反復を期して。久しく始めあぐねたうえは、まるで新しく、こともなげに語りだすこともできようし、いま一度たやすく側方に手を延べて、バックスペースを何度か打ち、あるいはバックリンクをクリックし、先のテクストから続けることもできる。前者の方策においては、異なる事態が別の仕方で語られることになるだろうし、後者においては、異なる事態が同じ仕方で語られることになるだろう。
すぐにもそのいずれかを選びとり、投機的に言葉の流れを限定することから始めるべきだろうか。だが、倒れ込むことの性急さから/性急さのうちに身を反らし、弛緩の極からもう一方へといたる始まりのスペクトルをいましばらく走査するならば、同じ事態を語る別の仕方と、同じ事態を語る同じ仕方とが残されていることが即座に知れよう。始まりのこの四つの方策、四つの手立て──異なる事態を別様に語ること、異なる事態を同様に語ること、同じ事態を別様に語ること、同じ事態を同様に語ること。
第一のそれは端的に「無方策」の謂いであり、反復への恐れを徹底して欠いている。第二のそれはアナロジックに「アナロジー」と、第三はアナグラマティックに「アナグラム」と仮称できよう。第四のそれは「複製」であるが、事ここに至ってはすでに不可能であり、且つまたしても反復への恐れを徹底して欠いている。とすれば大方は明らかだろう。反復の弛緩した極とは、第四の「複製」であり、もう一方の極とは、すでに反復ならざる「無方策」である。その逆ではない。
では、すぐにも「アナロジー」と「アナグラム」のいずれかを選びとり、投機的に言葉の流れを限定することから始めるべきだろうか。それにしても選びとるよりほかに始め方はないものか。なにより性急さから/性急さのうちに身を反らし、四つの極、方策、手立ての傍らをすり抜けて、ここまで流れツイた目は、異なる事態を同様に語る別の仕方にほかならない同じ字態を別様に語る別の仕方をすでにいくつも見・留めて(see
anchor)いたではないか。
弛緩した反復をなすとは、保護を求めることだ。それは、「新たなものや予測不可能なものによって引き起こされるショックに対する保護戦略として理解されるもの」(see
パオロ・ヴィルノ『マルチチュードの文法』廣瀬純訳)であり、世界への(他人の眼差しへの)露出を避けんとする手立てである。弛緩した反復はハイファイな複製=再生産を旨とし、ローファイな模倣や二番煎じに甘んじるものではない。几帳面な弛み。きちきちのゆるゆる。すらっとしてもっちり。それはフェイスフル〔faithful〕なドン・キホーテ〔Don
Quijote〕の騎法である。
反復を「習慣」「記憶」「時間」の三つに配分したとき、ドゥルーズは、もっとも弛緩の極に近いと目される「習慣」においてさえ、すでに観照するたくさんの小さな自我の存在を看破していた。観照〔contemplation〕する自我〔self〕とは、われわれの言葉でいえば目である。反復の底にはたくさんの小さな目があるのだ。「聡くあれ、アリアドネー、/おまえは小さな目を持っている、私の目を持っている/その目に一つの思慮深い言葉を受け容れるのだ〔……〕/私こそはおまえの迷宮」(ニーチェ「ディオニュソス讃歌」守中高明訳を
hack して)。ナクソス島に流れツイた小さな目/eyes/Augen。見るツインズは岸辺に留まる。それは世界の限界である。小さな目の故にこそ、反復は、同じものを繰り返す弛緩した反復=複製から/複製のうちに身を反らし、手立て/立てた手の傍らをすり抜けて、異なるものの反復をなす。
われわれは、すでに二度「われわれ」と言った(これで三度目)。ゴンブローヴィッチの糾弾するように、「われわれ」は、多くのばあい「敬語的な一人称であり、それも一人称単数『わたし』に対する尊称である。〔……〕一見謙虚らしく見えるうわべの下に、自分だけが偉いという傲慢さが見え隠れしているのだ」(see
ヴィトルド・ゴンブローヴィッチ「日記/1953年」西成彦訳)。けれどもディオニュソスに力を受けていうならば、このテクストにおける「われわれ」とは、たくさんの小さな目の謂いであり、すでに三人称複数なのだ。複製から/複製のうちに身を反らし、手立て/立てた手〔tetatetatetate〕の傍らをすり抜けて、まるで新しく、こともなげに異なるものを反復せしめる小さな目/eyes/augen。反復においては、目(=われわれ)と複製とが畳み込まれている。
よく知られるように、クレタの大迷宮は一本道である。それは分岐せず、最外周の入り口から中心へと幾重にも巻き込みゆく。ただ一方に巻き込むのみならず、あるいは捩れ、歪曲し、別方向へと絶えず転じる。convolution(!)。つねに分岐を繰り返し、人を惑わす迷路とは異なり、迷宮は、平面をすみずみまで巡り(目繰り)、領野をくまなく踏破することを旨とする。これに人が迷うのは、巻き込まれゆくうちに自ら疑念を抱き、目の前の進路/退路に惑うためである。アリアドネーが授ける導きの糸は、疑念を払拭せんとする手立てであり、手繰ることはただの方便にすぎない。しかし、これなしには、人は進路=退路を「ただ見る」ことができない。われわれ(=目)の言葉でいえば、観照〔contemplation〕する小さな目たり得ないのだ。──いささか解明しよう。contemplation〔観照〕とは、con-〔まったき〕+temple,
templum〔神殿、神託を聴く場所、空き地〕を設けることである。空(うつ)ろな地=地(じ)の穴で、耳を聳(そばだ)て、目を開くことである。アリアドネーの糸玉は、観照する小さな目の巻き玉(なるほど彼女は小さな目を持っていた)、巻き込まれた空き地のセリー、迷宮に巻き込まれゆく巻き込まれた地(じ)の穴=穴の字である。
ベンヤミンの有名な一節を引こう。「複製においては、一回性と反復性とが同時に絡まり合っている」。すなわち、畳み込まれている〔convolution〕。だが、反復においてこそ、目と複製とが畳み込まれているのではなかったか。畳み込まれた畳み込み、convoluted
convolution (= self convolution)。反復性すなわち反復の力能は、「複製」を介して二重に畳み込まれることで(=
double convolution。self は double である)、反復をなすのだ。潜在的な力能のあらわれは、解明〔explication
= 襞 pli をひらくこと〕や展開〔development = 包み velop を解くこと〕によるのではない。畳み込みさらに畳み込むこと。巻き込みさらに巻き込むこと。ぐるぐるのぐるぐる。もちもちのもっちり。
それにしても──とわれわれは/目は/穴の字は言うだろう──この「複製」はあの「複製」と同じなのか。反復とその力能とを橋絡する「複製」は、反復の弛緩した極たる「複製」とは別ではないのか。異なる事態が同様に語られているのではないか。また翻って、この「反復」はあの「反復」と同じなのか。潜在的な力能のあらわれたる「反復」は、われわれが期した「反復」とは別ではないのか。ここでも異なる事態が同様に語られているのではないか。
しかし、それらは同じ言葉=字面(face)=字態である。では同じ字態が別用に語られているのだろうか。われわれはそのことをアナグラマティックに「アナグラム」と仮称した。だがそれはむしろ「古名(paléonymie)」と呼ばれるべきではなかったか。「例えばデリダは、『エクリチュール』という語を導入する。しかしその語は実は、もはや既存の哲学的二項対立、パロール/エクリチュール(話されたもの/書かれたもの)の対立に従わないものを指示するため用いられている。つまりここでデリダは、二項対立の外部を示すため、まさにその二項対立の内部に位置する古い名を維持し続けている」(see
東浩紀『存在論的、郵便的』)。──いささか展開しよう(たとえそれが潜在的な力能をあらわにするものではないとしても)。古い名、古名が、アナグラムなのだとしたら。弛緩の極にもっとも近づいた反復。もはや綴り変える(フェイスを変える)ことをやめた、もうひとつのハイファイなアナグラム。それはフェイス-古な
Quijote(記法-手)のキホー。
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