「生きづらいって・・・・どういうことなんですか?」とランチタイムもとっくに過ぎた宮益坂のトルコ料理店で小さなグラスに注がれた紅茶をちまちますすりながら真顔で問うたのは友人 I 君32歳、家業は探偵である。数年前にはからだを壊して妻に去られるとの悲哀も経験し、昨夜はキャバクラNo.2嬢にいれあげた中年リーマン(40過ぎ妻子あり)の人生相談、さらには件のキャバクラに同伴し、見栄から社長を騙っているリーマンの太鼓もちをも務めたという彼であるから、人生の悲哀、人の裏表なぞ舐めつくしているはず、なのだが。う〜、んっとにタフなやつ!

そもそも香山リカの新刊『生きづらい〈私〉たち──心に穴があいている』(講談社現代新書)がかなり面白いよってことから話が始まったわけです。新書らしく読みやすい語り口ながら、この本はいままさに若い人たちにおこっている現象を的確に考察している。また同業の精神科医にむけてもやんわりと問題提起を試みるなど、教育や社会批評の現場にも身をおく著者の確かな経験と誠意がみてとれる好著なのだ。

繰り返し香山が強調するのは、「心に穴があいている」という感覚を抱え、自分の感情や思考の引き裂かれに苦しむ人、さらには自分がいくつにもバラバラになり、「どれが本当の自分なのだろう」と苦しむ人が、<境界性人格障害><解離性障害>とまでは言えないごく一般の若い人たちのあいだに急激に増えていること。

・・・そして、その中には、衝動的に相手や自分を傷つける行為にでたり、自己破壊的な行動を起こしたりする人もいる。それが問題なのです。

(第1章 「満たされない私、傷つきやすい私」より)

もしあなたが友人 I 君とちがって「心に穴があいている」「心が満たされない」という感覚におそわれ「生きづらい」と思い、極端な感情のあいだで引き裂かれながら毎日をおくっていてすっかり疲れきっているなら、あるいは「私とまわりのあいだに、膜がある感じ」とか、「遠近感が感じられなくて、景色が大きな板に書かれた絵のように平面的に見え」たり、「話していてふと意識が遠のく感じがして、あれ、この人、誰だっけ?とわからなくなってしまいそうになる」なら、この本を読んでみてほしい。

特に興味深かったのは香山が、<解離的な問題をもつ人>が90年代に入って激増した理由として「センサーが過敏になり、わずかなこともトラウマにしてしまう」「ネットの出現とともに心そのものが解離のメカニズムを簡単に発動させるように変わった」*1などをあげ、さらに今の社会システムは<ひとつの身体には、まとまりのあるひとつの自己>を前提としてできあがっているが、このままの勢いでは社会システムを変えざるをえなくなるときがやってくるかも、と予言しなおかつ、いくら社会システム側が変化し適応したとしても、臨床医の経験から、<彼ら>の苦しみの感覚は残るだろう、としていること。

・・・つくづく「人間とは、やはり心をひとつにまとめたい生きものなのだな」と思わざるをえません。・・・解離的なまま暮らしていくことも可能なはずなのに、「本当の自分」を探して戸惑い苦しむ彼らを見ていて、(略)少なくともまだ当分のあいだ、人間は「ひとつの心」を持っていたい、そしてその「ひとつの心」を引き裂かれたり穴があいたりした状態にではなく、なるべく満たされた状態にしておきたい(のだ)、と思うのです。

香山はこうも言う。

・・・最初は「生きるために」と自傷していたのに、そのうちふとしたことから本当に命を落としてしまう可能性がある(略)・・・もしかしたら人間は「本当の自分を見つけたい」と日常とは違った次元で自分の意味や意義を考え出すと、結局は日常を超越した次元に到達しなければ満足できなくなり、同時にそれは「死の次元」に足を踏み入れることににもなる──そういうことなのかもしれません。*2

ひとりの臨床医として、心に穴があいていると苦しむ若い人たちに未だ正しい処方箋を書けずにいると、正直に心情を吐露しつつ香山は巻末でこう勧めている。だれもがいつかは死という絶対的な世界に回収されるのだから、それまでの間はせめて、「死」を身近にかんじながらもそことは距離を置きながら、だましだまし<偶然>を生きてみないか、と。

カンディンスキーの見た絶対美*3に圧倒されるばかりが人生の意義ではありません。<心の穴>を抱えているからこそ出くわす<偶然>や<必然>を楽しみに、しばらくは「認知のゆがみをなおすトレーニング」などを地道に行いながら、少しずつ気持ちを修正していくのも悪いことではないのではないか。私はそう思っています。

うん、私もそう思います。地道に少しずつ気持ちを修正していくこと。それは、2004年の終わりにこそ、ふさわしい言葉でもある。


*1テレビで日々、流される末世的報道・・・大量の否定的メッセージに解離症状を起こしているのは若い人たちだけではないだろう。
*2香山がこの思考を導くにあたっては同業者の新宮一成の著書
「ラカンの精神分析」から一節を引用している。
「美しいものを前にした時、我々はその美が何から発しているのかを突き止めたくなることがある。美には我々をあざむく力があるのだから、我々はその力がどこから来ているのかを明らかにしたいと思う。しかし他方では、美のうわべを取り去ってその正体を見ることなどできないことを、我々はすでに十分承知している。もし我々が美の皮を剥いだら、そこにはラカンが<命のしかめ面>と言うような不気味なものだけが残されるだろう。」
それでも私たちがそこに行こうと欲望してしまう「美の彼岸」。それは「死の次元」にあると新宮、そして香山は言う。
*3香山はやはり精神科医である小川豊昭の論文を引用して、ラカンの言う「現実の彼方にある何か」に触れる体験とは、「言語を越えた経験であり、日常性を破壊し、主体に疑問を付すもの」で、それに触れるためにはカンディンスキーのように芸術的体験を通すか、あるいは「狂気」という形で向こうからこちらにやって来るのを待つかしかない、と説明している。カンディンスキーはある日の夕方、アトリエで置いてあった自分の絵の中に「現実を超えた何ものか」を発見するとの体験をしたという。