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「作家という存在は、社会から離れてあるのではなく、
ある時代の、あることばを話す人々の考え方やぼんやりと
抱えている意識を形にして提示する。だから本当は完全な
独創というものはありえない。」 井上ひさし
前述の発言は、もともとは著作権をとりまく昨今の問題に関してなされたのであるが、かつてこの「写真感情」で私がアーチストとは政治的な存在である、と述べた意図と同じものが根っこにある。アーチストは言わば炭鉱のカナリアのように、時代の兆しに真っ先に感応し、人々に宣託を告げてしまう存在なのだ。(よき預言者ほど疎まれる、との側面もあるだろうが……)
「私たちと(人質)3人は地続きの仲にあります。」
池澤夏樹
遅々たる更新でpgには何かとご迷惑をおかけしているが、もともと3回にわたって長々と続けてきたこのタイトルの、おおもとの思いとは、自衛隊のイラク派兵が十分な議論なしに決定された後の我々の覚悟、「明日、通勤列車が爆弾テロにあい、その犠牲者となる覚悟ができているのか?」という問いかけであり、自身への自問であった。山手線のプラットフォームとイラクがつながっていることを、いったいどれだけの人が実感できているだろう?
この文章を綴っているいま、未だ誘拐された3人の日本人は解放されておらず、ネット掲示板には人質や家族への心ない中傷ばかり書き込まれている。自己責任、だとか私たちの税金の使われ方、などが彼らのお気に入りのタームだが、もともとこれらの用語がリストラや金融破たんの目くらましに使われてきた経緯を思うと、ネット世代の人びとの操作され易さには暗澹としてしまう。
「災難に逢う時節には災難に逢うがよく候。
死ぬる時節には死ぬがよく候。」
良寛
これは俳人良寛が、地震お見舞いをいただいた知人への礼状に言ってのけた言葉だとか。イスラエルやパレスチナの市民でなくても「朝、家を出て夕方無事に帰宅できる保障がない暮らし」が我々の生の本質であるかもしれない。他の獣たちとおなじく、現前の今、を生き抜くしかないのだ、本当のところ。
とは言え、天災と戦争ではやはり事情がちがう。戦争はおこしてはならないものであり、おこさないためなら、我々は時にはしたたかになり、ころころと信条を変えることも辞さず、悪知恵ですら使うべきなのだ。
戦時にあっては、見えないものを見ようとしたがるアーチストなど無用、それどころか見てほしくないものを見てしまう有害な存在としてまっさきに駆除されるかもしれない。また実際のところ、生命の保証すらない現場にあっては、アートなぞ、なんのたしになるのだろう?
それでもわたしはテレビ報道で知った、パレスチナの少年を想う。彼は家族を養うために野鳥を捕らえて売る生業をしていたが、テロリストと<見間違えられ>射殺された。家族はインタビュアーに語っていた。
彼は家族のために鳥を追っていましたが、鳥を愛し、なぐさめを得ていました……と。
戦場にあってすら、満たすべきこころの餓えは、ある。
「仲間うちのささいな食い違いなど乗り越えて、
ひたすら書いたり演じたりを、休むなくこと続けていくんだ。」
──エドワード・W・サイードが俳優である娘に遺した言葉より
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