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up date 2004.12.30

4. ── (h)an/a 


 もはや手詰り。(アッシュ)アン・リセッツ・ア。すでに論理はなく、書字はなく、場はなく。あるいは論理ではなく、書字ではなく、場ではなく。さらに縮約〔contract〕するなら、論理/書字/場(で)はなく。"contract" とは、語源的には――いや、よそう。もはや語源はなし。あるいは語源ではなし。縮約するなら、語源(で)はなし。

 手詰りとは、なすすべがないことではなく、なすすべがないことはなく――なすすべがないこと(で)はなく――、分析も、解剖も、構語障害も、首句反復も、歪像も、アナコンダもなお手つかずにある。なすすべなしとはすでに試したもののただひとつの言葉だが――「なすすべなしもっと小さく、なすすべなしもっと悪く、なすすべなし無、なすすべなしさらに」(サミュエル・ベケット『最悪への針路〔Cap au pire〕』エディット・フルニエ仏訳/宇野邦一訳)――、手詰りとはいまだ試さざるものの複数のひとりごとである。試さないのは見込みがないからだろうか。「これには見込みはない。あぁある」〔No future in this. Alas yes〕(ベケット『いざ最悪の方へ』長島確訳 p.17)。読まれるように、この「見込みはない」はただちに撤回されてその先が続けられる。だが先が続けられるのは見込みがあるからではない。悲嘆の「あぁ〔Alas〕」。ここでは「見込みはない〔no〕」が打ち消されて「見込みはある〔yes〕」に転ずるのではなく、「no〔ない〕 future」が転・回されて「non〔いな〕 future」と重ね書き(on)される。先を続けるのは「no(n) future=見込み(で)はない」からだ、縮約するならば。

 縮約されたものを縮約されたままにとらえるには、ある別の注意〔attention〕の様態を要する。あるいは別様の不注意といおうか。この(不)注意――縮約するならば――を反射的に「気散じ〔distraction〕」と呼んではなるまい。「(不)注意」に「気散じ」というひとつの名を与えること、それはいまだ別の様態ではない一方の「注意」に属するのだから。もちろん常に再帰的なミメーシスが要請されているわけではないし、再帰的なミメーシスとはあまりに再帰的なるものに信を置きすぎているし、再帰的なミメーシスがそもミメーシスであるのか甚だ疑問ではあるのだが、しかし少なくともここでは、注意をもって(不)注意をとらえる撞着は避けよう。縮約されたものを縮約されたままに(不)注意をもってとらえるとは、一方をとらえ、もう一方をとらえ、あるいはまだあるならばそれらを一つ一つとらえるとともに、一方をとらえ、且つもう一方もとらえ、あるいはまだあるならばそれらも共にとらえることである。例えるならば、「〜はない」をとらえ、「〜ではない」をとらえるとともに、「〜はない」と「〜ではない」とを共にとらえること。否定と不在とが縮約された「〜(で)はない」が要請するのは、こうした(不)注意の様態である。

 an、a を打ち消しの接頭辞とする言語は少なくないが、否定(〜ではない)と不在(〜はない)とがこの接頭辞において明確に区別されることはまれであり、サンスクリット語はその数少ない例外のひとつである。彼(か)の言葉においては、かかる表現を否定して他を指示する「非」=「〜ではない」として an / a が、かかる指示対象の存在を否定して不在をあらわす「無」=「〜はない」として nir が、明確に使い分けられる。ここでは、少なくとも語彙のレベルにおいて、「〜ではない」と「〜はない」との間に縮約可能な隔たりはなく――論理レベルが異なるのであり、隔たりをもって共にあるべき平面がないのだから。また、縮約とは、隔たりを手繰りよせ、重ね合わせ、ひとつの平面に畳み込むことなのだから――、「〜(で)はない」という縮約は生じ得ない。翻っていうならば、an / a は、他の多くの言語において、否定と不在のパランプセストをなす。そう、それがお好みとあれば、この縮約をパランプセストと呼んでもよい。そしてそれは好ましい。これからはパランプセストと言う。

 パランプセストのパランプセストたるゆえんは、すなわちそれと知れることにある。それと知れないならば、パランプセストはパランプセストではない。すでに書かれた文字をこすり落とし、鞣(なめ)し直し、その上から重ね書きされた羊皮紙のすべてがパランプセストなのではない。先行する文字が完全に消し去られているならば、その羊皮紙が何であるか、いかにして知ることができよう。すなわち、いまだ/もはやパランプセスト(で)はないのだ。かつての筆痕が不完全にしか抹消されず、あるいは思いもかけず浮かび上がり、その重ね書きが見てとれるものだけがパランプセストたり得る。したがってパランプセストを〈パランプセスト〉として読むとは、単に上層(イペル)テクストだけや下層(イポ)テクストだけを取り出して読むことにとどまるものではない。上層を読み、下層を読むとともに、上層と下層とをともにとらえて読む。そんなことが可能だろうか。そして否定と不在のパランプセスト an / a にそれを試みることは。

 「これには見込みはない。あぁある。

 それが立つ」
 (『いざ最悪の方へ』前掲)

 an と a の間に立つ、間を断つ離接線 "/"。包括的離接の包括的離接たるゆえんは、すなわちそれと知れることにある。それと知れないならば、いまだ/もはや包括的離接(で)はなく、そこには排他的離接が見いだされる。排他的離接(あれか、これか)は供するものの間を explode=爆破し、破裂させ、離散させるが、包括的離接(あれか、これか、あれもこれもか)は implode=内破させる。とはいえここでは外と内、外部と内部が問われているわけではなく、その区分け、境界、限界が取り沙汰されているわけでもない。排他的離接において、離接線はむしろ再び接合する re-接をなし、その作動はとどまるところを知らない。a1 か、a2 か、a3 か、…、an か。re-接線を用いるならば、a1 / a2 / a3 / … / an か。包括的離接において、離接線はむしろ再び切断する re-切をなし、その作動は内包にとどまるが猶とどまるところを知らない。a1 か、a2 か、a3 か、…、an か、a1 も a2 も a3 も…anも(すなわち a)か。re-切線を用いるならば a1 / a2 / a3 / … / an / a か。

 排他的離接にあるものは排他的注意を要請する。a1 に注意を払うならば a2 … an は気散じの状態に置かれ、a2 に注意を払うならば a1、a3 … an が気散じに置かれる。注意〔attention〕のベクトルがその尖端で対象を探るあいだ、ベクトルの尖端の周りに(=から逸れて/distracted from)気散じ〔distraction〕が漂う。あるいは気散じの中を注意のベクトルが漂う。注意と気散じとは対立するのではなく、いわば相補的なのだ。一方、包括的離接にあるものは別の注意の様態=(不)注意に供される。a1 に注意を払うとき、a2 … an は気散じの状態に置かれつつも別様の注意を(a として)享受する。このとき、注意はいまもなお、単一のベクトルをなしているのだろうか。気散じは何から/はたして逸れているのか。むしろ引き裂かれて毳(けば)立つ注意のベクトルとそれに孕まれて遊動する気散じとがともに漂っているのではないか。whole-cuts 的リセッツが要請するのは、こうした(不)注意の溶体である。

 パランプセストが書かれるのは、別の言葉を重ねるためである。すでに書かれた言葉をこすり落とし、鞣(なめ)し直し、その上から同じ言葉を書くことはおそらくない。だが、もし同じ言葉を書いたとしたら、そしてまさに〈パランプセスト〉としてそれを読むとしたら――なんと場違いな! 再び自らにあてられる飛び地とはこのことかもしれない――。

 いま突然、火が、a1 から徐々に燃えひろがり、すでにあらかた焼尽したとしよう。注意のベクトルの尖端をもってこれを探るならば、おそらく an の余燼が見いだされるだろう。これに手をかざし、目を凝らすもよい。だが、(不)注意の毳(けば)立ちでひと掃きするならば、そこには灰をかぶった an / a が残されていることが知れよう。

EOF

 


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