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up date 2004.9.29

1. ── (h)analogic 


 ではネガティヴ・ハンドからはじめよう。つまりは洞窟から。あるいは凹所から。その機縁を名指すことは、すなわち "hachinohe" と言うことは、われらが書き手に大きな助けとなろう。だがわれらが読み手にとっては? それにしても「手」とは!
 では洞窟からはじめよう。つまりは凹所から。あるいはネガティヴ・ハンドから。その機縁を名指すことは、われわれ読み手の助けとなろう。すなわち "convolution" と言うことは。だがわれわれ書き手にとっては?
 では凹所からはじめよう。今度はどこまでもこの凹所に沿って、すなわち遂にはこの溝を先駆けて──ということは溝であったのか、この「凹所」は──、引き摺る足であらたな溝を刻みつつ。

 いま、一方の足を引き摺るためには、もう一方がすでに踏み出されていなければならない。前方に、いや側方に──あるいはいずれに踏み出すともなく、その場から足を摺り出すか。だが摺り出すことは、引き摺ることに等しいだろうか──。もちろん引き摺るべきが片足とは限るまい。右足を前に左足を後に、左足を前に右足を後に。そのとき、いずれが「側方」に踏み出したことになろう。だが先を急げ、急げ。倒れ込み、地を手繰り、両足を引き寄せろ。右足を先に左足を後に、左足を先に右足を後に。そのとき「手」はどこについたのか。前方に、いや側方に。より端的には壁面に──ということは洞窟であったのか、この「溝」は──。「洞窟」が、「凹所」が、「溝」が、まさに読まれつつあるこの文だとしたら、引き摺る「足」はここまでたどりツイた目/eyes/Augen。それは世界の限界である。だが先を急げ、急げ。倒れ込み、壁を手繰り、両目を引き寄せろ。右目を先に左目を後に、左目を先に右目を後に。遂にはこの文を先駆けて、引き摺る目にてあらたな文を刻みつつ。

 目を壁の「手」に引き寄せて。ではネガティヴ・ハンドからはじめよう。とはいえわれわれは、先行する知見に付け加えうるほどのなにかが、まさに読まれつつあるこのテクストの、書かれつつある終わり(=EOF)までに訪れるなどと期待しているわけではない。だが先を急げ、急げ。引き摺る=先駆ける目にまかせ、いましばらくはこの凹所に沿っていこう。それを当面の、面(ま)の当たりの、目の当たりの、目あたり次第の手がかり、手あたり次第の目がかりとして。

 旧石器時代の洞窟壁画については既にほとんど説明を要さないであろう。すぐに想起されるのはラスコーやアルタミラの鮮やかな彩画(バイソン・馬・ライオンなどの動物画)であるが、むしろ指先あるいは石器類を用いて壁面に描いた線刻画が多い。ネガティヴ・ハンド〔negative hands〕は、岩肌に手を押しつけ、(口に含んだ)顔料をその上から吹きつけて輪郭を象(かたど)ったといわれる手の陰画である。顔料を塗った手のひらを壁面に直接押しあてて描く陽画=ポジティヴ・ハンドに比して(より多くの手間・時間・技術を要するにも拘わらず)はるかにその数が多いこと、またガルガスやコスケールの洞窟などに多くみられるように指の欠損に一定のパターンが認められるものがあることなどから、何らかの宗教的あるいは記号的な機能を担っていたとの説がある。また、記憶のシステムとの符合も示唆されている。(see 港千尋『洞窟へ──心とイメージのアルケオロジー』)

 先駆けて言う。ネガティヴ・ハンドは畳み込み〔convolution〕の痕跡である。それは壁画に対して内的な関係にあり、一方、たとえばバイソンは外的な関係にある。すなわちバイソンは別のバイソンでもあり得る。ひとつの壁画は、バイソンの大きさ、形状、布置を変えたところで、「別のバイソンが描かれた同じ壁画」であり続ける。ではネガティヴ・ハンドはどうか。その大きさ、形状、布置を変えてなお、壁画は「別の手が描かれた同じ壁画」であるだろうか。もうすこし見やすい言葉で。ひとまわり小さなバイソンを描くことと、ひとまわり小さなネガティヴ・ハンドを残すことの違い。バイソンにはサイズがない。さながら写真のように? だがサイズのない現実の写真があろうか。穴だらけのアナロジー、多孔質のロジック。

 わざわざ解明するまでもないが、convolution とは、共に〔con-〕回る〔volvere〕ことである。「回旋」や「うずまき」を指し、たとえば蔓植物が「からみつくこと」、「巻き込みつつ進むこと」をいう。「入り組んだ状況」「(議論の)まわりくどさ」も convolution という。「回旋曲」とはロンドである。ただ一方に巻き込むのみならず、あるいは捩れ、歪曲し、別方向へと転じることもある。解剖学では、脳皮質の襞の隆起部分=「脳回」を指す(それに対する襞の凹所を「脳溝」という)。数学上は「畳み込み」であり、二つの関数をそれぞれ別の方向にシフトしつつ掛け合わせたものの和(積分)である。──ここで一方が他方を、他方が一方を、それぞれの相を互いに巻き込みつつ、二つの方角に向けて進んでゆくさまを思うこと。このテクストの convolution を笑うこと。

 それにしてもなぜ陰画なのか。もう少し穴の言葉を続けよう。洞窟の闇の岩肌で、すなわち岩の闇の穴に沿って、バイソンは潜勢態にあり、ネガティヴ・ハンドは現勢態にある。岩と穴のあいだをバイソンが行く。「手」は繋ぎ留める錨〔anchor〕である。そのとき「手」はどこについたのか。壁面に、いや平面に。より端的にはバイソンたちが先駆けるその界面〔interface〕に。それは世界の限界である。ネガティヴ・ハンドは、顔料の層(陽画)ではなく、刻まれた線(凹所)ですらなく、それを象(かたど)る顔料は、着底する錨に引き摺られ周囲に堆積(反=凹所化)した岩の粒子にほかならない。対象と行為とが畳み込まれるとき、ネガティヴ・ハンドは文字通りの「虚ろな手」=顔料の穴として現れる。虚ろな穴であるがゆえにこそ、手たちは──negative "hands"、それが多数であることを忘れてはならない──、バイソンを闇の穴に繋ぎ留める。多孔質の穴、穴だらけのアナロジー。

 あわてて付言しよう。バイソンにしても他の動物たちにしても、実際には壁面の凹凸に即して描かれており(変質〔alteration〕と反復〔replication〕。see 港、前出)、いかようにも改変可能であるとは言い難い。だが先を急げ、急げ。けれども、こうして急ぐのは、わずかな、であるだけに決定的な瑕疵を等閑に付すことで、テクストの転倒を防ぐためではもちろんない──転倒不能なテクストなどトートロジカルな命題にすぎない──。いずれは遥かに振り返り、あるいは思いもかけず還り着き、今まさにわれわれがしているようにその虚をつくことが期待されるからである。ならば残るにまかせるのではなく、みずからその虚を(=穴を/錨を)打ち込むがよい。そして先を急げ、急げ。

 想像せよ。カフカ『流刑地にて』の旅行家が、カメラ付きケータイを携えていたと。兵士と囚人を従えて町外れの喫茶店を訪ねた彼は、テーブルの下に現れた粗末な墓碑を眺め、読みもせず──もはや読めなくなったのだ!──、そこに刻まれた碑文をカメラに収めた。兵士と囚人が知り合いに引き止められているのをいいことに、旅行家はひとり店を出て港〔port〕へ行った。ボートに飛び乗った。彼は舟底から「結び目のある頑丈なロープ」をとり、追ってきた二人を追い払うと、慣れた手つきでケータイを繰り、いつもの旅ブログに今日の写真をアップした。もう一点のセンコク写真とともに。
 つまり、ひとつは墓碑の写真、墓石に刻まれた碑文のイメージ。いまひとつは拷問の写真、背肉に刻まれた宣告のイメージ。線刻された bohy と宣告=線刻された body。

 ここでの問題が、放流したデジタルイメージのあり得べきネット流出でも、他者の苦痛へのまなざしでもないことは、もはや明らかだろう。先を急げ、急げ。結び目のある頑丈なロープ、解かれた舫(もや)い綱。すでに繋ぐことをやめ、振り回され、それはあとを追う二人を岸辺にとどめおく。兵士を右に囚人を左に、囚人を左に兵士を右に。見るツインズは、かつてボートを繋ぎ留めていた岸辺──それは錨にほかならない──のうえに、刻まれた線(=凹所/凹書)の側に押しとどめられる。それは世界の限界である。それにしても結び「目」とは!

 例の二重の禁止について語るデリダの言葉に耳を傾けよう。ただ目を走らせるのではない、文字通り耳を聳(そばだ)てて、あらん限りの符合〔coincidence〕を聴きとること。「──荒れ狂う〔déchaîné〕怒濤──というのも、ここで思考すべきなのは、……(略)……つまりは、この禁圧によって生ずる生産力を秘めた怒りであるからだ──そして、だからこそこの記憶喪失は活動的であり続け、いわばダイナミックで潜勢力を持つもの、たんなる忘却とは別のものであり続けているのだ……(略)……それはとどろき〔roule〕、まるで砂浜──それを私は知りすぎている──のうえの、すべてを押し流す波のように広がってゆく〔déroule〕。それはすべてを孕んでいる〔porte〕のだ、この海は──そして二つの方角にむけて、それは巻き込みつつ進んでゆく〔s'enroule〕。それは押し流し〔emporte〕、かつすべてを含んで豊かになる。それは運び去り〔remporte〕、持ち帰り〔rapporte〕、流刑に処し〔déporte〕、そしてみずからのもぎ取ってくるものによってまたしても膨れあがるのだ。頭〔tête〕のない資本の執拗さ〔entêtement〕……(略)」(see ジャック・デリダ『たった一つの、私のものではない言葉──他者の単一言語使用』守中高明訳)。境界〔interface〕に砕ける波。その飛沫を感じること。

 海の怒り〔anger〕をメ繰って、海の錨〔anchor〕へ。錨の博物誌。海錨〔sea anchor〕は、寄る辺なき洋上で荒天に遭いもはや航走が危険となったとき、船外に流される。それは海水の抵抗をうけ、船首を回して風浪に立て、船が横波をうけることを防ぐ。それは固定することではなく、共に押し流され、巻き込まれつつ進むこと。すでに繋ぐことをやめ、振り回され、引き摺られ=先駆けるものの速度を引き入れること。あるいは結託して速度「差」になること。ずれつつ遅れ、遅れつつずれ、倒れることのたやすさで手をのばし、そして先を急げ、急げ。つぎの波で卒然と取ってかえし、あるいは思いもかけず還り着き、虚に乗ずることを忘れるな。

 「手」はバイソンたちを繋ぎとめる錨であったのかと問うてみよう。むしろ彼らを潜勢力の元へと送り返していたのではないか。否。「送り返す」とは、現実的なものから可能的なものへと遡行することにすぎない(ホワイト・キューブ?)。潜在性に「送り返す」ことはできない。
 むしろ「手」はバイソンの(写真の)潜勢力へと向けて伸ばされていたのではないか。すなわち、すでに繋ぐことをやめ、振り回され、押しとどめる舫い綱をもって。かたどる顔料は、飛び散るしぶきにほかならない。
 だが、いま一度、取ってかえして。──手たちは、倒れることのたやすさで、届こうと伸ばされる。そのとき手はどこについたのか。前方に、いや側方に。われわれ読み手にあっては、マウスの上に。われわれ書き手にあっては、まさに打たれつつある3つのキーの上に。


EOF

 


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