|
|
| トヨダヒトシの最新作「NA-ZUNA」part2を見終え、例によって白い壁にブランクの、ひかりの矩形が映写され、いささか上気した面持ちのトヨダが「これで、終わりです……」と言ったとき、わたしの脳裏に去来したのは犀角経の言葉「犀の角のごとく、ただ、まさに独り行くべし」だった。たまたま前日に押井守監督の「イノセンス」を観たためかもしれない。なにかと箴言を多用するこの映画のなかでも印象的なセリフ、もっともこちらは同じ仏典でも法句経23章「象」の詞章からの引用だそうで(ネット・サーフして熱心なファンのサイトで教えていただきました)、「象のシッポ」という作品もあるトヨダであるから、むしろこちらのほうがふさわしいのかもしれない。
孤独に歩め 悪をなさず 9.11当日のNYから始まるこの映像日記は翌2002年の9.11を経てほぼ一年の時間を記録している。NY市民として、日常の地続きに生じたあの不条理な出来事を記録したのち、トヨダは日本に帰国し、11年ぶりの<日本の秋>に迎えられる。母の闘病につきそいながら淡々とすぎてゆく日々。自分を家族として受け入れない飼い犬<旅>との日課の散歩。弦巻4丁目のなんてことない街路。病院。食卓で向かいあう父と母。二階の部屋からは老木が見える。それは桜の花びらを散らし、青葉を繁らせ、色づき、また裸木となる。 時には旅にでる。アメリカで親交のあるアーミッシュの人びとから、日本にアーミッシュの信仰と暮らしを実践している人たちがいる(!)と聞き、芭蕉の跡を追うがてら、ふらりと出かけた旅でほんとに彼らに出会ってしまう。あるいは日本海に面した「鎧(よろい)」という駅からさらに深い山奥にある修行寺へ。檀家をもたず、自給自足の畑仕事とひたすら座禅による求道を実践している、そんな寺。世界の果てからこの寺にやってきては、しばし畑仕事を手伝い、参禅し、また去ってゆく人々がおり、トヨダもここを知ったのはインドでの旅の途中であったとか。 それにしてもトヨダが写す人びとはみな、いっそすがすがしいまでの淋しさを湛えた瞳で笑っているなあ。そう言えば、その頃に自死した詩人矢川澄子さんのお別れ会のショットがさりげにあるのだけれど、トヨダは彼女の名をださず、ただ彼女の生前の言葉を紹介している。 ほんとうに淋しいひとは淋しがらない、と。 トヨダのスライド・ショーでは実際、プリンターで打ち出した文字を撮影してシロヌキに反転した<テキスト>も映写される。イメージの説明に陥らないように苦心しているようで──大阪城公園でホームレスたちが野良猫のためにつくってやったブルー・シートのミニ・テント小屋など、いっさい説明がないのであのときpgで観ていた人たちには誰にもそれとわからなかったかも──映像に投げ込まれる言葉は、寡黙で、それでいてふいっと核心をついてくる、つまりとても詩的だ。安泰寺での豆腐づくりのシークエンス。斜めにしたまな板に載せて大豆の選り分け作業を行うショットにはただ、ぽーんとこんな感じ。 まるい豆だけころがり落ちる。 最新作「NA-ZUNA」はPART1 PART2
あわせて一時間半になる長さとふたつの死、との物語性が色濃いために、あたかも一本の<映画>を見終えたような印象がこれまで以上に強い作品だ。カシャっというプロジェクションの音以外はいっさい無音の緊張感、作家がすぐ側で操作しているとの濃厚なインティマシー(親密さ)は、かつての8mmによるインディペンデント・フィルムを別にすればもはや映画にはないもので、その場限りの一回性においては映画以上にレアな、まさにトヨダが望み、スライド上映のあと必ず述べるごとく、イメージは「消えて、流れてゆく、あたかも人生のように」。
|