ふたつの書き出しがともに互いの前提をなしあい、お互いを前提しあって、そのいずれからも踏み出すことができない。前提をなすものは他に先立ち=先行するものであり、この場合、文字どおり書き出し〔incipit
= "here begins"〕の位置を占める〔fall on〕ことによってそれをなすのだ。しかじかの位置を「占める」とは標(しめ)=注連(しめ)を張って領有のしるしをなすことであるから、なによりまず降り立つ〔fall
on=襲撃する〕必要がある。降り立つものは踏み出したものだ。どこから? 一方が先立つには先ずそこから踏み出すべき他方に先行されねばならず、他方が先行するには先ず一方に先立たれねばならない。先立つこと、先行することを一方が放棄して他方に先を許すとき、事態は一挙に容易になるかにみえる。だが一方はそのときすでに書き出しではなく、他方の前提をなすことをやめている。「先を許された」他方はそこから踏み出すことができない。もはや降り立ち、襲撃し、領有のしるしをなすことはかなわない。先は一向に許されていないのだ。その逆も然り。而して一巡の後に、自らが自らに先立たれているのだという類の再帰性を退ける限り、ここから始めるのは不可能であり、にもかかわらず始めずにおくこともまた不可能である。このとき時間を稼ぐのは良いことだ、あるいは時間を与えることは。例えば――例えば(!)――、同じことを二度言うこと。例えば、例えば、しめ、しめ、fall
on、fall on、……。とはいえ先を許されたい――この「先」は先(さっき)の「先」ではない。その逆も然り。許すも然り。「許す」も然り。
あきらかに、ひとつの〔a〕な〔na〕がかかわっている。あり得べき誤解を避けることから始めるならば、ここでの「ひとつの」は、「ただひとつの」と読まれるべきではなく――たとえそれを想起せずにおくことがどんなに難しいとしても。だがその難しさを忘れずにいよう――、「とある」と読まれるべきである。とある〔a〕な〔na〕がかかわっているのだ、あきらかに。してみれば、「な」は、「名」とのみ読まれるべきではなく、禁止の「な」とも読まれるべきである――たとえそれらを想起することがどんなに安易だとしても。だがその易しさを忘れずにいよう――。名〔nom〕であり禁止〔non〕である「な」、しかも「とある」と読まれる「ただひとつの」ではない「な」。而して、とある切断と転倒とを想起せずにおくことは難しい。それとも転倒と切断と言おうか。切断の転倒と言おうか。転倒の切断と言おうか。時間を稼ぐのは良いことだ、あるいは時間を与えることは。とはいえ先を許されたい。
いまだコトはさしてあきらかではないのだから、直裁に「名」指すことにしよう。切断は「右上ななめ後ろから肩越しに射す」線の一撃〔slash〕によってなされ、その線
"/" をスラッシュと呼ぶ。スラッシュは、多くの場合、降り立ち=一撃するとともに re-接 をなし、切断するものを接合し、むしろ接合するために切断する。カーク/スポック、ホームズ/ワトソン、スタスキー/ハッチ、……。流れに沿って見るなら、スラッシュは(ここで切り上げるとしない限り)逆を向いており、むしろバックスラッシュ〔backslash〕
"\" こそが順方向に降り立ち、一撃し、切断し果(おお)せる。バックスラッシュは周知のようにエスケープをなし、後続するものから逃れ、あるいは後続するものを逃す。あるいは先行するものを逃し、先行するものから逃れる。カーク\スポック、ホームズ\ワトソン、スタスキー\ハッチ、……。スラッシュ(barre
oblique =斜線)は引き寄せ、バックスラッシュ(barre oblique inversée =逆-斜線)は押し分け、パイプ
"|" 〔barre verticale =垂線〕 がその狭間に降り立つ|を一撃する|を占める。ここに読まれるように、パイプもまた切断し選言する。その働きは、しかし、先行する要素と後続する要素との間に作用するのではなく、すなわち要素同士を作用させることではなく、諸要素を順に可能な流れに/可能な流れを順に諸要素に供することに存する。――諸要素を順に可能な流れに|可能な流れを順に諸要素に、ではなく、諸要素を順に可能な流れに\可能な流れを順に諸要素に、でもない。
あり得べき誤解を避けることから始めるならば、想起せずにおくことの難しい「転倒」が先に易しく想起(を許)された時点で名指さんとしていたのは、こうした線の運動
"\|/" ではない。そもこの運動 "\|/" は、「転倒」と呼びうるものではなく――
"\" は転倒してなお "\" であり、"|" は転倒してなお "|"
であり、"/" は転倒してなお "/" である――、むしろ「転頭」=「章動」〔nutation〕と呼ばれるのだ。アサガオのつるの回旋(!)転頭〔circumnutation〕、太陽章動〔solar
nutation〕、月の章動〔lunar nutation〕、……。「たがいに交じり合い、たがいによって発展し、たがいに反作用を及ぼし合い、そして、決してその謎を失うことなしに組織されていく」(ジル・ドゥルーズ『狂人の二つの体制
1983-1995』p.248、「リヴェットの三つの環」守中高明訳)ジャック・リヴェットの三つの環の切片(セグメント)。章動をなす太陽と月とがそれに「大いなる外在的円環」をつける。S*L
nutations。奇跡のダイアグラム。
いまだコトはさしてあきらかではないのだから、直裁に名指すことにしよう。転倒は「n/」 によって、すなわち 'n' とスラッシュとによってなされ、an/a
が転じて a/na となす。――これは遊びだろうか? 遊び〔play〕は、弛み〔slack〕とガタ〔backlash〕とを含むのであり、もはやスラッシュ〔slash〕とバックスラッシュ〔backslash〕とを想起せずにおくことは難しい。さらに易しいのは
"S" と "L"、太陽と月とを想起することだ。太陽と月が、弛み、ガタつき、遊び、回る。この章動を忘れずにいよう。たとえそれを想起せずにおくことがどんなに易しいとしても――
'n' は、視覚方言〔eye dialect〕と見るならば、and の縮約と読むことができる。そしてわれわれはようやくたどり着いたと言うことができる。例えば、例えば、視覚方言を見るとき、視覚方言を見るとき、われわれは、目で読んでいる。想起せずにおくことの難しさと想起すること(を許すこと)の易しさとを峻別することなく見るとき――なにしろふたつは「ほぼ」同じことなのだ。ほぼ同じことを二度言うことは、時間を稼ぐ/与えることだろうか、稼ぐ|与えることだろうか、稼ぐ\与えることだろうか。いましも三度言われたことはほぼ同じことだろうか。ほぼ同じことは、繰り返されることで同じことへと転じはしないか。同じことは、繰り返されることでほぼ同じことへと転じはしないか――、われわれはその行為を「読む」という。イメージとシンボルとを分かちつつも切り離しはせず、ただちに接合し、あるいはその生起の順を等閑に付して、スラッシュライクに見ることが「読む」ことなのだ。とはいえ先を許されたい。ここで「目で読む」が対比さるべきは、「耳で読む」でも「目で見る」でもなく「目が読む」なのであり、而して「目で見る」と「目が見る」とがツイに逢着する。
「目で見る|目が見る」には、あきらかに、とある名がかかわっている。これを直裁に「クレーリー」と名指すとき、事態は一挙に容易になるかにみえる。ジョナサン・クレーリーが『観察者の系譜――視覚空間の変容とモダニティ』(遠藤知巳訳)で論ずるのは、「目で見る」と「目が見る」との差異であり、十九世紀初頭にその位置を占める(イチ撃する)歴史的切断であり、またその切断が容易に
re-接するスラッシュでもエスケープするバックスラッシュでもなく、言うなれば諸々のアレンジメント(配置=配列)を順に可能な流れに/可能な流れを順に諸アレンジメントに供するパイプだということである。いや、もう少し用心深くなろう。可能な諸アレンジメントを順に流れに供するのでも、流れを順に可能な諸アレンジメントに供するのでもないことに留意しよう。パイプ
"|" の前後に供するのは、つねに「可能な」流れであり、すでに「異なる」流れなのである――これはパイプではない。中置記法〔infix
notation〕のオペレータではない。そう、決してこのキホーでは――。
章(あきら)かな微動はいまだ忘れられずにいるだろうか。太陽と月の章動は。ここには、あきらか〔explicit〕に、とある名がかわっている。とある名アルトー。そして月の子にして太陽の王ヘリオガバルス〔HELIOGABALUS〕。この名はシリアの太陽神エル-ガバル
EL-GABAL からきた。「エルは神の意で、H を伴うことも伴わぬこともあるが(!)、ガバルと融合すると HELAH-GABAL
となる」(アントナン・アルトー『ヘリオガバルス――または戴冠せるアナーキスト』多田智満子訳。驚嘆のエクスクラメーションは引用者による。以下同様)。「GABAL
とは/可塑的、形成的なもの。形をとり、形を与える語」である。「ところで/GABAL の中には(アッカド語の古い方言の)GIBIL
がある(!)。/GIBIL は破壊し変形する火、しかし火から生まれたフェニックス、〈月経-赤-火〉のゆえに女の象徴であるフェニックスの再生を準備する火の謂いである。」
再言するならば、形成するもの GABAL と破壊するもの GIBIL、相反するふたつがここに縮約されている。アルトーによるこうした語義の詮索と分析はまだまだ続くのだが、彼は「決して起源の意味を決定しようとしているのではない。……〔略〕……物語は、名前に含まれた奇妙な振動をめぐって進行するのだ」(宇野邦一『アルトー――思考と身体』)。
h を伴うことも伴わないこともあるが、ana の中には ini があり、果ては ono に流れる。ono は on であり no
であり non である。'n' を視覚方言と見るならば、a 'n' a はそれ自身の縮約と読むことができる。自らが自らに先立たれているのだという類の再帰性を退ける限り、ここから始めるのは不可能であり、にもかかわらず始めずにおくこともまた不可能である。a/na
の中には a (持っている、〜がある)があり、NA (Not Available=入手できない、もうない)がある。相反するふたつがここに縮約されて、ともに互いの前提をなしあい、お互いを前提しあって、そのいずれからも踏み出すことができない。前提をなすものは他に先立ち=先行するものであり、この場合、文字どおり書き出し〔incipit
= "here begins"〕の位置を占めることによってそれをなすのだ。しかじかの位置を占めるには、まず降り立ち=一撃する必要がある。とはいえ章動するよりほかに、われわれは降り方を知らない。このとき時間を稼ぐのは良いことだ、あるいは時間を与えることは。h
を伴うことも伴わないこともあるが、とある〔a〕な〔na〕がかかわっているのだ、あきらかに(explicit)。
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