just another story、いつもと変わらぬ/別の話。少なくとも二つ、多くとも二つ。かたや数えられない「別の」ものは、"other" 〈他〉と呼ばれ、冠詞を冠することで "the other" 〈他者〉となる。これもまた Just another story、いつもと変わらぬ/別の話。別(わ)けてもよく知られているように、〈他者〉とは、「私の知覚野の中に現れる客体ではなく、私を知覚する別の主体でもないのだ。他者とはなによりもまず、それがなければわれわれの知覚野の総体が思うように機能し得なくなる様な、知覚野の構造そのものなのである」(ジル・ドゥルーズ『原子と分身 ルクレティウス/トゥルニエ』原田佳彦+丹生谷貴志訳)。

 ここで another を後置して――とはいえ another にしてからが、視覚方言を後置していたのだが――、トゥルニエを引いてみよう。「これが他者というものなのだ。すなわち、すべてを現実として執拗に進行させてゆく可能的世界である。そしておそらく、こうした可能的世界の必死の進行を捨て去ることは気違いじみており、エゴイスティックな、非道徳的なことであるに違いない、これこそロビンソンに孤島の生活が教えてきた全てだった。」(ドゥルーズ前掲、「ミシェル・トゥルニエと他者なき世界」丹生谷訳、トゥルニエ後出からの引用部分)。まだある。「この現実こそ他者、つまり現実と思わせようと必死になっている実現可能なものだった。たとえこの要求を却下することがいかに残酷で、手前勝手で、背徳的であろうとも、それこそこれまでの全教育がロビンソンに繰り返し教え込んだことだったが、……(略)」(ミシェル・トゥルニエ『フライデーあるいは太平洋の冥界』榊原晃三訳)。Just another stories、たがいに変わらぬ/別の話。少なくとも二つ、多くとも二つの。

 後置記法〔suffix notation〕は、その名の通り、オペレータ(operator=演算子/作用素)がオペランド(operand=演算対象/作用対象)の後ろに置かれる=後置される表記法である。例えば、一般的な中置記法〔infix notation〕による演算式 a + b は後置記法では a b + と書かれ、中置記法の (a + b)×(c + d) を後置記法は a b + c d + × と書く。すべての演算は、式の各項〔term〕を先頭から順にメグり、オペランドであればそれを一時記憶(スタック)し、オペレータであればスタックから最新のオペランドを二つ取り出して(pop して)オペレートし、その結果をスタックし直すことで進行する。中置記法とは異なり、括弧を用いずとも複雑なネスト(入れ子)が可能――例えば、中置記法の (a + n) / (o - t( h - e × r))は後置記法では a n + o t h e r ×-^-/ ――であることがまず見てとれるが、むしろ注目すべきは、式の総体を俯瞰せずとも、つまり演算すべきオペランドの階層を明示的に指定せずとも、先頭から一意の順序で処理を遂行できる点である。要は、ひとつひとつメグること、スタックすること、そして少なくとも二つの、多くとも二つの、いつもと変わらぬ/別のオペランドをオペレートすること。俯瞰せず、一望せず、オートマトニック〔automatonic〕に。――ここに小さな窓(チューリング)がある。

 いや、別の話をするのであった、とはいえ別の話というからには、別ではない話もあるわけだ。けだし別の話とは別の話というものが。すなわち、未だ見えぬ(がゆえにこそ、)勢子(せこ)として、われわれをここまで駆り立ててきたもうひとつ話というものを、駆り出されたがゆえにこそ後置して、われわれは別の話をするのであった。さしあたって今のところは、その勢子を〈他〉といえば足る。されば重ねた端からの企図どおり―― pop、pop ――、もうひとつの視覚方言という窓の話をしよう。あるいはもうひとつという視覚方言の窓の話を。まだある。もうひとつの窓という視覚方言の話やら、もうひとつという窓の視覚方言の話やら、視覚方言というもうひとつの窓の話やら、視覚方言のもうひとつの窓という話やら。まだあるかな? いずれにしても〈他〉の話ではなくて。あるいは少なくとも〈他〉のない話ではなくて。――ここで、話はモナドをメグると考えることは如何にも早計に過ぎよう。さしあたって今のところは、〈他〉のないモナドを想起するのではなく、モナドのない〈他〉に想到すれば足る。けだしメグるとはブラインド〔blind=よろい戸、盲目〕の謂(いい)で。

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